木庵先生#05

竹島問題#5(崔南善が示す歴史的根拠) 

崔南善が示す歴史的根拠 


 崔南善は1994年8月10日から9月7日にかけ、ソウル新聞紙上で「鬱陵島と独島」と題し、25回にわたって連載を執筆している。崔南善の説によると、鬱陵島の属島である独島は「新羅時代」から韓国の領土で、それは512年にまで遡ることが出来る。この崔南善の説が事実とすれば、日本政府が竹島を島根県に編入した1905年よりも遥か昔から竹島(独島)は、朝鮮半島に属していたことになる。
 さらに崔南善は、官撰の『粛宗実録』に載せられた安龍福の証言を根拠として、「鬱陵島と竹島を朝鮮領である」と主張している。
  この崔南善の説明から確信を得た韓国政府は、「李承晩ライン」を宣言し、竹島をラインの内側に入れることにしたのである。崔南善が示した竹島問題に対する歴史認識は、その後の日韓関係を決定付けることになった。

  ここから、①独島は「新羅時代」から韓国の領土であった、②『粛宗実録』に載せられた安龍福の証言を根拠として、「鬱陵島と竹島を朝鮮領である」、という崔南善(=韓国の)の二つの主張を説明しながら(二つには相互関係がある)、その矛盾点を分析する。

① 独島は「新羅時代」から韓国の領土であった。

 韓国側は、『三国史記』に干山国の新羅編入が記されていることから、竹島は512年から韓国領であったと主張している。干山国は現在の竹島であるとしている。これは文献の失意的解釈に過ぎない。
 竹島を干山島とし、鬱陵島の属島とするのは、1770年に編纂された『東国文献備考』(與地考)の分註から始まる。後世の地理的理解だからである。

② 『粛宗実録』に載せられた安龍福の証言を根拠として、「鬱陵島と竹島を朝鮮領である」という主張

  『粛宗実録』に載せられた安龍福の証言を根拠として、「鬱陵島と竹島を朝領である」という主張の前に、『粛宗実録』をもとにした官撰『東国文献備考』(與地考)の分註の分析をまずする。

『粛宗実録』をもとにした官撰『東国文献備考』(與地考)の分註のまやかし

  『東国文献備考』(與地考)の分註では、なぜ干山島を鬱陵島の属島とみなし、日本の松島(現在の竹島)としているのだろうか。それを知るためには、『東国文献備考』の編纂過程を明らかにしなければならない。
  『東国文献備考』の分註のように、干山島を日本の松島とするのは、元禄8年『1696年』6月、鳥取藩に密航した安龍福が帰還後の取調べで、『松島は即ち干山島、此れ亦我国の地」と供述したのが最初である(ここで①と②が関連がある。また、このことは『粛宗実録』に書いてある)。 
  だが安龍福が鬱陵島で見たという干山島は、鬱陵島の東北にあった。今日、日韓係争の地となっている竹島は、鬱陵島のほぼ東南に位置している。干山島が竹島でないことは明らかである。従って「松島は即ち干山島、此れ亦我国の地」として安龍福の証言は、事実を正確に伝えていない。その偽りの証言が官撰の『東国文献備考』などに収載されたことから、後世の齟齬がはじまったのである。

   事実、その痕跡は『東国文献備考』(「與地考」)の分註の文言の中でも指摘することができる。分註で「干山は則ち倭の所謂松島なり」として、「所謂(いわゆる)松島なりと表現しているのは、分註が書かれた当時、すでに干山島は日本の松島とする地理的観念が存在していたことの証しなのである。
   そしてその「干山は倭の松島なり」とする地理的観念こそは、安龍福の供述が記録された、『粛宗実録』(1728年刊)からはじまっていた。
   『東国文献備考』の「與地考」は、その安龍福の証言から74年後の英祖46年(1770年)1月から閏5月にかけ編纂された。従って、『東国文献備考』の分註に「干山は則ち倭の所謂松島なり」と記されていても、その分註を根拠に安龍福の供述の正しさを実証する傍証として使えないことは言うまでもない。

『東国文献備考』(與地考)の分註とは


  『東国文献備考』(與地考)の分註の重要な部分は、『與地志』からの引用である。
『與地志』とは
  『與地志』がどどのような文献であったのか、それを知る手がかりは、『東国文献備考』(「與地考六」)の中にある。そこでは「與地勝覧、磻渓地志等の書を参考」にした、と記されているように、柳馨遠の『與地志』が使われていたのである。
  柳馨遠の『與地志』が成立したのは、安龍福の証言よりも40年ほど早い1656年である。その限りでは、『東国文献備考』の分註は、安龍福の証言の正しさを証明する傍証とすることが出来る。
  しかし、それには二つの問題がある。一つは『與地志』が現存しないため、引用された箇所が確認出来ない点。もう一点は、『東国文献備考』の編纂期間が僅か5ヶ月であったという事実である。そのため『東国文献備考』は編纂当初から「記載するところ疎略」として杜撰さが問題になっていた。それは『東国文献備考』の編纂を命じた英祖が、完成を催促したからである。そのため『東国文献備考』の編纂は、既存の文献を使ってなされていた。このことは当然、「干山は倭の所謂松島なり」の分註がある「與地考」も、他に底本となる文献が存在していたということである。と同時にこの事実は、引用された柳馨遠の『與地志』も、直接、原典から引用されていたという保証はない。


整理


  ここで整理する。官撰『東国文献備考』(與地考)の分註は安龍福の証言を下にして書かれた『粛宗実録』を引用しており、『東国文献備考』が書かれた当時はもう既に英雄としての安龍福像が確立していた。「松島は即ち干山島、此れ亦我国の地」という安龍福の証言に対して。日本は松島(竹島)は日本領であり干山島は全く違う島であると異議を申し立てている。ところがこの日本の主張に一切韓国側が耳を貸さない原因は、安龍福の証言(『粛宗実録』や『東国文献備考』の記述)を完全に信じているからである。


安龍福とは何者なのか

  では安龍福なる者ははどのような人物であったのか、そして彼の証言は信憑性があるのかを、#6以降検証する。



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  • 最終更新:2010-05-26 18:53:40

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