通信使が驚いた日本(その6)日朝貿易

2009/01/21 09:00




18世紀初頭の日朝貿易はどのようだったのでしょうか。


鎖国の時代と言われる江戸時代にも、日本は長崎の出島で清国やオランダと交易し、薩摩藩を窓口に琉球との貿易もありました。これに加えて朝鮮との間では、対馬藩を窓口にして輸出入が行われていました。(この内、日本と正式な外交関係があったのは、朝鮮と琉球だけです。)


日朝貿易の拠点として、釜山に倭館がありました。1679年に移設された草梁倭館の広さは約11万坪で、なんと長崎の出島の25倍もの広さがあったのです。倭館には対馬藩の役人や商人が約500人常駐していて、外交や通商の実務に当っていました。


17世紀から18世紀にかけての、日朝貿易の内訳を見てみると、朝鮮から日本への輸出品目は、朝鮮人参、蜂蜜、綿糸、綿織物、米に加えて、中国産の生糸や絹織物などが主なものでした。日本から朝鮮への輸出品目には、染料、銀、銅、錫に加えて、オランダから輸入した煙草や胡椒などがありました。


徳川幕府が成立して後の半世紀あまり、日本の銀産出量は全世界の3分の1を占めるほどでした。金の産出量も多く、これら日本の金銀を目当てに17世紀のヨーロッパ諸国や中国、朝鮮は日本との交易に極めて意欲的でした。銀の流出があまりに急激なのに驚いて、幕府は輸入制限と輸入品の国産化を進めましたが、それでも17世紀末には銀不足が顕著になってきました。


対応策として幕府は銀貨の改鋳を繰り返し行って、銀の含有率を減らしましたが、含有率が半分になった時、たまりかねた朝鮮は銀貨の受け取りを拒否します。そのため、1710年に幕府は朝鮮からの輸入にだけに使える「特別の良質銀貨」を鋳造するに至ったのです。


そうこうしている内に、朝鮮産の木綿が日本国内で売れなくなります。

  • 最終更新:2009-02-10 16:24:12

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