通信使が驚いた日本(その7)木綿

2009/01/25 06:45



韓国では高麗末期の14世紀後半に綿花の生産が始まります。


元王朝の頃の中国に渡った両班(やんぱん)の文益漸という人が綿花の種を10粒持ち帰って植えたところ、その内一粒が花を咲かせた、それが最初なのだそうです。14世紀末には、木綿の生産が朝鮮全土に広まり、室町時代の日本もそれを輸入するようになっていました。しかし、木綿の品質改善の歩みは遅々たるものでした。


木綿を輸入していた日本も、江戸初期に河内での国産化に成功します。同時に、近畿地方や中部地方それに倉敷などで紡績や織布が始まりました。大坂は船場の繊維問屋は対馬藩から仕入れた朝鮮産の綿糸や綿織物と新規参入の国産品とを担いで、全国に販売展開して行きました。


繊維問屋は生き残りをかけて、顧客ニーズを聞き、仕入れ元に品質の改善とコストダウンを求めていきます。それに応えて、徐々に品質が良くなったのが、地の利を活かした国内産でした。18世紀には、朝鮮産の木綿が売れ難くなります。


当時対馬藩は、対朝鮮輸出の対価として、貨幣の代わりに綿織物を受け取ると大坂の繊維問屋に転売して利益を上げていました。しかし、18世紀に入ると、朝鮮の綿織物の品質が国内の綿織物に比べて見劣りするようになり、大坂への転売価格が日に日に下がってしまいました。


木綿を輸入しても利益を上げられなくなった対馬藩は、「貿易決済手段としては、綿織物を減らして、代わりに米を増やして欲しい」と、必死の交渉をしてやっと聞き入れられました。自ら折衝に当った雨森芳洲が、この間の苦労を、その著『交隣提醒』に書き記すとともに、「互いにあざむかず、争わず、真実をもって」交渉することの大切さを対馬藩主に説いています。


船場の商人たちの贅沢にも、申維翰は驚いています。

  • 最終更新:2009-02-10 16:22:15

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