任那日本府説(任那日本府説) 3

任那日本府説(任那日本府説) 3.打つかも(七支刀)と任那日本府(任那日本府) | 伝統 22|0
96301| koguryoempir | 2008.12.29 15:14:04  


 




二番目で日本人たちが提示している任那日本府説(任那日本府説) また一つの根拠である打つかも(七支刀)に対して調べよう.

打つかも(七支刀)は逃身(刀身) 左右両側に刃が三つずつ枝のように伸びているから付けられた名前だ. 長さは 75cmの鍛鉄として李ソノ加美神宮[石上神宮]にさびがついたまま放置されて伝えて来てから, 1870年代に神宮のデスングサであったスがマサドモ[菅政友]さんによって名門(銘文)が解釈された. 前に 34さあ, 裏に 27さあ, 総 61字になっている.

日本人たちが名門(銘文)を解釈した内容を見よう.

泰和四年月十一日 丙午正陽 造百練七支刀 生劈百兵 宣供供侯王 ????作

'胎化(泰和) 4年 4月 11日丙午(丙午)の日静養(正陽)に百回を月だね鋼鉄に打つかも(七支刀)を作った. これは百人の軍事を充分に退けることができるからフワング(侯王)らに施して供給するに値する.'

先世以来 未有此刀 百滋王世子 奇生聖音 故為倭王旨造 伝示後世

'先世(先世) 以来このような刀がなかったが百済の国王と王世子が声音(聖音)に頼って暮したので, 倭王(倭王)認知(旨)のために作ったから後世(後世)に道が伝えるようにしなさい.

そしてその刀を捧げた百済の国王は草稿王(肖古王)で頼って暮した数えようという鬼手(貴須)とも言った. そして日本書紀(日本書紀)に出る打つかも(七支刀)がまさにこの刀だと主張しているのだ.

胎化(太和)はすぐ中国トンジン(東晉)の年号なのに, これを根拠で製作連帯を算出して見れば 369年が出る.

参照で韓国歴史上最初の年号を使った帝王は高句麗の光ヶ土豪太王(広開土好太王)で 391年に即位しながらヤングラック(永楽)という年号を使った. その以前あるいは年号がなかった国々はこのように中原王朝の年号を使ったのだ.

この時は先立って言及したように近肖古王(近肖古王) 在位時代で百済が一番剛性した時だ.

しかし上記年度に対しては異見がある.

ねたみ出版社の '肉(古記)で見た韓国古代史'を著わしたハンスングン(韓順根)さんの主張を参考する必要性がある.

"...百済国王が神功王后(神功王后)に打つかも(七支刀)を与えた時期に対して日本書紀(日本書紀)では神功王后 52年で書かれていて漆紙島には '泰( )四年'で書かれている. 旧態百済(九台百済)が建国された西紀 204年 10月頃から野馬大リーグ[邪馬台連盟]が崩壊された西紀 247年の間中国の年号の中で '泰( )四年'で見られる年度は上(魏)国の '太和四年(西紀 230年)' だけだ.したがって '泰( )'はウィナラの年号で, 旧態百済王(九台百済王)が神功王后に漆紙島を与えた年号はウィナラの '太和四年'だ.(太と 泰は一緒に使われる.)

ところで一部史学者たちは打つかも(七支刀)に書かれている '泰( )四年'をトンジン(東晉)の '太和四年(西紀 369年)'と主張した. こちらたちは漆紙島に関する内容が出る神功王后期(神功王后紀) 52ニョンゾに '孫チムリュワング(枕流王)に早い...'という文具が出て, チムリュワング(枕流王, 在位 384?385年)の祖父が近肖古王(近肖古王)であるのに根拠して百済が神功王后(神功王后)に漆紙島を与えた時は近肖古王の治世(治世) 時であって, 近肖古王は西紀 346年から 375年まで在位したので, '泰( )四年'はトンジン(東晉)の '太和四年(西紀 369年)'が間違いないと主張した. しかしこれは神功王后期 52ニョンゾの 'そして孫であるチムリュワングに早い...' 以後文具は '後代に加筆されたこと'という事実を理解することができなくて起きた錯覚だ...'

とにかく日本人たちはこの打つかも(七支刀)の名門(銘文)を根拠で日本書紀に記録された連帯を修正したりした.

日本人たちが喉がつまって情事(正史)と叫びたてる日本書紀(日本書紀)がおおよそ 120年という誤差を見せているという話だ./FONT>

したがって日本のナムソンギョングヤングでは(南鮮経営論), すなわち任那日本府(任那日本府, 369?562年)お正月は日本人たちが主張するように日本書紀を出発点にして漆紙島という実存する証拠物まで確保したわけだ.

それならこれに対する反論はどうか?

第一, 前に刻まれた名門の中に 'フワング(侯王)'という単語が出る. フワング(侯王)と言う(のは)言葉とおり諸侯(諸侯)を意味する. 皇帝(皇帝)が藩国(藩国)議旺(王)にも使う呼称だ.

日本人たち言葉とおりなら百済で進上したという品物に軍国(君国)の君主が神国(臣国)の君主に使うフワング(侯王)という表現が書かれているという矛盾を現わしてしまう.

それなら反対に倭王(倭王)は百済(百済)の諸侯(諸侯)で打つかも(七支刀)は日本が百済の従属国(従属国)だったという逆証拠(易証拠)になるわけだ.

意味がこのようなのに日本人たちの論理大道ならこれは俗っぽい言葉で花札版でザングテングがタラジにクッバルが滞るという話と下等違うところがない.

各説して, 日本人たちはこのフワング(侯王)の位相に対してどんなふうでも弁論がなければならないだろう.それとも打つかも(七支刀)が百済の国王が倭(倭)の国王に捧げた真相品(進上品)だったという仮説を撤回するとか...

第二, 裏に刻まれた名門の中に芸者声音(奇生聖音)と言う(のは)文句が出るのに, 彼らの解釈に付こうとすると '百済(百済)の皇太子(王世子)が声音(聖音)という者に頼って暮した.'と解釈になる.

ところでここでの期(奇)者を漢字玉篇で捜してみれば '奇妙な期[奇]'字で出る. 一方日本人たちが主張する '寄生する(頼って暮す)'とする時の漢字文字は '送る期[寄]'字だ.

期(奇)瓦器(寄)は布地(天)果枝(地)の差程おびただしい. これはその頃百済の漢学(漢学) 水準が分からなくてもあまり分からない無知(無知)の招いた結果だ. したがって芸者声音(奇生聖音)と言う(のは)奇妙に誕生した声音(聖音)と解釈すると正しい. 高句麗の詩調(始祖)である朱蒙(朱蒙)と新羅の詩調であるヒョックゴセ(赫居世) などの卵生説話(卵生説話)のように凡夫(凡夫)と違う奇妙な生まれ[奇生]を強調したと見える.

それとも芸者声音(奇生聖音) 全体を固有名詞で一つの名前で見ようがとにかく単語解釈上百済の皇太子を指称する言葉で見ることが妥当だ.BR>
そして常識的でも全盛期を迎えてしばらく国勢(国勢)を拡張させて行く近肖古王(近肖古王)の太子が何が息苦しくて他人の家に行って気付きご飯を食べて行って芸者生活(寄生生活), すなわち頼って暮したという話か?

'展示(戦時) 状況だから危険と慌しくてしばらくそうだった地図分からないじゃないですか?'

こそ目を覆ってアウングする式だ.

あの時の電線(戦線)は江原道と黄海道地域まで北上していたし, その上に近肖古王(近肖古王)が平壌城(平壌城)まで進撃して高句麗の故国院王(故国原王)を戦死するようにして高句麗はその後小樹林王(小獣林王) 時まで体制整備と管理養成, 仏教の収容など主に内治(内治)にだけ気を使うようになる.

おかしな話に一部屋なぐられて今に見ろしながら尻っ方抜けるように逃げだしたのだ. 後日をはかるためだ.

ところで危なくて他人の家に行っているなんて...? 言葉尻を捕らえようとするとこれこそ危険千万な事に違いない.

万が一百済, 日本両国の政治状況が急変する場合時の人質になる可能性があるからだ.

最悪の場合百済の選択はもちろん国家のために小さなことをあきらめるがその苦痛は少なくないだろう.そういう危険性もあり得るという話だ.

このように史料がないとかあっても充分でない状態で一方が一方的に非論理的な仮説と当て推量だけで一貫したら半々の仮説を設定しておいてお互いに減らず口を使うしかないだろう. ところがその最終終着駅は一番常識的で状況論理に一番充実な方法であるでしょう.

娘が子供を姙娠しても理由がある. 死亡者はものがないが幾多の墓の中いち凡夫で不世出の英雄豪傑まで一つ一つ事情たちがあるでしょう. まして国家と国家の間に起る歴史は言って何しようか!

第三, 最後の句節である展示後世(伝示後世)の用法を見よう.

が言葉は軍国(君国), あるいは宗主国(宗主国)の君主が神国(臣国), あるいは従属国(従属国)の君主に品物を下賜(下賜)する時書かれる表現だ. すなわち良い品物だから看守がお上手で長さ長さ保存しなければならないという当付の意味が含みされた表現だ.

軍国(君国)の治者に書く言葉では礼儀にかなわない用例(用例)だ. すなわち献上すればいいでしょうそこにしっぽをつけることはできない事で, 保管している途中他人にまた贈り物で与える場合もある問題だ.結局用例上強要の意味が内包された下待(下待)する語法で見なければならないでしょう.

しかし何より重要なことは任那日本府説(任那日本府説)をおいて起る韓,日間の論争が完全に本末(本末)を覆しているという点だ.

日本書紀(日本書紀)では日本が新羅と伽揶を含めた 7ヶ国を平定してその一部領域を百済に与えたので, ここに百済国王が永遠な服属を誓いながら打つかも(七支刀)を献上したと記録されている. ところでいざ打つかも(七支刀)の名門では百済の皇太子が日本で頼って暮したので漆紙島を献上したとなっている. これは先後が当たらない話だ.

常識的に考えて見よう.

日本書紀の記録を認めて百番(回)譲歩して日本が新羅と伽揶を含めた 7ヶ国を平定してその一部領土を百済に与えたと梔子. それなら百済としては並大抵なめっけ物に違いなかったはずだ. その一部がどこまでかは分からないがそれは自称利口で東アジアで一番優越だと言う日本人たちに任せて...

一応 2,3ヶ国家を与えたと仮定して見よう. 一国が 2,3個地域の小国(小国)を平定しようとすれば蔵にある刀ない刀皆集めて, 争うことができる壮丁たち皆集めて, 山過ぎて水向こう歩いて紫根面休んで行ってそうして日が暮れれば寝て再び日が昇れば矛と刀持って出て何日何年になるか争わなければならない.このような過程の中で 2,3個の国をそのまま得たから百済としては夢の中でもありがたかったはずだ.

それなら金銀宝華も持って捧げて急いで言葉や文としてその内容に対して直接的な言及をしたはずだ. ありがとうでもそれともこれから本当に上国(上国)で仕えるとか...

ところでこれがどうした事か? 打つかも(七支刀)の名門(銘文)はそんな内容ではなかった. 皇太子一つが他人の家に行ってご飯器いくつ減らしたとありがたくて漆紙島を捧げると? それもどの物置の中にあった刀ではなく先代になかった刀を新たに誠をこめて作ったと言った.

すなわち, 日本書紀(日本書紀)で言う打つかも(七支刀)と現在日本人たちが史料で提示した漆紙島の内容がお互いに行き違っているというのだ.

先立って記述したように歴史は常識的な人間が作って行く常識の記録だ. その行動の記録であってその以上もその以下でもない. 常識に行き違う歴史は一人もない. そんな理由があって蓋然性がある.

それなら今でもこの刀がその刀ではないと学問的に繰り返し変更をすればいくないか? 時代的状況や語法的な面でもそんな非常識的な証拠物を続いて固執する理由はあるか?

日本人らしいずるさを十分発揮して遅れたが学者の良心をいかして "日本学界がとても性急だった.正確な考証なしに学説を開進港のようだ. 今この瞬間日本書紀(日本書紀)で言う打つかも(七支刀)と今保管中の漆紙島は別個の物だ. そして今保管中の漆紙島はこれからもっと研究するでしょう."と言ってはいけないか?

しかしそれはどういたしましてだ. 真実ですまない話だがもう零れた水になってしまった.

過去日本ミリタリズム侵略者たちをそのように興奮させた打つかも(七支刀)が任那日本府説(任那日本府説)の二番目根拠として百余年以上君臨している途中その根拠を喪失して歴史のハプニングで消えなければならない運命に処するなるからだ. これと同時に日本書紀(日本書紀)の史料としてのネーム・バリューもいっしょに細くなる結果をもたらしてしまう.

日本人たちが証拠物をもっての漆紙島をソルホック撤回すると言っても漆紙島が日本書紀に及ぼした影響は絶対消すことができないからだ.

すなわち, 漆紙島は一人だけ歴史の舞台で消えるのが悔しかったのかそれとも事必帰正(事必帰正)なのか, 逃身(刀身) 裏に1行遺書を書いておいた.

まるで自分のレゾンデートルを確認受けようとするように, 先世以来 未有此刀とくぎを打ち込んでいる. 主旨するように '以前にはこのような刀がなかった.増えた意味なのに, すなわち胎化(泰和) 4年(西紀 369年) 以前には打つかも(七支刀)というのが存在することができないという話になる.

おこがましいことはこのような漆紙島に根拠して日本書紀(日本書紀)家庭事(正史)としての権威も気勢がくじけたままおおよそ 120年という歳月を修正した我田引水(我田引水)的な詐欺(詐欺)を思い出す必要がある. たとえ日本人たちが良心を取り戻して任那日本府説(任那日本府説)を撤回, 打つかも(七支刀)が歴史の舞台で消えると言っても連帯だけは確かに残る体たらくになった.

が書き入れ時で日本人たちはひどい自家撞着(自家撞着)に抜けるようになるでしょう. 言葉とおり痛しかゆし(進退両難)ではないか?

一方打つかも(七支刀)が消えなければならない運命が何に根拠したのか? 常識的に適当ではないという理由のためではなかったか?

すなわちそれを製作した同期が相異なっているという点, 日本がむしろ百済の従属国(従属国)だったのを示唆するフワング(侯王)という意味, そして期(奇)という字に対する我田引水(我田引水)的な解釈, また展示後世(伝示後世)の用例(用例)がそれだった.

常識的な解釈でも当時状況で見る時, 全然理に適わない.そして日本書紀がかきわけて聞いて行かなければならない時代幅もいっそう細くなるようになった.

結論は大きく二つに集約されている.

第一, 日本人たちの主張どおり, 日本のナムソンギョングヤング(南鮮経営)が始まる西紀 369年以前には打つかも(七支刀)というのがない.[先世以来 未有此刀]

第二, 日本人たちの主張どおり, 任那日本府(任那日本府)という官庁が韓半島南半部に建てられた時期はあいにくにも百済が一番剛性した近肖古王(近肖古王, 在位 346?375年)の在位時代だったし, 引き継いで高句麗が一番剛性した光ヶ土豪太王(広開土好太王), 長寿太王(長寿太王)の在位時代だったし, 引き継いで新羅が韓半島三国の主役で徐徐に頭をあげる法興王(法興王), 真興王(真興王)の在位時代でもある.

したがって日本書紀(日本書紀)は一言でチォンムワング(天武王, 673?686年)が日本国と日本王室の権威を立てるために百済と韓半島の歴史を意図的に捐下した外史(野史)に過ぎない.

すなわち編纂当時小児(蘇我) 家門と百済の勢力の下で歴史的縁切りを強調することで新しく誕生した政権の鮮明性を新たにつくるという大命制があったとしても全体的に見れば稚拙な嫉妬心に目がつぶれた日本人たちの劣等感が歴史歪曲という極端的な身震いに表出されたことその以上その以下でもない.BR>
朝鮮時代の竜飛御天歌(竜飛御天歌), 明治時代[明治時代]の日王神格化(日王神格化), 北朝鮮の主体思想(主体思想), 第5共和国時代の 'ファングガングから北岳まで'.... どう思えばこの位は愛嬌という考えさえするようにする.

ただこのごろ日本右翼勢力の歴史教科書歪曲を見ながら古今を貫いている日本人たちの劣等感と編輯症に対して激しい憐愍を禁ずることができないだけだ.

先立って指摘したように歴史に家庭法と言う(のは)ありえない. それは人間の小望日だけ全然立つ席がない. 単純な仮説以前の段階として論理に近付いて行く一種の道具で使うことであるだけだ. したがって歴史に対する絶え間ない会議を通じてもうちょっと事実に近づいて行くように歴史に対する家政科反問を通じて過ぎ去った歴史を教訓にしようとするだ.

歴史をただ過ぎ去ったことくらいで易しく見ないで鏡にして現在を照明する燈で認識しなければならないでしょう.

そんな側面で国家と国家の間に繋がれた史実(史実)を共通集合で見ないで部分集合で解釈することで自国の優越感だけ満たして大陸侵略を政党化させようとする論理にだけ認識したら, 隣りの不幸は勿論だが結果的に日本民族全体の犠牲を呼んで来るという点をひしひし感じなければならないでしょう./FONT>

過去無条件降参と同時に日本のミリタリズム侵略者たちがひざまずいて命を物乞いした卑屈な姿, '本音(本音)'と '他テーマに(建前)'を便宜どおり混ぜっ返す日本人たちの二重性が浮び上がる.

出処; 理性学(李聖鶴) 著述 '朝鮮日報と任那日本府説'

{引き続き}



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tarokotaroko|12-29 16:28       


七枝刀は372年、百済が倭国に送った!。その刀は石上神宮に現存している、七枝刀の表には「「東晋の太和4年。→369年の日付が刻まれ、裏には27文字の銘文が有る。「先世以来 未有此刀 百済王世子 貴生聖晋 故為倭王旨造 伝示後世」と、記されいる。意味は→貴須は晋の聖世に生まれあわせたことを有り難く思い,特に倭王の為に命令をして、この刀を作らせ、後の世までの記念とした」 倭王の為に」の意味は369年倭国の「荒田別・鹿我別」が、百済と組、新羅を撃った。洛東江流域7国・全羅道康津を征服して百済に与えた。この同盟を記念して七枝刀を造り倭王に献上した。


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任那日本府説(任那日本府説) 4.ヤングラックギゴングビムン(永楽紀功碑文)と任那日本府(任那日本府) (2) [1] 
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TITLE:言葉も国境も越える!日韓リアルタイム翻訳掲示板 enjoy Korea
DATE:2008/12/29 18:18

  • 最終更新:2009-03-06 12:29:22

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