日本と韓国の思想(その8)文化交流

2008/12/29 07:15






朝鮮通信使は、1607年から1811年まで、都合12回来日します。2回目は京都、12回目は対馬まででしたが、その他は、ソウルから江戸城または日光の東照宮まで日韓両国の陸・海路を往復しました。朝鮮国王の国書を将軍に奉呈し、将軍の返書を持ち帰って朝鮮国王に復命するというのが通信使一行の目的です。


朝鮮通信使は、色鮮やかな朝鮮の礼装に身を包んだ正使、副使、文人、書家、医官、楽団、舞踊団からなる300人から500人の使節団で、それに対馬藩の随行者400人以上が加わった延々長蛇の行列でした。異国情緒豊かな音楽に、童子の跳ねるような踊りが人目を引き、沿道の庶民男女から熱烈な歓迎を受けました。


行路にあたった諸藩は饗応に努め、宿舎にあてられた寺には多くの学者や文人が押し寄せて、筆談で朝鮮の科挙について質問したり、儒教を論じたり、漢詩を交歓したり、自作の詩に添え書きを頼んだりもしました。特に大坂では、使節団員が寝る間もないと悲鳴を上げるほどに、夜を徹しての文化交流が盛んに行われたと記録されています。


朝鮮通信使は、こうして当時の日本人に強い印象を与えました。行列の様子は、岡山県牛窓町の唐子踊りや三重県津市の唐人踊りに残されています。また、多くの錦絵にも描かれていますし、京都の伏見人形、滋賀の木幡人形、山形の相良人形など各地の人形にも童子の踊りが映され、今に残っております。


しかし、韓国の教科書は、通信使をやや違うニュアンスで教えています。

  • 最終更新:2009-02-10 16:38:07

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