「独島所属について」『史海』


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10.12.091948 - 12月12日 - 申奭鎬「独島所属について」『史海』創刊第一号 
1947年7月、竹島にやってきた日本人と韓国人が遭遇し、その報告を受けた韓国政府は それまで韓国/朝鮮の東端は東経130度56分23秒の竹嶼(韓国名竹島 : Boussole Rock)(崔南善『朝鮮常識問答』(1947), 同『朝鮮常識』(1948))としてきたにも関わらず、突然「古い昔から我々の漁業場として、また国防の基地として、我々の堂々たる版図に属していたものである。」 と根拠の無い主張をし始めます。 8月16日から「朝鮮山岳会は当時名望ある各界の専門家たちをすべて招請して「鬱陵島学術調査隊」を組織し」(鄭秉峻, 2008 )し、総勢80名で鬱陵島・独島(竹島)の調査を2週間、行いました。そのうち、竹島へは天候に恵まれた8/20の5時間半ほどのみの滞在だったようです。

本論文は、調査隊の一員であった歴史学者の申奭鎬の報告書であると同時に、1950年代に行われる日韓政府の論争の韓国政府の論拠となっているもので、戦後の竹島問題を考える上で大変重要なものです。(「他方、過渡政府の調査団に合流した申奭鎬もまた1948年12月に歴史雑誌『史海』に韓国の独島領有権の歴史を証明する論文を投稿した。申奭鎬の文章は個人の資格でのものというよりは独島調査団の公式報告書の性格を持っていた。61申奭鎬は解放後はじめて独島領有権の歴史的根拠を学術的に扱ったわけであるが、彼が発掘した資料はその後韓国の独島領有権を証明する重要な根拠となり、彼の主張は主要な学問的指標となった。まとめて言うならば申奭鎬の文章は1947-48年の時点において作成された独島領有権関連資料・根拠の集大成であった。」(鄭秉峻, 2008 ))

このたび島根県総務課竹島資料室のご好意により複写を送って頂いたのでここに公開し、さらにmatsuさんが急ぎ翻訳して下さったものを、あわせて皆さんと共有したいと思います。ご本人のご希望により、matsuさんの翻訳の クロスチェックもかねていますので、内容とともにご検討下さい。(matsuさん、改めて感謝します。)


申奭鎬「独島所属について」『史海』創刊第一号
(檀紀四二八一年(1948年)12月12日発行) 89p~100p

目次
1はじめに
2独島の地勢と産物
3独島の名称
4三峰島と独島
5鬱陵島所属問題と独島
6鬱陵島開拓と独島
7日本の独島強奪
8日本領有以後の独島
9結論

1 はじめに
昨年の夏、独島の所属問題が新聞紙上に現れたことは世人周知のことである。独島は東海の真ん中、鬱陵島東南東の海上49浬(かいり)、北緯37度14分18 秒、東経131度52分22秒地点にある無人の孤島で、本来、鬱陵島に属するわが国の島であったが、露日戦争当時に日本がこの島を強奪したあと、今日に至 るまで日本本土に属する島とされている。日本の桎梏から解放された今日、我々がこの島を回収しなければならないことは言うまでもないことである。筆者は、 昨年8月16日から約2週間、民政長官・安在鴻先生の命令を受け、外務処日本課長・秋仁奉氏、文教部編修士・李鳳秀氏、水産局技術士・韓基俊氏とともに独島を実地踏査したことがあり、この一文を草して、独島が本来わが国に属する島であったことを明白にしようと思う。

2 独島の地勢と産物
独島は東西二個の主島と周囲に碁布する数十個の岩嶼で成立しているが、二千尋の水深を持つ東海の海底から見れば、まるで燭台のようにとがって立っている島で ある。東西両島の距離は約200メートル、東島は周囲約1浬(かいり)半、西島は周囲約1浬、高さは150メートル内外になる極めて小さな火山島である。 東島には噴火口が完全に残っており、ちょうどどんぶりを置いたように内部が空洞になっていて、噴火口底には東壁底面から海水が流通している。島全体が火成 岩で成立しているので、島上にはひとつの木も見えず、ただ雑草があちこちに叢生しているのみである。島岸は海蝕により岩がとりまいているが周囲がみな断崖 絶壁になっているため、島上に上ることができず、絶壁には奇怪な洞窟が多くあり、洞窟と付近の岩嶼には、アシカ(可支)俗称オットセイ(海驢)が群棲して おり、海底の無数の岩面には、コンブ(訳注:ワカメとの混同か)、アワビ、サザエ、海蔘、ウニ(雲丹)が無尽蔵に繁殖している。付近の海中にはイカ、サ バ、ヒラメその他の魚類が多くいる。本島に船を着けることができる場所は東島と西島の間しかなく、東島の西側に砂利の多い土地が百余坪あり、ここに昔鬱陵島の人と日本人が家を建てた場所が残っている。そして、ここから東島に登ることが出来るが、傾斜面が60度以上になるため普通の人は登ることができない。 また、東島の南のほうに数十坪の平地があるが、登るのが難しいだけでなく海風を防ぐことができないため、ここも利用することができない場所である。『朝鮮 沿岸水路誌』と鬱陵島人の言によれば、西島の西南部に少量の淡水が出るというが、あちこち調査をしてみたが、これを発見することが出来なかった。大体、本島は平地と飲料水がないために人が定住することが出来ないところである。しかし、水産業上、軍事上から見て非常に重要なところであると言わざるを得ない。

3 独島の名称
独島という称号の起源については明確な記録は無いが、鬱陵島庁に保管している光武十年(西紀1906)丙午陰三月五日付の鬱陵郡守報告書に「本郡所属獨島」 とする記事があることから見て、たぶん高宗18年(西紀1881)の鬱陵島開拓以後、鬱陵島の住民が命名したようであり、東海の真ん中に孤独に立っている という理由で、このように命名されたようである。ところで光武九年(西紀1905日本の明治38年)露日戦争当時に日本軍がこの島を占領して以降、独島 という我が国の名称は消え、日本名の竹島(Dakeshima)と仏国名リヤンクール(Liancourt)、英国名ホネトゥ(Hornet)として現行 の海図上に表示されるようになった。元来、竹島は粛宗19年(西紀1693)以来、日本人が鬱陵島を指称する名称であるが、高宗時代(日本明治時代)に なって日本人が鬱陵島を松島と改称するようになると、本来の竹島名を独島に移して呼ぶようになったのである。日本の有名な植物学者、中井猛之進と、有名な 史学家、坪井九馬三は、日本の隠岐島の人たちが昔から独島を卵島と称していたとしているが(注1)、これは何の根拠もないものであり、故京城帝大教授田保橋潔先生が、『青丘學叢』第4号「鬱陵島名称について坪井博士の示教に答える」という論文で、すでに弁破したところである。そしてリヤンクール (Liancourt)は、憲宗15年(西紀1849)に仏国の捕鯨船リヤンクール号がこの島を発見してその船名により命名したものであり、ホネ トゥ(Hornet)は、哲宗6年(西紀1855)に英国の支那艦隊所属汽船ホネトゥ号がこの島を発見して、またその船名により名前をつけたものであ る。(注2)このように、独島である島に現在4つの名前があるが、元来この島は李朝の成宗朝に三峰島と称したようであり、粛宗朝に日本がこの島を我が国の領土として承認したものであって、近世に至って鬱陵島の人たちがもっとも多く利用する我が国に属する島である。

4 三峰島と独島
成宗実録を見ると、成宗二年から十二年まで(西紀1471~1481)三峰島に関する記事が多く見られる。三峰島は東海中にある島で、当時一つの謎となって いたところである。しかし、江原道と咸鏡道の人たちが軍役を免れ、税金を出さないようにするために、多くこの島に入るとして、国家ではこの島に人が往来す ることは厳禁し、数回にわたって捜討軍を組織し三峰島を捜索した。しかし捜討軍は一度も三峰島を発見できず、ただ永安道(咸鏡道)観察使 李克均が派遣さ れ、永興人の金自周等十二名が三峰島を眺め見てきたが、成宗実録に次のような金自周の報告記事がある。

兵曹啓: “永興人金自周供云: ‘本道觀察使, 以三峯島尋覓事, 遣自周及宋永老與前日往還金興、金漢京、李吾乙亡等十二人, 給麻尙船五隻入送, 去九月十六日於鏡城地瓮仇未發船(中略)二十五日西距島七八里許, 到泊望見, 則於島北有三石列立, 次小島, 次巖石列立, 次中島, 中島之西又有小島, 皆海水通流。 亦於海島之間, 有如人形別立者三十, 因疑懼不得直到, 畫島形而來。’ 臣等謂往年朴宗元由江原道發船, 遭風不至而還, 今漢京等發船於鏡城瓮仇未, 再由此路出入, 至畫島形而來, 今若更往, 可以尋覓。 請於明年四月風和時, 選有文武才者一人入送。” 從之。(注3)(訳注 :この申奭鎬氏の原文は ”去九月十六日於鏡城地瓮仇未發船”のあと、”向島, 同日到宿富寧地靑巖, 十七日到宿會寧地加隣串, 十八日到宿慶源地末應大,”の部分が成宗実録の原文から略されている。)
金自周等は、三峰島に上陸できずに西へ島を7~8里(約3キロ)隔てて、島の東から眺めてきた(訳注 : 原文は西으로부티 섬을七八里(約三키로) 밖에두고)が、彼らの眺め見た三峰島は今の独島と少しも違う点がない。すな わち金自周が言う島北の三石が列立していたということは西島の西北方に高く立つ3つの岩を言うものであり、次の小島と岩石は東西両島間に列立する無数の岩嶼を言ったもの、中島は西島を指称したものであり、中島之西の小島は東島の東南方に高くそびえる岩嶼を言ったもので、大概、いまの独島の貌形を彷彿させ る。島の間に海水が流通するということも、また独島の条件に符号する。彼が海島の間に人形三十を見たというが、これはたぶん、アシカ(オットセイ)を人形 と誤認したもののようだ。要するに、独島は15世紀末葉、今から480余年前の成宗朝に我が国の人がこれを発見し三峰島と称したのであるが、当時国家では この島だけでなく鬱陵島にも人が往来することを厳禁したために、高宗十八年に鬱陵島を開拓する時まで四百余年間、再び史上に現れることは無かった。

5 鬱陵島所属問題と独島
今から250余年前、粛宗朝に、我が国と日本の間で鬱陵島に関する所属問題が起こり、しばらくのあいだ外交的にお互いが争ったことがある。この問題に関する 詳しいことは後日に記述することにして、ここでは、ただその梗概を略述し独島との関係を説明しようと思う。鬱陵島は、三国時代に于山国、高麗時代に鬱陵島、蔚陵島、芋陵島、羽陵島、武陵島、あるいは茂陵島と称し、我が国に属する島であることは二言を要しないが、高麗初葉顕宗朝(11世紀)に女真人の侵掠 により、島内の人民を内陸に移住させ、その後この島を空けておいたようだ。(注4)ところが高麗末葉から李朝初期にかけて(14世紀)江原道沿岸地方の人たちが多くこの島に移住して鬱陵島に再び人が住むようになった。しかし、この島は陸地から遠く離れているために往来が不便であるばかりでなく、風波により 溺死する人が続出し、またこの島に移住する人は大概、軍役と税金を逃避しようとする者ばかりであり、またこの島は、倭寇の侵掠を受ける憂慮があるため、太宗十七年(西紀1417)に、三陟人の金麟雨を鬱陵島按撫使に任命し、居民八十余名を刷還し、世宗七年(西紀1425)に、また金麟雨を派遣してふたたび 居民を刷還し、同二十年(西紀1438)に護軍の南薈を派遣し、居民六十余名を刷還し、本島に人が入って住むことを厳禁した。(注5)しかし、本島は漁採 の利益が大きいので、慶尚道、江原道沿岸の漁民の往来を全く防げることは出来ず、ただ人が入って住むことを厳禁しただけであった。このように鬱陵島を完全 に空島とした間に、日本の因幡・伯耆州(島根県 訳注:鳥取県の誤り)などの漁民がしばしば鬱陵島に来てまた漁採を始めたが、日本人は鬱陵島を磯竹島あるいは竹島と称した。鬱陵島に大竹が生じるためにこのような名前をつけたようである。ところが、粛宗十九年(西紀1693 日本元禄六年)に、我が国の慶尚道東莱の漁民安龍福一行と日本伯耆州の漁民が鬱陵島で出会って衝突が起こったため、我が国と日本の間に鬱陵島の所属問題が起こり、日本は自国の竹島に朝鮮 漁民の往来を禁じてくれとしてきたが、我が国では日本で呼ぶ竹島は我が国の鬱陵島と同一であり、日本漁民の往来を禁じるように主張し、多年間お互いに外交 戦をしたが、結局日本が理に屈し、粛宗二十三年(西紀1697 日本元禄十年)2月、江戸幕府から、竹島すなわち鬱陵島を朝鮮の領土として承認し、日本の漁民の往来を厳禁したことは、我が国の史料である粛宗実録、同文彙考、通文館志、そして日本側の史料である朝鮮通交大紀、本邦朝鮮往復書、通航一覧などに 明記されているところである。憲宗三年(西紀1837 日本天保八年)に、日本は竹島すなわち鬱陵島に密貿易した石見国浜田松原無宿八右衛門を死刑に処 し、我が国に対する約束は遵守されたことも、日本側の史料である外交誌稿、日本財政経済史料と、歴史地理第55巻第6号 樋畑雪湖の論文に引用した文書 「東海道宿宿村触」に明記されているところであり、日本は江戸幕府の末期まで竹島を朝鮮領土と承認し、日本漁民の往来を厳禁した。竹島すなわち鬱陵島を朝 鮮領土と承認した以上、その属島である独島、即ちいま日本人が言う竹島もまた朝鮮領土と承認したと見ることができるのである。

6 鬱陵島開拓と独島
鬱陵島所属問題が解決した以後も、わが国では以前の通り鬱陵島に人が行って住むことを禁止し、1年おきに1回ずつ平海郡守あるいは蔚珍県令を派遣し、居民の有無を巡審し、本島所産の大竹、香木、山蔘を採取し、アシカ(可支魚)を捕獲した。ところが、その後日本は幕府が倒壊して、所謂明治維新が起こり、幕府時代の全ての禁令が解除されたばかりでなく、海外進出を奨励したため、日本人は再び鬱陵島に進出し、鬱陵島を松島と変称し、千古手付かずの鬱蒼たる木材を盗伐した。このため高宗十八年(西紀1881 日本明治十四年)に、わが国から外務卿代理上野景範に厳重 な抗議をすると同時に(注6)副護軍李奎遠を鬱陵島検察使に任命し、島内外の形勢を稠密に調査した後に、従来の方針を変更し、鬱陵島に入って住む人を募集 した。(注7)このように、鬱陵島開拓令が発布され、何百年もかたく閉ざされていた門を開くことになると、江原道、慶尚道沿岸の人たちはもちろん、全羅道、忠清道地方からも移住する人が多く、鬱陵島の山谷はその歳に開拓され、翌年、島長を設置し、光武五年(西紀1901)に島長を郡守に昇格し、島内行政 を担当させた。鬱陵島開拓当初に江陵から本島に移住した85歳の古老、洪在現氏や、崔興昱氏、崔鶴穆氏の言うのを聞けば、独島は清明な日、鬱陵島から見ることができる島なので、鬱陵島開拓以後、鬱陵島の人たちはすぐにこの島を発見し、あるいはコンブやアワビをとるために、あるいはアシカをとるために、何度も独島に出漁したと話しており、洪在現氏自身も十回余りこの島へ往来したというが、この事実は日本海軍省から発行された『朝鮮沿岸水路誌』にも明記されている。すなわち日本が独島を強奪する一年前である光武八年(西紀1904 明治三十七年)に、日本の軍艦対馬が独島を調査した時に、鬱陵島 の漁民がこの島へ来て菰草小屋を建てて十日ずつ滞在し、海驢すなわちアシカをとっていたことを記録している。(注8)これにより、独島は鬱陵島開拓以後す ぐにわが国の領土になったことは明白である。このため、光武十年に鬱陵郡守が「我國所属獨島」と記録し中央政府に報告したのである。

7 日本の独島強奪
以上のように、独島は鬱陵島に付属する島であり、元来我が国に属することは明白であるが、光武九年(西紀1905 明治38年)、露日戦争当時に日本は、独島に人が住んでいないことを奇貨として、鬱陵島の古名、竹島をもってこの島に命名し、同年2月2日づけ(訳注 : 2月22日の間違い)で思いのまま自国領土に編入し、島根県隠岐島に付属 させ、(注9)海軍の補給基地として使用し(注10)、翌年すなわち光武十年陰三月に、隠岐島司東文輔以下十余名の官員を鬱陵島に派遣し、鬱陵郡守沈興澤 に独島が日本の領土になったことを宣言し、爾後朝鮮漁民の独島往来を禁じてくれと言った。アシカの産地として有名な重要な属島ひとつを失った郡守沈興澤 は、次のような報告書を作成し、道庁あるいは中央政府に提出したようである。

報告書
本 郡所屬獨島가、在於本郡外洋百餘里許이읍드니、本月初四日辰時量에、輪船一隻이來泊于郡内道洞浦、而日本官人一行이到于官舎하여、自云、獨島가今為日本領 地故로、視察次로来島이다인바、其一行則日本島根縣隠岐島司東文輔、及事務官神田西由太郎、税務監督局長吉田平吾、分署長警部影山岩八郎、巡査一人、會議 員一人、醫師、技手各一人、其外随員十餘人이、先問戸總人口土地及生産多少하고、次問人員及経費幾許諸般事務을以調査樣으로録去이합기 茲以報告하오니、 照亮하심을務望함
光武十年 丙午 陰三月五日

こ の報告書は、鬱陵島庁に保管されている副本(控)を転載したもので、これがどのように処理されたのかはまだ詳細に知ることが出来ないが、当時日本勢力がす でに韓国政府を支配し、国家全体の運命が重大危機に直面していたために、政府は独島のような小さな無人の孤島に対してかえりみる余裕が無かっただけでな く、抗争する能力も無かった。こうして、独島は無念にも日本に奪われ、独島という名前は消え、日本の名前である竹島として現行の海図上に現れることになっ たのである。


8 日本領有以後の独島
以上のように、日本は、独島を強奪し朝鮮人の漁採を禁じた。しかし、地理上からみれば、独島は日本の隠岐島から86浬(かいり)、島根県境市(訳注:鳥取県 の誤)から130浬にもなる遠距離にあり、わが国の鬱陵島からは僅かに49浬にしかならない近距離にあることから、日本が独島を強奪した後にも日本人より も鬱陵島の人たちがより多くこの島を利用していた。このために日本政府の記録である『朝鮮沿岸水路誌』と準政府記録である『韓国水産誌』に、独島は朝鮮に 属する島であると記載されている。『韓国水産誌』は、日本が独島を強奪してから3年後の隆熙二年(西紀1908)に、韓国政府農商工部水産課長・庵原文一 以下、日本人官吏を総出動して、朝鮮に属する島嶼を一つ残らず実地踏査した後に、その位置と産物その他を明記して編纂出版した本であり、その第1輯第1編 地理第7章沿岸の水路告示条に、竹島(Liancourtrock)すなわち独島を記載し、独島を朝鮮の属島と認定している。また『朝鮮沿岸水路誌』は、 最近1933年(昭和八年)に日本海軍省で『本州沿海水路誌』と同時に発刊した本で、これに朝鮮に附属する島嶼を総網羅し、その位置と地勢および産物を詳 細に記録したものであるが、その第3編 朝鮮東岸に、鬱陵島および竹島を記載してあり、独島を朝鮮に属する島と明記している。『韓国水産誌』は国立図書館 にもあり普通に見ることができるが、『朝鮮沿岸水路誌』は日本海軍が専用に書いた本であるため、普通には見ることが出来ないものであり、このたびの独島調査に功績の大きい海岸警備隊浦項基地所属艦艇太田号の艇長室に備置するものを偶然にも発見し、艇長趙丁右中尉の好意により暫時この本を借りて竹島に関する 全文を抄出したのであるが、まさにこの本こそ独島問題を解決するのに重大な鍵を握っているものである。第6節で述べたように、日本が独島を強奪する以前 に、独島は鬱陵島の人たちがアシカをとるために菰草小屋を建てて夏の季節に十日ずつ滞在した朝鮮に属する島であるという明証を得ることが出来ることにも、 この本の存在価値がある。(注8)万が一、独島が本来から日本に属する島であるならば、朝鮮の島嶼のみを網羅したこの二つの書籍に、きっと記載しなかった はずである。ところで、日本海軍省から『朝鮮沿岸水路誌』と同時に発刊された『本州沿海水路誌』第二巻日本海沿岸には(この本も太田号の艇長室に備置する ものを見た)、竹島の名称のみを載せており、『朝鮮沿岸水路誌』の方にその位置や地勢および産物を詳細に記録していることは、竹島すなわち独島が本来から 朝鮮に属する島であり、地理的にも朝鮮に属することが最も合理的なので、このようにしたものなのである。日本政府および準政府の記録であるこの二つの書籍 から、独島が朝鮮に属する島であることを十分に証明することができ、1930年(昭和五年)6月に発行された『歴史地理』第55巻第6号に収載された樋畑雪湖の「日本海にある竹島の日鮮関係について」という小論文にも、竹島と鬱陵島はいま朝鮮江原道に属する朝鮮の領土であり日本海の最東端に属している」と 記述され、竹島すなわち独島が朝鮮領土であると指摘されている。

9 結論
以上、朝鮮および日本の古記録と、このたび調査した資料により、独島が本来わが国の領土であることを証明したと考えるが、再びそれを簡単に要約すれば以下の通りである。

(1)独島は、成宗朝の三峰島と同一の島であり、15世紀から我が国の領土となった。
(2)粛宗朝に、日本は竹島(鬱陵島)を朝鮮の領土であると承認したことから、その属島である竹島(独島)もまた朝鮮の領土であると承認したと看做される
(3)日本海軍省が発行した『朝鮮沿岸水路誌』と、鬱陵島の古老・洪在現氏等の言によれば、独島は鬱陵島開拓以後、光武九年(西暦1904年、明治三十七年)まで鬱陵島の人々が利用していた朝鮮に属する島であることは明白である。
(4)光武十年丙午陰暦3月5日付の鬱陵郡守の報告書と、帝国地名辞典その他の日本の地理学の諸書によれば、露日戦争当時に日本が独島を強奪したことは明白である。
(5)独島は本来朝鮮に属す島であり、地理的に朝鮮に属すことが最も合理的な理由として、日本が独島を強奪した後にも『朝鮮沿岸水路誌』『韓国水産誌』等日本政府と準政府の記録と、日本の民間学者・樋畑雪湖はすべて独島を朝鮮の属島と認定した。
(6)現在の日本の漁区を画定したマッカーサー線(makerther line)(訳注:MacArthur Lineの誤り)から論じても、その線が独島東方海上12浬(かいり)地点を通過し、独島が朝鮮の漁区に属している。

以上、6つの理由により、私は独島を朝鮮領土に還元できたと確信するものである。外務当局は、必ず国民に良い結果を伝えてくれることを信じている。不充分で はあるが、これをもって独島問題を重大視しておられる民政長官・安在鴻先生への報告とすると同時に独島調査についての私の責任を彌縫しようと思う。このた びの調査に特別の周旋をしていただいた安在鴻先生以下の中央庁幹部各位と、調査に多くの便宜を図っていただいた慶尚北道地方課長・権大一氏、海岸警備隊太 田号艇長・趙丁右氏、鬱陵島司・徐二煥氏以下、鬱陵島官民各位、そして山岳会長・宋錫夏氏以下、鬱陵島学術調査隊員諸位に対して謝意を表すものである。

1『歴史地理』 第38巻第3号(大正10年9月刊)「鬱陵島」(中井猛之進)、『同』第56巻第1号(昭和5年刊)「竹島について」(坪井九馬三)、『青丘學叢』第4号(昭和6年5月刊)「鬱陵島名称について 坪井博士の示教に答える」(田保橋潔)

2『青丘學叢』第3号(昭和6年2月刊)「鬱陵島の発見とその領有」(田保橋潔)

3『成宗実録』 巻72 成宗7年10月丁酉(27日)

4『高麗史』巻4 顕宗9年11月丙寅、同10年7月己卯、同13年7月丙子

5『太宗実録』巻32 太宗16年9月庚寅、巻33 太宗17年2月壬戌、『世宗実録』巻29 世宗7年8月甲戌、巻81 世宗20年4月甲戌、巻82 世宗20年7月戊戌、『新増東国與地勝覧』巻45蔚珍県山川(蔚陵島)

6『日省録』高宗18年5月癸未、『同文彙考』付属編1辺禁2辛巳 禮曹判書以禁断蔚陵島代(伐か)木事 抵外務卿書 外務大輔答書

7『承政院日記』高宗18年壬午 6月5日己亥

8 『朝鮮沿岸水路誌』第3編 朝鮮東岸 竹島条に、「島上には、家屋を建築できる場所は極めて少なく、明治37年11月、軍艦対馬がこの島を実測するときに は、東方島に漁夫用の菰草小屋があったが、風浪のためひどく破壊してしまったという。毎年、夏になると、海驢を捕まえるために鬱陵島からこの島へ来る者が 数十名の多数に達する時があった。彼らは島上に小屋を建て、毎回約十日間仮居したという」と記録されている。

9『帝国地名辞典』(大田為三郎編 明治45年刊)下巻竹島(940~941頁)

10『歴史地理』第56巻第1号(昭和5年7月刊)坪井九馬三の「竹島について」

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翻訳はmatsu氏による。

(091207翻訳着手 091209 091210一応完成)




鄭秉峻「 解放後韓国の独島に対する認識と政策(1945-51) 」(2008)

以前検討した戦後の韓国の新聞記事、chaamiey & matsuさんによる翻訳等はこちらでGTOMRさんがまとめて下さっているので、下記を参照下さい。

サンフランシスコ平和条約と韓国による竹島侵略 : 韓国人の「独島」妄言は戦後になってから

1933年 『朝鮮沿岸水路誌』 (Viewer 106ページ(本の86ページより))

その他関連投稿
Lies, Half-truths, & Dokdo Video, Part 11

after1945 - "Geography for Middle School(中等地理)" by the Association of Gyeongbuk Geographers(慶北地理學會) admits Dokdo is outside of the territory of Korea
1945-1953 - Map of Korea (USA) (Geographia map Co., INC in New York) excludes Liancourt Rocks from Korea

1945-1953 - Map of Japan (USA) (Geographia map Co., INC in New York) includes Liancourt Rocks in Japan

1946 - Feb. 13 - "Conference with GHQ/SCAP concerning separation of the administration"

1950's - Korean Video: "Dokdo & the Peace Line"
1950's - Japan & Korea Argue Their Claims in 1950s Letters



    

Posted by Kaneganese at 23:59
Labels: Docs: Korean, Posts: Japanese

  • 最終更新:2012-10-15 21:15:27

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