于山島が竹島/独島でない10の理由 【竹島/独島】

于山島が竹島/独島でない10の理由 【竹島/独島】
|  1343|5 1677581| globalexplorer | 2007.12.29 22:11:17  

今年一年の纏めとして、元旅行地図書きとして、素人地図と大して変わらない竹島/独島問題の地図について書き記しておきます。

于山島が現在の竹島独島でない10の理由

 0.竹島一件(安龍福)以前の于山島は、鬱陵島と朝鮮半島の間の、南西部、西、北に有る意味不明の島。


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見ればわかるとおり、朝鮮は于山島をろくに認識していなかった
竹島一件以降(安龍福)、朝鮮側は検察使を頻繁に派遣するようになり、地勢の把握を行うようになる。
調査報告により詳しい鬱陵島の地図が出来始める。
* 1.1699年及び1702年、鬱陵島検察使により製作された鬱陵島圖形には、大きな于山島(大于島)と小さな于山島(小于島)の記載が有る。 [#vfba3d19]

韓国中央博物館所蔵の地図(左)中の小于島は、今日の観音島に完全に島の形状が合致する。
また三陟博物館所蔵の地図(中央)内の小于島は、二つの洞窟が書かれており、やはり今日の観音島と一致する。
残る大于島だが、観音島との大きさ、相対的な位置、欝陵島に隣接している事を考えると、現在のJUKDO竹嶼と考えるのが自然。
現在の竹島/独島は、二つの岩礁から成り立っており、さらに外洋遠くにあり、鬱陵島が書かれている全ての朝鮮の地図との整合性が取れない。
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詳しくは、Naver Mapにおける観音島と竹嶼とこれら地図の形状を参照

 2.1711年の鬱陵島圖形には、于山島には竹が生えていると書かれている。


 さらに、1696年の鬱陵島事蹟には、東方五里に竹が生えている島が有ると書かれている。
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皆知っているが、現在の竹島/独島には、竹は生えていた記録はない。

jukdo竹嶼に竹が生えていた記録はある。

詳しくは、OCCIDENTALISM Mr.Gerry Beversの投稿を参照すべし


 3.鬱陵島の詳細図には、日本人が鬱陵島北東部に住んでいた事を強調している地名-


 つまり倭舡艙が、北東部に記載される。この倭舡艙は、主に
  1.于山島に倭舡艙が有ることを説明している地図。
  2.于山島の対岸にある場所が倭舡艙であるとを示している地図がある。
   (現在の石圃Sokbo付近。天府洞や臥達里の付近)
 に記載されている。

 安龍福は、于山島は鬱陵島の北東部に有る島と言っている。そして、その北東部に有る倭舡艙の対岸にある島は”于山島、即ち竹嶼JUKDO.

 この事を考えると、安や朝鮮側は、現在のJUKDO竹嶼に該当する于山島を、「倭の松島」と誤認識していたと思われる。(本当の倭の松島はもちろん現在の竹島/独島の事である。)

 この北東部および于山島である竹嶼を利用、滞在している日本人に抗議する意味合いで、1711年に刻石立標をたてた。1750年以降の地図からはもう倭人は鬱陵島北東部に居ないため倭舡艙は強調されなくなるものの、以降も鬱陵島詳細図には刻石立標は残っていく。

 しかし竹島一件以降、于山島即ち竹嶼や倭舡艙-天府洞から日本人の姿は消えても、

 日本人は松島である現在の竹島/独島を引き続き利用していたのである。
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 4.鬱陵島の詳細図には、皇城新聞に記されているような、附属小六島が記載されている。


 即ち、名前が付いている最も著者な附属島である于山島(1島)
 そして、南部に書かれた小さな5島(5島)
 1+5=6 即ち附属小六島の正体はこれである。
 この南の5島は金正浩による1861年の大東地誌にも記載が有る。
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 5.上にも記載したが、皇城新聞の于山島竹島は、JUKDOの事であり、一島二名の事である。


 最も著名な附属島の名称である于山島、そしてその別名の竹島(JUKDO竹嶼)を示している。
 于山島と竹島(jukdo)と、二つの島を表しているわけではない。
  まず、于山島竹島のあいだに句読点がない。しかし、後に続く所産品に紹介では区別を付けるためにそれを使用している。

  また、”最も”著者であるといっていることから、”最も”とはTop、一つを示している。

 6.主に18C以降に鬱陵島の東側に記載された于山島は、上記4.5に述べた鬱陵島詳細図における附属小六島の中で最も著者な于山島、即ち竹嶼を書いている。


もちろん于山島即ち竹嶼は一島であり、現在の竹島/独島は二島であり、于山島は独島ではない。この形式が機軸となって、1900年の大韓輿地図まで続く。

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 7.1899年の大韓地誌、1900年の大韓輿地図、1901年の大韓地誌に于山は記載されている。


 これらの地図も、結局は鬱陵島の詳細図を簡略したもの。
 4.5から判る様に、是等地図における于山は、1901年の時点でも現在の竹嶼である事がわかる。 

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                鬱陵島詳細図⇒簡略化

 8.1903年の韓国水産誌には、現在の竹島/独島に該当する島を、韓国人はリャんこ島と読んでいる。


 この後1904年の戦艦新高の日誌には「韓人之を独島と書す」、と記録はあるが、現在の竹島独島を于山島と呼んでいた記録は皆無。

 9.1903年頃、鬱陵島の西面の住民が、無人島の于山島へ移民団を募集、捜索するも発見できずに中止している。


  少なくとも1903年頃は韓国人は現在の竹島/独島をりゃんこと呼んでおり、存在を知っているので、もし現在の竹島/独島が于山島であるならば、そのような島の捜索は行っていないであろう。

(每日申報 1913.6.22) 

鬱島郡 西面居 金元俊은 鬱島 東北方 4, 50里에 位置하는 于山嶋(無人島)에 移住코자 移住民을 募集하고 探索키로 決定하였으나 10數年前 同地 韓國人이 聯合 探索하였어도 發見치 못하고 海圖에도 없으며 現時 航海路가 頻繁한데도 이를 現認하였다는 일이 없다하여 中止하다.

 10.朝鮮の領土の東限を記した記録は、書籍によって多少の誤差は有るが、


 東経130度35分から130度58分であり、この事から、現在の竹島/独島は東経131度52分であるため範囲外であることがわかる。

 于山島即ち竹嶼JUKDOは、この130”35-130”58に有る島である。 これは、上記1から9までの条件と合致する。

とにかく、Naver Mapで、竹嶼と観音島の形を、上記の竹島関連の地図に照合してみよ。

韓国側は、于山島にたいする歪曲主張を繰り返し
日本側の様々な発見がでるたびに、それをごまかすための歪曲を更に繰り替えす。
故に、筋が通らないのは当然必死.

それは、韓国側は、ただ単に時間を稼いでいるからである。
そうすれば日本は諦める、とタカをくくっている。

しかし、新資料の相次ぐ出現に、日本側の研究はますます加速する。
今後さらに団結して新成果を引き出すだろう。

そして、韓国政府を国際司法裁判所に引きずり出す。

IP xxx.88.xxx.99

  • 最終更新:2009-03-01 14:56:22

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