竹島は日本の固有領土か? 2

2008年08月05日 
■竹島(=独島)は日本の固有領土か?


自分自身の勉強も兼ね、今後、竹島(=独島)問題の記事を紹介していこうと思います。




<寄稿>独島は日本の「固有領土」か? 朴炳渉 2006-05-10


外務省ホームページに見る薄弱な根拠

独島問題 歴史的・根本的に考える

 
 
3.明治政府は独島を日本の領土外と宣言

日本では専門家以外ほとんど知られていないが、明治新政府は朝鮮を内探するため、1869年に外務省高官を朝鮮へ派遣した。翌年、高官は報告書「朝鮮国交際始末内探書」を提出し、そのなかで「竹島松島朝鮮付属に相成候始末」という一項をもうけて、松島・竹島が朝鮮領であることを明確にした。これは単なる報告書にすぎないが、その内容から明らかなように、外務省が江戸幕府の「竹島一件」のてん末を継承し、独島を朝鮮領と認識したことを示した点で重要である。



太政官指令書の存在

それよりも重要なのは、松島・竹島を版図外とした太政官指令である。指令のきっかけは新政府の地籍編纂事業だった。新政府は日本各地の地籍を編纂するにあたり、松島・竹島が日本領かどうかの検討を行った。その際「版図の取捨は国家の重大事」との考えから慎重に江戸時代の「竹島一件」などを吟味した。

その結果、やはり松島・竹島は日本領でないとの結論をくだし、1877(明治10)年、明治政府の最高機関である太政官は「日本海内竹島外一島を版図外とする」との指令をだした。この画期的な太政官指令書を今の外務省は決して明らかにしようとしないが、その姿勢は情報隠しに等しいといえよう。太政官指令書には付属文書「島根県伺」があるが、そこにおいて独島は「外一島」として、こう記述された。 (下記ホームページの太政官指令書を挿入希望) http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/shisho_jpn/dajou_ruiten.pdf

「次に一島あり。松島と呼ぶ。周回三町。竹島と同一の船路にある。隠岐をへだてる八十里。竹木は希で、魚獣を産する」

この文書にて松島は竹島の付属島のように書かれたが、このように両島は一対という意識が日本では強かったので、明治政府は竹島とともに松島も版図外としたのである。元来、松島には松の木どころか樹木が1本もないにもかかわらず松島と呼ばれたのも竹島と一対という認識のためである。



日露戦争中強引に編入

さて、「島根県伺」における松島の位置は、隠岐から八十里、竹島から四十里とされた。距離は実際より遠めだが、この距離の記述をはじめ付属文書の内容は、実際に渡海事業をおこなった大谷家などの文書や地図が元になっているだけに、松島が今日の独島をさすことは間違いない。

明治政府はそれらの史料や、朝鮮との書簡などを精査して、竹島および外一島、すなわち松島・竹島を一対にして朝鮮領と判断し、日本の領土外とする指令を布告したのだった。この重要な太政官指令について外務省はホームページをはじめ全ての文書で沈黙を守っている。

さらに重要な史実がある。明治政府は、水路部が日本や隣国の沿岸を測量し、近代国家として日本の領域を画定して水路誌を発刊したが、その際に独島を「リアンコールト列岩」の名で『日本水路誌』でなく『朝鮮水路誌』(1894)に含めたのである。

この事実から国境画定機関である水路部は日露戦争以前に独島を朝鮮領と認識していたのは明らかである。これについても外務省のホームページは一切沈黙している。外務省はこうした数々のアキレス腱をかかえたまま「竹島は日本の固有領土」との主張をくり返しているが、これは重大な情報操作である。



 4.帝国主義的な独島奪取

以上のように、明治政府は独島を韓国領と判断しておきながら、1905年、突如として独島を日本領へ編入することを閣議決定した。その背景には、日露戦争という「時局なればこそ、その領土編入を急要とするなり。望楼を建築し、無線もしくは海底電信を設置せば敵艦監視上きわめて届竟ならずや」とする外務省政務局長・山座円次郎の判断などが推進力になったのである。

実際、同島周辺は軍事的に重要な海域であった。日本が独島を編入したわずか3か月後、ロシアとの間で歴史的な「日本海海戦」が沖ノ島の沖合から同島近海で戦われ、日本は圧勝する。この海戦は独島の戦略的重要性をはからずも証明したが、それほど重要な独島を、日本はノドから手が出るほど欲しかったのである。

そのため、日本政府は日露戦争の最中である1905年2月、隠岐の商人である中井養三郎から内務・外務・農務の三省に提出された「リャンコ島領土編入並に貸下願」を認める形でリャンコ島(独島)の奪取を閣議決定した。その際、「版図の取捨は国家の重大事」という内務省の見解にもかかわらず、その決定を官報に公示しなかった。

わずかに島根県が独島を新発見地であるかのように装って、島根県告示第四十号で島の位置のみを明示し「竹島と称し、自今本県所属隠岐島司の所管と定めらる」と布告した。これは地方新聞に報じられたが、そこでも旧島名の記述もなければ、領土編入という言葉すらなかった。

領土編入が太政官指令に反するのみならず、他国の領土を自国へ編入するのは明らかに国際法に反するだけに、内密裡に処理されたようである。秘密処理の結果、日本海海戦の勝利を伝える新聞や、はなはだしくは政府の官報すら新名称である「竹島」の名を使用せずに「リアンコルド岩」という外国名を用いたほどである。

一方、閣議で領土編入の提案部署であった内務省が、かつて独島を「韓国領地の疑いある」と判断していたにもかかわらず、明治政府は小笠原諸島編入の場合に行ったような関係国との協議を行わなかった。同島の場合、日本政府は関係国の米・英両国と何度も協議し、両国の了解を得て同島を統治することを欧米12か国に通告したのであった。これは欧米列強や国際法を重視した措置であった。国際法に対する取り組みは独島の場合と大違いであった。

両者の違いは当時の国際法の性格にある。現在と違ってその当時の国際法は基本的に欧米列強間における利害調整のための道具であった。そのため、侵略戦争すら合法であった。そうした弱肉強食の時代にあって、列強国は相手が弱小国とみるや、国際法など無視してかかるのが常であった。 たとえば1905年8月の第2次日英同盟などがそのいい例である。この条約は、前年の日韓議定書に明らかに反して結ばれたが、韓国の抗議に対し日英両国はなんらの措置をとらず「イグノヲア」、つまり無視を決めこんだのである。当時は欧米列強のそのような帝国主義的手法が公然とまかりとおったのである。

日本は、そのような手法の延長で韓国を保護国とする乙巳条約(1905)を強要し、やがては韓国全体を併合したのであった。これが韓国に対し、甚大な被害と苦難をもたらしたことはいうまでもない。先日、大統領は特別談話で「独島は日本の韓半島奪取の過程で最初に併呑された歴史の地」と語ったが、今や、独島は日本による過去の侵略の象徴的存在となった感がある。

以上のように、独島はもともと日本の固有領土ではなかったし、明治政府は韓国領と判断し、日本の領土外と宣言した島であった。それを日露戦争という「時局なればこそ」戦略的に重要な島であると判断し、こっそり日本領へ編入したのであった。日本はそうした経緯を重く受けとめ、独島をふたたび領土外であると宣言するのが妥当である。

おことわりであるが、本稿では紙面の制約から資料の紹介などは割愛した。また論証が必ずしも十分でない部分は筆者のホームページ、下記「半月城通信」を参照されたい。

(半月城通信) http://www.han.org/a/half-moon/



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 〈お知らせ〉

インターネットなどをつうじて、独島の歴史の理解・普及をはかるため「竹島・独島問題ネット準備会」を立ち上げます。ご関心のある方は下記へご連絡ください。

朴炳渉(竹島・独島問題ネット準備会) half-moon@muj.biglobe.ne.jp

(2006.5.10 民団新聞)



「磯竹島略圖」(pdfファイル、591kB)

明治政府が日本の領土外と布告した竹島(鬱陵島)および松島(竹島=独島)の地図

(ご提供:漆崎英之氏)


後ほど、解説を加えていきます。

  • 最終更新:2009-02-08 04:48:00

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