日本と韓国の思想(その5)家康

2008/12/21 16:45




秀吉の死後、家康は関が原で石田三成率いる西軍を破り、1603年に幕府を開くと、政権安定のためにも朝鮮との国交正常化の必要を感じます。そこで幕府は対馬藩主の宗義智を通じて、家康が講和を願っていることを朝鮮国王に伝え、室町時代からあった朝鮮通信使を復活して、日本に派遣するように要請します。


一方、朝鮮では日本に対する被害意識が強く、家康に講和の意思あることなど、容易に信ずることが出来ません。しかし、折から女真(満州)族が北方から侵攻し始めたことがあり、朝鮮にとっても日本との早期の講和が必要となっていました。


朝鮮国王は、朝鮮通信使の復活ではなく、日本の真意を確かめる使節である「探賊使」(敵情調査団)を日本に派遣することにします。来日した使節は日本側から要望したものとは性格が異なりましたが、そのことに拘らず、家康は1605年に京都伏見城で、探賊使代表であった禅僧・惟政松雲を謁見しました。


そして、「私は秀吉のおこした朝鮮侵攻に関係しておらず、朝鮮と私の間に怨みはない。日朝の講和条約を早急に結びたいと熱望している」と語って、日本に連行された捕虜の送還についても約束しました。


惟政松雲は、日本に再侵略の意思がなく、家康の講和を願う気持ちが本物であると直感し、1,390名の捕虜を連れて帰国すると、朝鮮国王にそのことを報告します。


翌年(1606年)、朝鮮国王は交渉窓口であった対馬藩に対し、「家康から先に講和の国書を朝鮮に送ること」などを要請してきました。このことが、また波乱を呼びます。

  • 最終更新:2009-02-10 16:42:23

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