私見 竹島問題(3)

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┃ 自虐史観の枷を解く ―――――――――― by gosakuさん
☆ 私見:竹島問題(3) ―――――――――――――― 2004/09/17

―― アンヨンポク(安龍福)証言の信憑性検証

現在、韓国の欝陵島には安龍福を顕彰する「安龍福将軍忠魂碑」があります。
1964年に建立されたもので、その建立は、安龍福の活躍によって欝陵島と
竹島が韓国領になった、とする歴史認識が基になっています。

竹島問題の解決の糸口をつかむには、日本と韓国の二つの流れをさかのぼり、
その齟齬の源を探って問題点を直視する必要があります。安龍福は、どのよう
な経緯によって問題となっている証言をしたのか?

韓国政府が「歴史上からみても我が国の領土」として主張できる根拠は「粛宗
実録」=朝鮮王朝の粛宗時代(在位1674年~1720年)の出来事を記録し
たもの)によるものです。
その粛宗実録の中に「安龍福という人物が日本に密航して鳥取藩主と直談判し
て、鬱陵島(ウルルン島)と松島(竹島・当時の日本呼称)は朝鮮領であることを
認めさせた」というものがあり、韓国の歴史家はその記事を、歴史の事実とみ
たものです。
しかし、
「粛宗実録」に収録されているからといって、安龍福の証言が歴史的な事実で
あったという保証はどこにもありません。ーー事実と認められるには、厳密な
文献批判を経る必要があります。

―― まず、

安龍福とは如何なる人物で、日本ではどんなを証言し、どんな行動をとったの
でしょうか?――身元については彼が所持していた腰牌(認識票)の写しが現存
しています。腰牌には「東莱/私奴、用朴、年33歳」とあります。
ーーーー東莱は出身地、私奴は賎民、用朴は本名、です。

安龍福は当時、国禁を犯して海を渡った罪人であり(当時の朝鮮は鎖国下にあ
り、人々の海外渡航は禁じられていました)当該証言はそのときの供述なので
すから、自己を弁護するための自分に都合のいい言い訳と看為さなければなり
ません。ーー本文でも述べましたが、実際この証言は、とてもそのまま信用で
きるような内容ではありません。

それにも係わらず、歴史家がなぜ文献批判もせず「粛宗実録」の記述を無批判
に引用したのでしょう。それは、歴史家が文献批判の必要はないと思い込んだ
ほどに、既に安龍福の証言を歴史的事実とする暦時認識が確立していたからで
す。
では一方、日本側が竹島の領有権を主張する根拠はどこにあるのか?

それは、安龍福の証言よりも三十年程前に成立した、出雲藩士の斎藤豊仙が、
藩命によって著した「陰州視聴合記」です。斎藤豊仙はその「国代記」の中で
松島と鬱陵島を日本の「西北限」の領土として明記しています。これを根拠に
明治政府は1905年、それまで松島と呼ばれていた無人島を「竹島」と命名
し、島根県に編入したのです。
十七世紀以降、日本側では竹島を我が国の領土として認識していたことは明ら
かです。

こうして、安龍福の証言以来、日朝間には竹島をめぐって二つの異なる認識が
生まれ、今日に至っているのです。

―― 安龍福の行動を簡単に整理してみます。

1693年4月18日、鳥取藩大谷家の見廻り船が鬱陵島に上陸すると、十人
ばかりの朝鮮人漁夫が鮑[あわび]・ワカメを干しているのを発見します。
ーーその中に日本語の分る安龍福がいたのです。
鬱陵島は荒磯のため、そのまま脚船を停泊させておくのは危険と判断した大谷
家の船頭たちは、安龍福ともう一人を本船に乗り移らせて、その時の、鬱陵島
に渡った理由を聞き出すことにしました。

安龍福によると、
「自分は42歳、もう一人の漁夫は蔚山出身の朴於屯で34歳、鮑を捕獲して
くるように官命をうけて漁に出た。鬱陵島に渡ったのは、去年、鬱陵島に流着
した者が夥[おびただ]しい量の鮑[あわび]とワカメを持ち帰ったからである。
今回は総勢42人で、その中には、去年島に渡った者たちも含まれている」

これを聞いて大谷家の漁師たちは「このまま放置すればこの漁場は朝鮮人に盗
られてしまう」と判断し、この二人を連れ帰って幕府の裁定を仰ぐべきだとし
て鳥取藩まで連れ帰りました。

ーーしかし、朝鮮側の受け止め方は違っていました。
朝鮮側の史料である「辺例集要」は、安龍福らと共に鬱陵島に渡ったのは蔚山
の金徳生ら六人で、島に漂着し、船から下りて隠れていたが、朴於屯と安龍福
の二人は下船が遅れたため、ちょうどそこに船でやってきた倭人8人に、刀剣
と鳥銃で威されて連れ去られた、としています。

1693年6月7日、幕府の命により彼らは鳥取藩米子から長崎に護送され、
対馬藩に引き渡されます。2ヶ月ほどの取り調べの後、彼らは朝鮮政府に引き
渡されます。
幕府は、1696年1月28日付で、鬱陵島への渡航禁止を鳥取藩に伝え、ま
た対馬藩に対しても、この幕府の方針を朝鮮政府に伝えるよう指示します。

―― 安龍福“1696年6月4日”に密航して来[きた]る

幕府による渡航禁止の措置から5ヶ月目の6月4日、朝鮮政府が処罰を約束し
た安龍福らが、密航して鳥取藩の赤崎灘に突如その姿を現したのです。安龍福
はこのとき「朝鬱両島監税将臣安同知騎」の船印を立て「鬱陵於山両島監税」
という官職を僭称、朝鮮官吏と偽り、鬱陵島と于山島を管轄する朝鮮の官吏と
してやってきた、と言いたかったのでしょう。ーー彼らは、鬱陵島と于山島が
朝鮮領であると主張するために来たと渡海目的を話しています。

このとき安龍福が日本に密航できたのは、安龍福の処罰を約束した朝鮮の南人
派政権が倒れ、安龍福は日本に拉致された被害者であるとする少論派に政権が
移ったため、処罰はおろか拘束も免れていたからです。

その頃朝鮮国内は、対馬藩の使臣多田与左衛門の強硬姿勢によって「壬辰倭乱
(文禄の役)」の再来を憂え、震撼していました。そこで安龍福は、鳥取藩に訴
えて領土問題を解決しようと密航してきたのです。だが、隠岐島=出雲藩)の
代官から「鳥取藩へ訴訟のためやってきた」と連絡を受けた鳥取藩では、安龍
福の渡航目的を計りかねました。ーー鳥取藩は朝鮮の官吏を僭称する安龍福を
とりあえず異客として待遇します。

しかし、安龍福ら11人の到来を早飛脚で幕府に報告した鳥取藩の元に、幕府
からの沙汰が届くと、彼らに対する待遇は一変しました。安龍福らをそのまま
船中に差し置くよう命じられたため、鳥取藩ではにわかに湖山池に仮小屋を建
てて彼らを移し、異国船は湖中に繋がれたままになりました。

その後、江戸幕府からは、対馬藩の家人と通訳が鳥取藩に向かったことが告げ
られ、異客らに「願いの筋」があれば肥前長崎に廻船し、鳥取藩は「異域のこ
とを扱う所」ではない旨を諭すよう指示があったのです。

つまり幕府の方針は、異客に「願いの筋」があれば鳥取藩と対馬藩が長崎まで
送り届け、異客らが断れば「直ちに本国(朝鮮)に戻らせる、というものだった
のですが、鳥取藩が選んだ道は、「直ちに本国」に戻らせる追放でした。
こうして安龍福らは、対馬藩の家人や通訳が鳥取藩に到着する前に、既に出帆
してしまいました。

「因符年表」は、一説として「以後、加露灘にてこの船追い放しに相成った」
としています。放逐された安龍福は八月、朝鮮に帰還しています。帰還した彼
らは「倭人と訴訟」という事件を起こした事態を重くみた朝鮮中央政府によっ
て京獄(ソウルの獄舎)に移送され、事実を追求されることになります。

ところが、その後の安龍福は、この密航について驚くべき供述をしています。
ーーこのときの安龍福の供述が後に「粛宗実録」に収録され、竹島の帰属問題
が起るたびに韓国側が領有権を主張する根拠になっています。

安龍福らが1696年6月4日、烏取藩の赤崎灘に着船した際に「朝鬱両島監
税」の船印を立て「鬱陵于両島監税」の官職を僭称していたことは前に述べま
した。安龍福は鬱陵島だけでなく、于山島も朝鮮領として認めさせたかったの
でしょう。
ーーでは、なぜ安龍福は、当時、領土争いの対象にもなっていなかった松島を
朝鮮領としたのでしょうか。ーーまた、于山島を松島(現在の竹島)と思い込み
「鬱陵于山両島監税」の官職を偽称したのでしょうか。

安龍福が、于山島という島の存在を知ったのは、「鳥取藩に密航する三年前の
1693年4月」に「鮑とワカメ稼ぎ」のため鬱陵島に渡ったときです。
「竹島紀事」によると、対馬藩での取調べに安龍福は、次のように供述してい
ます。

「この度参候島より北東に当たり大きなる島これあり候、彼の地逗留の内、よ
うやく二度、それを見申し候、彼島を存知たるもの申し候は、于山島と申し候
通り申し聞き候、終に参りたる事これ無く候。大方路法一日路余もこれ有るべ
く候」
鬱陵島に初めて渡り、島の地理に詳しくなかった安龍福は、同行の朝鮮人から
于山島の存在を教えられていたのです。では、安龍福が「ようやく二度見た」
という于山島は、どの辺りにあったのでしょうか?

鬱陵島の「北東」にあると証言している事からすると、この于山島は今の竹島
とは無縁です。現在領有権が争われている竹島は、鬱陵島の東南に位置してい
るからです。
安龍福らがワカメ採りや鮑獲りに従事していた海域は、鬱陵島の海岸線に沿っ
て、島の東南部から時計回りで北部までに限定されていました。この状況で、
鬱陵島の東北の方角に、竹嶼という島が見えます。

この竹嶼が「太宗実録」にもその名が見える于山島と呼ばれていた島でした。
では、それにも関わらず、なぜ安龍福は于山島を日本の松島(現在の竹島)と思
い込んだのでしょうか。――それには、大谷家の漁師たちによって日本に連れ
去られた際の、安龍福の体験が深く関わっていました。

日本に連れ去られる際、安龍福は鬱陵島を出帆し「一夜を経た翌日の晩食後」
黄昏の海上に鬱陵島の福浦(現在の五箇村)に着いたのが20日、
従って安龍福が言う「晩食後」は、19日の晩食後ということになります。

鬱陵島にいた時、于山島までは「大方、一日の道程」と目測していたが、明日
は隠岐島に着くという直前の夕方、ほぼ「一日の道程」で安龍福は「すこぶる
大きな島」に遭遇したのです、安龍福は、この島が日本人が言うところの松島
(今日の竹島)、朝鮮側で言う于山島と思い込んだのです。

そして、鬱陵島から「一日の道程」にある「すこぶる大きな島」は、朝鮮領に
違いないと思ったのでしょう。しかし、鬱陵島から鳥取藩に至る間に、鬱陵島
より「すこぶる大きな島」は隠岐島以外には存在しません。ーー今日、日韓の
係争の地になっている竹島は、鬱陵島よりはるかに小さな島です。

実際に、船酔いで船中に伏せていた朴於屯も「鬱陵島の前後さらに他島なし」
と証言しています。おそらく安龍福は隠岐島を于山島と誤認したのでしょう。

当然のことながら、于山島という「すこぶる大きな」朝鮮の島が鬱陵島と日本
との間にあるという安龍福の証言は、朝鮮政府の側でも信じて貰えませんでし
た。そこで、領土問題が朝鮮側の(当時の)政権交替のドサクサで暗礁に乗り上
げ、膠着状態に陥ったのを見た安龍福は、蛮勇を奮い、イチかバチかの賭けに
でたのでしょう。

その「すこぶる大きな島」と鬱陵島を朝鮮領と認めさせるために、敢えて再び
国禁を犯して密航し、前回異客扱いをしてくれた烏取藩に訴え出ることにした
のです。が、顛末の如く安龍福の「願いの儀」は聞き届けられませんでした。

ーーところが、朝鮮に戻った安龍福は衝撃的な供述をするのです。

備辺司での取調べでは「鳥取藩主が鬱陵島と于山島は朝鮮領であると認めた」
と証言したのです。その時の安龍福の供述は「粛宗実録」の粛宗22年(16
96年)9月戌寅(25日)条に抄録されており、ほぼその全容を窺い知ること
ができます、

┌──────────「粛宗実録の安龍福の証言の一部ここから」

私どもが欝陵島に到着すると、倭船が多くおりました。そこで私が「欝陵島は
朝鮮領だ。なぜ倭人は我が領土を侵犯するのか。おまえら皆縛ってしまうぞ」
と、舳先に進んで大喝すると、倭人どもは「我々は元々松島に住んでおり、た
またま漁採のために来ただけで、ちょうど今、松島へ帰ろうとしているところ
だ」と答えました。

そこで私は「松島は于山島だ、これもわが朝鮮の地だ、どうして住むことがで
きよう」と言ってやりました。その翌暁、舟を曳いて于山島に入ると、倭人た
ちは、釜を列ねて魚膏を煮ている最中でした。

そこで、私が杖で撞き破り、大声で叱り付けると、倭人たちはそそくさと辺り
の物をまとめて舟に載せ、帆を挙げて去っていきました。それを追いかけたの
ですが、途中、強風に遭って隠岐島に漂着しました。

隠岐島では、島主が入来の目的を尋ねるので、以前に私がこの地に来たとき、
欝陵、于山等の島を朝鮮側の境界とする関白(=将軍のこと)の書付があったは
ずだが、それが徹底していないようで、今また、わが朝鮮の境界を侵す者がい
る、これはどうしたことか、と鳥取藩に取り次ぐよう求めましたが、返事があ
りませんでした。

そこで、憤慨した私は直ちに鳥取藩に向かい、「欝陵于山両島監税」と仮称し
て、人を通じて鳥取藩に告げると、鳥取藩では人馬を送ってくれました。私は
駕籠に乗り、他の者は馬に乗って鳥取藩まで行きました。

鳥取藩では藩主と対座し、諸人は中偕に控えておりました。鳥取藩主が「なぜ
参ったのか」と聞くので、「先に、両島の事に関しては、書付を出したことは
明白ではないか。それなのに、その書付を対馬藩の藩主が奪い取り、朝鮮政府
と江戸幕府の間にあって、偽りの使臣を送って寄越すのは言語道断である。私
としては関白に上訴し、対馬藩の罪状を明白にしたいと思う」と申しますと、
鳥取藩主が許すというので李仁成に書かせました。

すると対馬藩主の父親がやってきて、ねんごろに鳥取藩主に語るには、「もし
この訴文が幕府に渡れば、わが子は必ず重い罪を得て死ぬことになる。どうか
幕府には提出ぢないでほしい」と言うので、幕府に上申せず、その代わり先日
欝陵島に渡っていた15人が、捕らえられて処罰されました。

そこで鳥取藩主が私に言うには「欝陵島と于山島はすでに朝鮮領となったのだ
から、再び越境する者があったり、対馬藩が無理な要求をしたりしてくれば、
国書を作成し訳官を送って寄越せば重く罰してやろう」と言いまして、帰国に
際しては、食糧と護衛の使者をつけてやると言ってくれたのですが、差障りが
あると申してお断りしました。

└──────────「粛宗実録の安龍福の証言の一部ここまで」

この証言のうち、安龍福が「欝陵于山両島監税(=官名)」を僭称したことと、
「安龍福が駕籠に乗り、他の者が馬でえ鳥取の城下に入った」点以外は、全て
が偽りなのです。

安龍福が鳥取藩へ密航する4ヶ月ほど前の、1696年1月28日、既に幕府
は欝陵島への渡海を禁じており、欝陵島で鳥取藩の漁民たちと遭遇するなどと
いうことは不可能事です。また、日本側には、禁を犯して出漁した漁民たちが
処刑されたという記録もありません。

さらに安龍福は「倭船が多くいた」と証言していますが、欝陵島に渡海する際
に鳥取藩から大谷家に発給された往来手形では、船は1艘だけで船頭以下21
人の乗船が認められていただけです。

それに安龍福は、欝陵島で遭遇した日本の漁民が「我々は元々松島(現在の竹
島)に住んでいる」と言ったように証言していますが、松島は飲料水の確保も
難しく、人の定住などは不可能なところです。安龍福は、松島がどのような島
かも知らずに、朝鮮領の于山島と思い込んでいたのです。

事実安龍福は、「舟を曳いて入った」とする于山島の描写でも馬脚を現してい
て、于山島では「釜を列ねて魚膏を煮ていた」と供述していますが、大谷家と
村川家がアシカから膏を採取していたのは欝陵島です。

岩礁に過ぎない松島には、燃料となる薪などもなく、釜を列ねて魚膏を煮るこ
とができる場所や、舟を曳いて進める浜辺なども存在しません。
于山島に渡ったこともなく松島も知らないまま、安龍福は「松島は于山島だ。
これも我が朝鮮の地だ」と証言していたのです。

偽証はそれだけに止まらず、安龍福は、鳥取藩では藩主と対座し、そこに対馬
藩主の父親が息子の命乞いに来た、と証言していますが、鳥取藩主池田綱清は
当時、参勤交代のため江戸に居り、父が命乞いをしたとされる対馬藩主、宗義
倫は、その前々年の1694年9月27日、24歳の若さで病没しています。

しかも、安龍福が鳥取藩に密航した時期には、宗義倫の父、宗義貞は、新藩主
の後見役となり、参勤交代で江戸にいました。いずれも安龍福とは対面しよう
がなかったのです。

ーーこのように安量福証言は、その核心的な部分が悉く偽りなのです。

では、なぜそうした安龍福の証言が歴史事実とされてしまったのでしょうか。
ここには、
事実か否かの検証を経ずに、「証言」だけから齟齬が始まってしまうという、
現代にも繋がる日韓の課題が潜んでいるのです。

                          =この稿つづく=










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┃●┃ 読後感アンケート結果。
┗━┛
◇ このとおりだと思う --------------------------------- 22人 (48%)
◇ そうではないと思う --------------------------------- 0人 ( 0%)
◇ どちらともいえない --------------------------------- 0人 ( 0%)
◇ 知らなかった。そうだったのか~ --------------------- 24人 (52%)

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┃●┃ コメントボードに頂きました感想。
┗━┛
┌──────────「愛読者さん」

チョンは、支那の一(いち)の子分。やることなすこと、支那の真似ばかり。

└──────────
┌──────────「ミカの赤い服さん」

gosakuさん、こんにちは。 「知らなかった」に投票しました。
◆何でもそうですが、真偽を検証せずに証言を鵜呑みにしたらだめですよね。
 おっしゃる通りと思います。
◆些事だと思いますが、下記の年号は、おかしいですよね?
 「1962年に、出雲藩村川家の船が見回りで、松島で不法に漁をしている
 彼らを見つけ…」

└──────────
┌──────────「gosakuさんから」

1954年以来、韓国は竹島を実効支配し、領有権をめぐっての日本との協議
を拒否し続けています。歴史的根源にまで遡って調べれば日本領であることは
歴然としています。
問題がここまで拗れたのは、事実よりも感情や理念が先走る韓国側の傾向と、
争論を避ける日本側の事なかれ主義に原因があるのでは、と思います。

「1962年に・・・・・」は1692年の間違いでした。
訂正してお詫びします。

└──────────
┌──────────「lonesome carboyさん」

「韓国人は嘘つきか」
韓国の法廷では考えられない程の「偽証」があるそうです。韓国の新聞で報じ
られていました。自分の周りでも、年配の方にはわりりと既知の見解のようで
す。最近の核開発問題での釈明の様を見ていても、彼らの言い分は二転三転し
ています。

また先日、ソウル大学の教授が、所謂「従軍慰安婦」は日本軍の駐屯地に臨時
の赤線を作った業者の「商業目的の売春行為」だったとの見解を示したところ
国中からバッシングを受け、土下座させられるという事件も起こりました。

韓国通の上司の見解では、彼らは悪意を以って「嘘」をつくというつもりでは
なく、論理的に突き詰められた事実よりも感情的な概念が勝り、それを"真実"
としたい人たちなので、議論は無駄だとの事でした。

それらの事を鑑みると、彼らの主張するあらゆる物事に疑問符がついてしまい
ます。ーー剣道は韓国起源などと真剣に言いだしているところなども含めて。

長文、駄文失礼。

追伸:黒田勝弘氏の「韓国人の歴史観」(文春文庫)は勉強になりました。

└──────────
┌──────────「gosakuさんから」

かつての産経新聞ソウル支局長で産経新聞社論説委員の黒田勝弘氏の韓国批判
の書は、数多く読ませて頂いております。かなり反韓国的色彩が強いものが多
いようですが、賛同の部分も少なくありません。

韓国人の嫌日・反日感情には、さまざまな要因・理由が、いくつも複合的に絡
まっているものでしょう。自分たちは日本に文明を伝えた兄貴分であるのに、
日本のほうが大国になってしまったことへの嫉妬、或いは民衆をひとつにまと
めるため「日本」を共通の「敵」と位置付けようという政治的な思惑もあるの
でしょう。

しかし、彼らが日本攻撃の際に必ず引き合いに出す「歴史認識」問題について
は、ハッキリさせなくてはいけません。今回、東京都が設立した中高一貫校で
採用が決まった「新しい歴史教科書」に対して、韓国が非常に細部に及ぶ修正
を要求してきています。

その内容は、韓国の独善的な歴史観を日本に押し付けるだけでなく、全て史実
からまったくかけ離れているものです。誤まりだらけの修正要求に、東京都は
どのような対処をするのでしょうか?ーー心ある日本人は注目しています。

└──────────
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┃●┃ お便りで頂きましたご意見・感想。
┗━┛
┌──────────「ミートくんさん」男性@二十代@会社員@愛知

はじめまして。

最近このHPを拝見させていただいております。
非常に興味深く読ませていただいてます。
戦争(歴史)については、小さい頃から興味・疑問がありました。

インパール作戦に行った祖父がいた事と、非常に歴史研究に熱心で「いま習っ
ている歴史はほとんど嘘だ」と子供の頃から常に聴かされていた父がいた事が
その起因になってます。
そんな父が、「本当の事を知ってるのは、ごく一部の人間だけでいい」と言っ
てました。また、「知ってるんだけども言わないだけだ」とも言ってました。

その意味をよく理解しないまま、単純に歴史に興味を持ち、自分の好きな時代
だけをたまに調べてみるという事をやってきて、いたずらに歳を重ねてきてし
まいました。

最近「戦争論1・2・3」を読んでから、歴史に対する認識が「もう一歩前へ
進む」形になりました。「本当の事を知ってるのは、ごく一部・・・」では、
済まないと思い始めたのです。
戦時・戦後を支えてきてくれた先輩方の苦労・名誉を傷つけ、外交でも不利益
を受けてしまう・・・。

収拾のつかない文章ですみません、、これからも頑張って下さい。

できればHP上で討論会などをやって頂きたいですね、反対意見の持ち主の方
とかと。ーー絶対他人の意見を受け入れない、或いは事象の起因を探らなそう
な方ばかりが参加するようになって..無理でしょうかね?

└──────────
┌──────────「gosakuさんから」

「ミートくんさん」のようなお若い人が、日本近代史に疑問をもって勉強され
ていることが解っただけでも、僕にとっては大変嬉しい収穫です。
早く自虐感から脱出して、日本人として誇りをもって活躍なさってください。

以下、ミートくんさんのコメントに対する答復になっているかどうか?

先日、ある中国の人から「日本は、こんな小さな島国に一億二千万もの人が住
んでいて、リソース、資源など何も無いのに、どうして世界一、二の経済力が
持てるのか?」という質問がありました。

「昔のイギリスや、もっと昔のスペイン・ポルトガル、さらに昔のローマ帝国
など、帝国主義で膨大な植民地を抱え、そこから収奪して栄えたのはわかる。
でも、日本は地球の陸地面積の0.3%にも満たないのに、一体どうしてなの
かわからない、その理由を教えてください」と聞くのです。

そう言われてみると、「それは??」と、一瞬答えに窮しました。
ーーそうですよねー、外国人が不思議がるのも頷けます。
かろうじて僕は「それは..優秀な人的資源に恵まれたということでしょう」と
答えましたが。ーーしかしそれは、正解のうちの一つにしか過ぎません。

気候風土による自然資源の豊かさと、極めて優秀な人材資源が多いことも大き
な原因ですが、さらなる決定打は、製造業が日々作り出す工業製品。つまり、
人工資源が世界に誇れるもので、アメリカにしても各国にしても、日本の工業
製品なくしては工業生産が出来ないということです。

石油やウランなどの埋蔵資源は、なるほど無いに等しいですが、人工資源は世
界一なのです。世界が日本の人工資源を必要としているのは事実です。

しかし1980年代には、「日本企業の海外進出は、形を変えた大東亜共栄圏
構想による侵略で、再びアジアを植民地にし、アジアの労働者を使役し搾取し
ようとしている」というアメリカの対日工作に煽られたアジアの人々が騒いだ
り、日本人の左翼までもが同調したりしたこともりましたが、進出した企業は
進出先国の経済発展に大きく寄与し、やがてアジアの奇跡と言わしめるほどの
アジア各国の急成長に貢献しました。

「それまでのアジアは、西洋に振り回されだけで、彼らの決定に従うだけの存
在でしかなかったが、日本の成功が、私たちに主体的な要員になれることを教
えてくれた」ーーとマレーシアのマハティール首相が語っています。

戦前も戦後も日本は、欧米植民地主義のように自国利益だけを追求するような
ことはしていません。しかし、今だにオランダ・イギリス・アメリカ・オース
トラリア・ニュージーランド、そしてその尻馬に乗って中国までもが「戦前の
日本はアジアの国々を植民地にし、搾取して大日本帝国を築いた」などと流布
させているのはもっての外です。

史実としては、韓国を統治下に措き、台湾を植民地とし、大戦中は東南アジア
全域に進軍して行った日本軍にも、戦争の常として、いろいろ行過ぎた行為も
あったとは思いますが、決してその地の人たちを抹殺するような意志も意図も
ありませんでしたし、まして搾取して利を得るなどという植民地政策だけ採っ
てきたわけではありません。
ーーこの私見には必ず反論があるでしょう。

“絶対に他人の意見を受け入れない”というわけではありません。単なる中傷
や罵詈雑言では議論になりませんから、万人が認識できるような根拠を示した
反論を期待しているのです。

└──────────
┌──────────「たろおじさん」――――――――― 2005/04/06

竹島問題で、騒がしくなってきました。この関係での資料がほとんどない中で
gosakuさんの力作は意味が大きいと思われます。

ただ、記事の中で、明瞭な時間前後があります。
下記に対象部分を引用いたしますので、ご検討下さい。

1692年の4ヶ月前の1696年という表現ですね。

チェック対象は、gosakuさんの特集部分と、バックナンバーでしょう。
以下引用です。

☆ 自虐史観の枷を解く(40) ―――――――――――― 2004/09/17

―― 私見:竹島問題(3):アンヨンポク(安龍福)証言の信憑性検証

      • -中略----
―― まず、
安龍福とは如何なる人物で、日本では何を証言し、どんな行動をとったのだろ
うか?――身元については、彼が所持していた腰牌(認識票)の写しが現存して
います。腰牌には「東莱/私奴、用朴、年33歳」とあります。
ーー東莱は出身地 用朴は本名、私奴は賎民、です。

1692年に、出雲藩村川家の船が見回りで、松島で不法に漁をしている彼ら
を見つけ「ここは日本の島である。速やかに立ち退くように」と言い渡したと
ころ、「我々は最初からこの島で鮑漁をするつもりはなく、国王の命令で三年
に一度、この島の北にある一島で鮑を獲っていたが、今年は嵐に遭ってこの島
に漂着した」答えました。

      • -中略----

安龍福が鳥取藩へ密航する4ヶ月ほど前の、1696年1月28日、既に幕府
は欝陵島への渡海を禁じており、欝陵島で鳥取藩の漁民たちと遭遇するなどと
いうことは不可能事です。また、日本側には、禁を犯して出漁した漁民たちが
処刑されたという記録もありません。

└──────────
┌──────────「(^^) OJIN です(^^)」

たろおじさんから、サイト収載記事、gosakuさんの「私見:竹島問題(3):
アンヨンポク(安龍福)証言の信憑性検証」の記事中に「明瞭な時間前後があり
ます」というご指摘を頂きました。

ーーgosakuさんより、参考資料を点検し直した上での答復を頂きました。

「元記事の記述不足で、事象が混同される表現になっていた」とのことだった
んですが、、その答復が元記事よりも長い!?ものでしたので、答復とせずに
元記事のほうを修正させて頂きました。(このページの記事本文 ▲ です)

たろおじさん、ありがとうございました!

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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。


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  • 最終更新:2009-03-08 05:29:51

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