太宗実録と世宗実録地理誌の『于山島』1
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太宗実録(太宗実録) 圏33,太宗 17年(1417年) 2月 5日(壬戌)組
按撫使金麟雨 還自于山島 献土産大竹水牛皮生苧綿子検樸木等 物 且率居人三名以来 其島戸凡十五口 男女并八十六 麟雨之往還也 再逢 風 僅得其生.
按撫使(按撫使) キム・インウ(金麟雨)が傘も(于山島)から帰って来て物産(土産物)である大おかゆ(大竹) スウピ(水牛皮) 生苧(生苧) 面刺(綿子) 倹朴目(検樸木) などを捧げた.またその所の居住民 3人を従えて来たが,その島の湖[戸]は 15球(口)です,男女を合すれば 86人だった.キム・インウが行ってから帰って来る時に,二回も台風(颱風)に会ってやっと生き返えることができたと言った.
上の文を見れば,凍ったよう, 傘も(于山島)が湖 15球に,住民が 86名の島に記録されていることのように見える.したがって,日本側では傘も(于山島)は独島ではなく, 竹刀(Chukdo)や,鬱陵島のまた他の名前という根拠で提示する資料だ.しかし,もちろん誤った解釈だ.
上の記録より 1年 7ヶ月の前の太宗実録圏32,太宗 16年(1416年) 9月 2日(庚寅)條を見よう.
以金麟雨為武陵等処安撫使戸曹参判朴習啓 臣嘗為江原道都観察使 聞武陵島周回七息 傍有小島 其田可五十余結 所入之路 通一人 不可 行 昔有方之用者 率十五家入居 或時倭為寇 知其島者 在三陟 請使之往見 上可之 乃召三陟人 前万戸金麟雨 聞武陵島事 麟雨言 三陟人李万 嘗往武陵而還 詳知其島之事 即召李万麟雨又啓 武陵島遥在海中 人不相通 故避軍役者 或逃入焉 若此島多接人則 倭終必入寇 因此而侵於江原道矣 上然之 以麟雨為武陵等処安撫使以万為伴人 給兵船二隻 抄工二名 火 火薬及糧 往其島 諭其頭目人以来 賜麟雨及万衣笠靴.
キム・インウ(金麟雨)を武陵(武陵) 等地按撫使(安撫使)にした.好調参判(戸曹参判) バックスブ(朴習)が申し上げるのを,"神さまがかつて江原道ドグァンチァルサ(江原道都観察使)である時に入ったが,武陵も(武陵島)の周回(周回)が 7食(息)で,そばにソード(小島)があって,電池架 50余きめ(結)になるのに, 入って行く途中がやっと限り人が通行して並んで行く事はできないと言います.昔に防止用(方之用)と言う(のは)者がいて 15街(家)を従えて入渠(入居)してあるいは時にはがウェ( 倭)として盗みを働いたと言います.その島が分かる者が三尺(三陟)にあるから, チォングコンデ,その人をさせて行って見るようにしてください."したら,
賃金が正しいと思って三尺人前万戸(万戸) キム・インウ(金麟雨)を呼んで武陵島の仕事を聞いた.キム・インウが言うのを,
"三尺人これで(李万)がかつて武陵(武陵)に行ってから帰って来てその島の仕事を詳らかに分かりました."
したら, すぐこれのみを呼んだ.キム・インウがまた申し上げるのを,
" 武陵島が遠く海の中にあって人がお互いに通じることができないから軍役(軍役)を避ける者がもしか逃げて入って行きます.万であるこの島にズゾブ(住接) する人が多ければ外敵が終わらせる必ず入って来て盗みを働いて,これによって江原道を徐徐に侵して行くでしょう."した.
賃金が正しく思ってキム・インウを武陵等地按撫使にしてこれで(李万)を半分の(伴人)にして,兵船(兵船) 2尺,梢工(抄工) 2人,人海(引海) 2人,火筒(火通) 火薬(火薬)と様式を与えてその島へ行ってその親分(頭目)に和露から来るようにして,キム・インウとこれでに服[衣] 冠(笠) 神さま(靴)を与えた.
上文で武陵も(鬱陵島)は島のまわりが 7食であり,電池架 50余きめ,所帯数が 15球と説明している.
すなわち,太宗 17年の記録での 其島戸凡十五口 男女并八十六(その島の湖[戸]は 15球(口)です,男女を合すれば 86人)という記録は厳然に,傘島ではない武陵島の記録であることが明かされる.
ここで日本では 15街(家) ,男女 86人に対する記録は前に登場する 傍有小島 での 小島に対する説明という主張をする.小島は現在の竹刀(竹島)というのであり,太宗 17年の記録に見える傘島は竹刀というのだ.
果して上の文での 15街(家)に人口 86人に対する記録が竹刀(Chukdo)に対する説明だろう?
傍有小島 後につながる 其田可五十余結(その電池架 50余きめ)という文章に注目して見よう.
朝鮮時代の 1きめ(結)はどの位広さだろう? 第1燈前の実際面積は軽妙法に換算して 38畝(畝), 2燈前の場合は 44畝7分,3燈前は 54畝2分,4燈前は 69畝,5燈前は 95畝,6燈前の場合 152畝で決める.これを尺貫法に換算すれば,順に 2,753.1坪,3,246.7坪,3,931.9坪,4,723.5坪,6,897.3坪,1万1035.5坪になる. これを ㎡に換算して見れば,1坪=3.3058㎡であるのでそれぞれ,×3.3058してくれれば,約 9101㎡,10733㎡,12998㎡ 15615㎡, 22801㎡, 36481㎡
50きめであるので ×50をして 50決意広さを計算すれば
約 455060㎡, 536647㎡,649904㎡, 780747㎡, 1140055㎡, 1824058㎡
上の 50決意広くは約 455059㎡ ~1824058㎡路鬱陵島 横の 竹島(面積: 207869㎡ 62,880坪 ) はいやという事実を確認することができる. 記録に表示された 田の面積はおかゆも全体の広さより広く出る.すなわち,太宗 16年(1416年) 9月 2日(庚寅)條の記録は武陵も(鬱陵島)に対する説明が間違いないのだ.竹刀には水が出なくて,86人の人が住むこともできない島だ.
太宗実録 圏23,太宗 12年(1412年) 4月 15日(己巳)條の記録でも
流山国島人白加勿等十二名 来泊高城 於羅津言曰 予等生長武陵 其島内人戸十一 男女共六十余 今移居本島 是島自東至西 自南至北 皆二息周 回八息
遺産国も(流山国島) 人百家物(百加勿) など 12人が高声(高城) オラジン(於羅津)に来て停泊して言うのを,"私たちは武陵も(武陵島)で生長したが,その島の中の隣好(人戸)が 11号で,男女が皆 60余人なのに,今は本島(本島)で移して来て暮しています.この島が 東東で 西西まで 南男で 北北までが皆 2食(息) 距離(通り)で,まわりが 8食(息) 距離(通り)です.
と言って武陵島は所帯数 11号,人口 60余人で表現しているし,武陵島の島まわり(周回)が 7食(息) 載せなさい発言していて,太宗 17年の記録(8息,15戸,86名)と大きい差を見せない.
それでは,式(息)という単位はどの位の通りを仮Rikiはのだろう?
1食(息)は 30理を示して,1理が 0.4kmで 7食(息)は 84Km がになる.現在明かされた鬱陵島の島まわりは 56.5km 載せる.確かな鬱陵島に対する百家物(百加勿)の発言だ.
また,東から 西まで 南から 北までが皆 2食(息)と記録している. 2食(息)は 24km で,現在明かされた鬱陵島の 東西長さは 10km, 南北長さは 9.5kmだ.東西の道と南北の長さを合致なら,19.5km がドエンダ. これも,発言での記録が鬱陵島に関することなのを確認してくれる.
したがって,
太宗 17年(1417年) 2月 5日(壬戌)條に出る "其島戸凡十五口 男女并八十六" に対する記録は 太宗 12年,16年の記録を根拠して,傘島ではない武陵島に対する説明なのをまた限り 番(回)確認することができる.
キム・インウの職することが武陵など先按撫使(武陵等処安撫使)おこるに注目して見よう.武陵もだけ なく,その周りのソード(小島)まで担当する職責だから武陵など先按撫使という呼称を付けた. 太宗実録 17ニョンゾでキム・インウは武陵島と周りのソードを経って傘島を最後によく見た後,帰って来たのだ.
太宗 17ニョンゾの記録で傘島が "湖[戸] 15球(口),男女を合して 86人"が住むことができる島だと主張することはできない.その記録は厳然に,傘島ではない武陵島に対する説明だ.ひととき 韓国側学者たちは太宗 17ニョンゾの傘島が独島なのを立証するために無理するように 人口 86人が住む島にこの記録をそのまま適用させた事例があった. しかし,上文でよく見たように,この記録は武陵である鬱陵島に対する説明だ.
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<太宗 17ニョンゾ記録の傘も(于山島)は現在の鬱陵島という主張に対して>
すぐ下の世宗実録地理志を含めて韓国の古文献と古地図で傘島と武陵島は高麗四肢リッジの記録に一島で混同をしたことを除けば例外なしに他の島に記録されている.太宗実録 17年の記録での傘島が '武陵も' という主張は常識を脱する主張であるしかない.傘島は武陵島の部属島で二つの島重い島の名前だけ挙論になれば,二つの島皆(武陵も+傘も)を称えることで断定したのだ.
太宗のすぐ次の王朝の記録に二つの島を他の島で記録しているのに,別に異意を申し立てることはできない.
世宗実録の下の 3種記録をよく見よう.
世宗 29巻 7年 8月 8日(甲戌)
甲戌/以前判 長 県事 金麟雨為 于山′ 武陵等処按撫使B
私は板屏期賢士(判長 県事) キム・インウ(金麟雨)を傘も(于山島)・武陵も(武陵島) 等地の按撫使(安撫使)にした.
世宗 30巻 7年 10月 20日(乙酉)
于山 ′茂陵 等処按撫使 金麟雨捜捕本島避役男婦二十人来復 命B傘(于山)・武陵(茂陵) 等地で按撫使(安撫使) キム・インウ(金麟雨)が本島(本島)のピヨック(避役)一男女 20人を捜索して取って来て復命(復命)した.
世宗 30巻 7年 10月 26日(辛卯)
賜 于山′ 茂陵等処按撫使 金麟雨冬衣二領′笠靴B 賜伴人 金加勿 衣一領′笠靴B
傘(于山)・武陵(茂陵) 等地の按撫使キム・インウ(金麟雨)に冬服も着と冠・はく下賜して,半分の(伴人) 金日照り(金加勿)にはあわせ一着と冠・はく下賜した.
世宗大王はキム・インウを太宗のように ‘武陵など先按撫使(武陵等処安撫使)’で任命したのではなく, ‘傘・武陵など先按撫使(于山 武陵等処安撫使)’で任命した.これは '武陵も'とともに '傘も'がキム・インウが振付しなければならない行政管理地域の中でグァンチング名称でも現われたのだ.
他の一つはこの記録が '武陵も'を二回も ‘本島(本島)’で記録しているという事実だ.これは世宗とその関連者たちが皆鬱陵島を 本島で,傘島を彼に属した島で分かっていたことをよく現わしてくれるのだ.
すなわち世宗と臣下たちはこの時に鬱陵島とその速度(属島)として傘も(于山島)があるというのを明確に再確認して,派遣する官吏の官職名前から ‘傘・ 武陵など先按撫使(于山 武陵等処安撫使)’で名付けたし,武陵島を本島で見て傘も(于山島)を彼に附属する島で区分して見たことをここで分かる.
このように,太宗次の王朝の記録に武陵と傘は確かに他の 2島に記録されているところ,太宗実録での '傘も'やはり,武陵とは違う島なことが明らかだとする.それでは,太宗実録での傘も(于山島)はデッソムである 竹島でもなくて, 鬱陵島の他の名称でもないことが現われた.やっぱり鬱陵島部属島中おかゆも次に大きい独島である数 しかないし,この事実は世宗実録地理志で明確に記録することで傘島は独島なのが証明される.
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世宗実録(世宗実録 巻153 地理誌) 江原道 三陟都護府 蔚珍県
世宗実録圏153 地理誌江原道三尺都護府蔚珍県(1432年及び 1454年編纂)
于山武陵二島,在県正東海中.二島相去不遠,風日清明, 則可望見.
新羅時,称于山国,一云鬱陵島.地方百里, 恃険不服,
智証王十二年,異斯夫為何瑟羅州軍主,謂于山人愚悍,難以威来,可以計服,乃多以木造猛獣,分載戦船,抵其国詐之曰, 汝若不服則 放此獣,国人懼来降.
高麗太祖十三年,其島人,使白吉土豆献方物 毅宗十三年,審察使,金柔立等回来,告島中有泰山, 従山頂向東行 至海一万余歩 向西行一万三千余歩,向南行一万五千余歩,向北行八千余歩,
有村落基址七所,或有石仏像鉄鐘石塔,多生柴胡蒿本石南草 我太祖時,聞流民,外入其島者甚多,再命三陟人金麟雨,為按撫使 刷出空其也,麟雨言,土地沃饒,竹大如柱,鼠大如猫,桃核大於升, 凡物称是
傘と武陵,二つの島が現の正東方海の中にある.二つの島がお互いに距離が遠くなくて,天気が晴れれば眺めることができる. 新羅の時に于山国,または鬱陵島だと称した.地区域は 1百里で,(人々が) 険しい地形に寄り掛かって従わないので,ジズングワング 12年,引っ越し部がハスルラズ君主になって早いのを,"于山国人々は愚かで荒しくて威厳では服従させにくいから,優に計巧としてしよう." してからは,
木で猛獣をたくさん作って,戦闘船に分けて積んでその国へ行って欺いて言うのを,"君たちが降伏しなければ,このけだものを解いて食うようにしよう."したら,その国人々が恐ろしがって来て降伏した.
高麗太祖 13年,その島人々が白旗を,トドにとって小間物を献納するようにした. ウィゾング 13年,シムチァルサギムユリブなどが帰って来て報告するのを,"島の中大きい山があるのに,山頂から洞方へ海まで 1万余補,西の方に 1万 3千余補,南に 1万 5千余補,北に 8千余補になって, チォンラックトが 7箇所あり,たまに石仏・スェッゾング・石塔があって,諡号・ホボン・石楠初などがたくさん出る." した.
右里太祖の時,流民たちがその島で逃げて入って行く者が甚だしく多いと言うことを聞いて, また三尺人キム・インウを命じて按撫使にして,人々を掃いて出して留守にしたが,インウが言うのを,"土地は肥えて,竹は大きさが柱みたいであり,握る大きさが高揚これでして,桃さんがドエッバックだけ一所,皆品物がこれと同じだ." した.
'金鉄丸'さんが肉眼で独島が見える時写真を撮って '神経北日補' (1999年 12月 11日付け)に載せた写真
世宗実録地理志で傘島は鬱陵島で天気が晴れればお互いに 見えると記録している.鬱陵島で独島が見えるという事実はもう証明された.また減らす日本側でもこれ 事実に駁していない.
それでは,鬱陵島で目に直接見える島で竹刀(デッソム),観音島があって鬱陵島海岸の三善癌,亀岩,燭台癌, ゴムバウィドングの岩が存在する.この中竹刀は苧洞港から 4km,観音島は北面先唱(島目) 前で約 100m 海上に位する. 竹刀や観音島は天気が曇っても鬱陵島でいつも見える. したがって史料での '傘も'はなれない.
あまりにも明らかに傘島は独島なのを記録した朝鮮の官撰史書だ.
日本側主張(下條正男)
日本側では 于山武陵二島,在県正東海中.二島相去不遠,風日清明, 則可望見. 義記録は韓半島で二つの島が 見えるという意味と駁している.したがって傘島が独島なのを証明して 与える資料はなれないと言う.
Shimojo(下條正男)は当時地理誌(地理志)を 編纂するには決まったギュシック(規式)があったがこの中図書に 関しては “諸島 陸地相去水路息数 及 島中在前人民接居農作有無 開写事”になっていたから原則的にすべての島は陸地からの 通りを数で何里式で表記したが鬱陵島はあんまり遠くて 彼と一緒に表記することができずに天気が晴れれば見えて望むことが 穏かならば二日に行くことができるという式で表記したことだと する.
すなわち世宗実録地理志の “相距不遠”,“則可望見”,東国輿地勝覧の “歴歴可見”は 皆陸地で鬱陵島が遠くなくて,バラダボインダは意味であり, “二日可到”は陸地で鬱陵島を二日なら行くことができるという 意味というのだ.事実がこのようだから当代の学者たちは 皆陸地で鬱陵島が見えることで解釈したと言う.
すなわち安竜福によって 韓日間に鬱陵島の領有権問題が発生された当時南欧だけは “本島 峯巒樹木 自陸地歴歴望見 在於我国輿地勝覧書”と しながら明確に陸地で鬱陵島が見えることで解釈したし またこれを根拠で日本に対して鬱陵島の領有権を主張したし, 安竜福の活動がある前に三渉府士を執り行なった 許穆が使った 東界にも “傘鬱陵島の一島,雄大壮厳な三つの峰を 見る.海が清ければ直ちに山の木の見えるに違いない”と しながら陸地で鬱陵島が見えることで解釈記述して あり,その他に当代の最高学者たちが使った '星湖〓説類選', '春官志','雑同散異','五州衍文長箋散稿','大東地志', '林下筆記' なども皆 '東国輿地勝覧'の記録を陸地で 鬱陵島が見えることで解釈していると言いながら鬱陵島で 独島が見える見えないと言う論争は四書(史書)の記録とは 関係がない全然無意味な論争だと言っている.
独島領有権に 大韓 日本側の 主張整理(金柄烈)で抜純
Shimojo教授の主張どおり世宗実録地理志の "于山武陵二島,在県正東海中.二島相去不遠,風日清明, 則可望見" での '則可望見'を韓半島で 二つの島(于山と 武陵)が見えるという意味で解釈して見よう.
傘もやっぱり韓半島で見えるという 記録になる.ここで傘島を日本側主張どおり竹刀(デッソム)で上程するとか 独島で見た場合,二つの場合皆で二つの島は陸地で見えるの ない.竹刀は鬱陵島の北東の方に位するので目撃になることができないし, 独島は蔚珍で約 216.8㎞距離にあるので目撃されるのが不可能だ. 彼の主張とおりなら世宗実録地理志の技術は荒唐な記録になる のだ.
世宗実録地理志の記録に先立って 二島が 傘と武陵なのを提示して "二島相去不遠",この二つの島がお互いに遠くないことを 記録している.二島 次の文具に 相定木(字)が登場しなかったら韓半島で 二つの島が見えるという解釈も可能だ.しかし確かに 相定木(字)を挟みこんで, 後句節の説明が二つの島の間の仕事なのを明らかにしている.あまりにも基本的な漢文解釈を思いきり 歪曲していることを確認することができる.
たまに日本側ではこの場合と一緒に 後代の記録を土台で前代(前代)の記録を否定しようとするちょっと理解することができない 文献解釈をする場合が多い.後代の記録が前代の記録に影響を かけたわけはない.どうしても韓国側傘島を現在の鬱陵島や竹刀で 作ろうとする意図でむりやりに常識を脱した主張をしているのだ.
世宗実録洩らすのは朝鮮の領土に 大韓 地志として世宗大の領土範囲を明らかに規定した記録だ.これ 記録に傘島である独島を言及しているという事実は数万番(回)強調しても不足さが ないだろう.
信証東国輿地勝覧の記録を見よう.
TITLE:韓国文献の中の 于山島は独島なのを証明.
- 最終更新:2009-02-26 15:52:23