「私的所有」をめぐるノート



heuristic ways   2005-07-15


「私的所有」をめぐるノート


  しばらく前からルソーの『社会契約論』を読もうと試みているのだが、どうも集中力が続かなくてきちんと読めない。とりあえず迂回して、『人間不平等起原論』を読み始めたら、こちらはなかなか面白かった。
  たとえば「序文」にある次の一節は、歴史的文脈の違いを無視すれば、今日の「格差社会」をめぐる議論と同型であるようにみえる。
    •  人間社会を平静で公平な眼をもって眺めてみると、まずそれはただ強い者の暴力と弱い者への圧迫だけを示しているようにみえる。そこで、人の精神は前者の冷酷に対して反抗したり、後者の無自覚を嘆きたくなったりする。



「自然状態」という仮説


  『人間不平等起原論』は、1753年にディジョンのアカデミーが提出した問題、「人々の間における不平等の起原はなんであるか、そしてそれは自然法によって容認されるか」に関する論文として書かれたものである。
  よく知られているように、ルソーはまず人間の「自然状態」という「仮説」を持ち出し、そこから、「不平等の起原と進歩、政治的社会〔国家〕の設立と弊害」を、「もっぱら理性の光によって」、そして「人間の自然から演繹される限りにおいて」、説明しようとする。
  「自然状態」という仮説は、もちろん、「歴史的な真理ではなく、ただ臆測的で条件的な推理だと見なさなければならない」。つまり、それは一種の思考「実験」である。「自然人を認識することに成功するためには、いかなる実験が必要であろうか、そしてそのような実験を社会の内部で行う手段とはいかなるものであろうか。」
  だが、こういう思考実験が面白いのは、ルソーがいわば本気で、「人間」と動物、未開人、子供との類似や違いを観察し、比較し、考察しようとしているからである。*1   言い換えれば、前者と後者の違いは、「前提」されているのではなく、ただ観察と推理の結果として明らかになる。

  「自然状態」に関するルソーの基本的イメージは、「未開人は動物たちのあいだに分散して生活し」ており、「ひとりでいて、なにもしないで常に危険に脅かされている未開人は、動物と同じように眠ることを好み」、「彼の心は、なにものにも動かされず、ひたすら目前の自己の保存についての考えにのみ没頭して」おり、「この世界で彼の知っている幸福はただ食物と異性と休息だけである。彼の恐れる不幸はただ苦痛と飢餓だけである」、というものである。
  ルソーがホッブズの「自然状態」に関する想定-万人の万人に対する闘争-を批判するのは、ホッブズがいわば「結果であるものを原因とみなす」誤謬を犯しているからである。
    •  ところが彼(ホッブズ)は、未開人の自己保存のための配慮のなかに、社会の産物であり、法律を作る必要を生みだした多くの感情を満足させたいという欲求を、故なくして入れた結果、まさに反対のことを言っている。

  ホッブズ的な「闘争」は、社会的な不平等、したがって各人の私有の観念を前提にして発生するものだが、そうした私有の観念はすでに「社会の産物」であって、「最強者の法」が支配するような「自然状態」とは、社会の「出発点」ではなく、「過度の腐敗の結果」である。つまり、次のような「悪」の光景は、必ずしも人間の自然(本性)なのではなくて、むしろ「私有の効果」、「不平等の結果」と見なければならない。
    •  要するに、一方では競争と対抗意識と、他方では利害の対立と、つねに他人を犠牲にして自分の利益を得ようというひそかな欲望。これらすべての悪が私有の最初の効果であり、生れたばかりの不平等と切り離すことのできない結果なのである。



私有と国家


  面白いのは、ルソーが「私有の観念」の発見と成立を、国家の創設の問題と重ね合わせていることである。
  『人間不平等起原論』第二部の有名な冒頭は、単純だが何か原型的な光景を想像させる。*2
    •  ある土地に囲いをして「これはおれのものだ」と宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会〔国家〕の真の創立者であった。杭を引き抜きあるいは溝を埋めながら、「こんないかさま師の言うことなんか聞かないように気をつけろ。果実は万人のものであり、土地はだれのものでもないことを忘れるなら、それこそ君たちの身の破滅だぞ!」とその同胞たちにむかって叫んだ者がかりにあったとしたら、その人は、いかに多くの犯罪と戦争と殺人とを、またいかに多くの悲惨と恐怖とを人類に免れさせてやれたことであろう?

  こうして、「人間を自然状態から社会状態に導いてきたにちがいない、忘れられ、失われた行路」を追跡した結果、ルソーは不平等の三つの段階を想定する。
    •  これらのさまざまな変革のなかに不平等の進歩をたどってみると、われわれは、法律と所有権との設立がその第一期であり、為政者の職の設定が第二期で、最後の第三期は合法的な権力から専制的権力への変化であったことを見出すであろう。したがって富者と貧者との状態が第一の時期によって容認され、強者と弱者との状態が第二の時期によって容認され、そして第三の時期によっては主人と奴隷との状態が容認されるのであるが、この第三の時期が不平等の最後の段階であり、他のすべての時期が結局は帰着する限界であって、ついには、新しい諸変革が政府をすっかり解体させるか、またはこれを合法的な制度に近づけるにいたるのである。

  富者と貧者、強者と弱者、主人と奴隷。最初にも言ったが、今日の「格差社会」や「不平等社会」をめぐる議論のボキャブラリーは、すでにここに出ている。
  だが、こうしたホッブズ的な「自然状態」という想定を解体するためにこそ、ルソーは各人が自己保存のための結合や闘争(ルソーはそれは否定しない)以外には分散しており互いに無関心な「平和」な「自然状態」を設定しているのである。つまり、「服従と支配」という観念は、ある特定の「事情」の下で初めて成立するのであり、「何も所有しない人々」はそうした「束縛から自由」なのではないか、とルソーは言っているのだ。
    •  私はたえず、強者は弱者を圧迫するものだとくりかえし言われるのを聞く。しかしこの圧迫という語の意味を説明してもらいたいものだ。ある者が暴力をもって支配すれば、他の者はひたすらそのわがままに屈服して嘆き苦しむだろう。これこそまさに私がわれわれの社会で観察することなのである。しかし、それがどうして未開人についていわれうるだろうか、私にはわからない。彼らには服従と支配とはどういうことかを理解させるにも非常に骨が折れるだろう。(中略)…何も所有しない人々の間にいかなる従属関係の鉄鎖がありうるだろうか。もし私が一つの樹から追われるなら、それをすててほかの樹へ行きさえすればよい。もし私が或る場所で苦しめられるなら、ほかの場所へ移るのをだれが妨げるだろうか。(中略)
    •  …従属のきずなというものは、人々の相互依存と彼らを結びつける相互の欲望とからでなければ形成されないのだから、ある人を服従させることは、あらかじめその人間を他の人間がいなくてはやっていけないような事情の下におかないかぎり不可能である、ということは、だれでも知っているにちがいない。このような状況は自然状態には存在しないから、そこではだれでも束縛から自由であり、強者の法律は無用になっている。



「私的所有」の必然性と不可能性


  私有制度が社会的な不平等の基礎であり、「この社会と法律が弱い者には新たなくびきを、富める者には新たな力を与え」、「若干の野心家の利益のために、以後人類を労働と隷属と貧困に屈服させた」という社会認識から、新たな「諸変革」や「社会契約」への展望が生じてくる。そこから、共産主義的な「革命」や「階級闘争」へと飛躍するのは、あと一歩だろう。だが、われわれはすでにレーニン=スターリン主義的な「現実の社会主義」国家の展開と帰結をすでに見ている。「私的所有」をたんに否定すること(たとえば「国有」に変えること)は、多くの人々の財産のみならず、生命や自由までも奪ってしまうことになりかねない。
  ハンナ・アレントは、財産(property)とは、各人の生命と自由の基礎であり、「もともと、財産とは、世界の特定の部分に自分の場所を占めることだけを意味した」と指摘している。
  ここで興味深いのは、ルソーが「生命や自由」を、私的に「所有」したり「処分」したりできるか「疑わしい」ものと見ていることである。言い換えれば、ルソーはそれを、「私的所有」の臨界点と見ている。
    •  その上、所有権は、合意と、人間の制定とによるものであるから、だれでも思いのままに自分の所有している物を処分することができる。しかし、生命や自由のような、自然の本質的な贈り物に関しては同じようにはいかない。それらは各人に享受することが許されているが、それらを放棄する権利があるかどうかは、少なくとも疑わしい。すなわち、両者の一方〔自由〕を取り去れば、ひとは自分の存在を低下させ、他方〔生命〕を取り去れば、その存在をできるかぎり亡ぼしてしまう。

  財産が各人の生命と自由の基礎であるということから、一方では私的所有の必然性が生れてくる。だが、他方で、生命と自由は「各人に享受することが許されているが」、勝手に「放棄」したりできないものであるということから、私的所有の限界が生じる。*3
  マルクス=エンゲルスの『共産党宣言』は、「共産主義を特徴づけるものは、所有一般の廃止ではなく、ブルジョア的所有の廃止である」という。それは、「階級対立に基づく、人による人の搾取に基づく」ものだから。したがって、「この意味で共産主義者は、自分の理論を私的所有の廃止という一語に総括することができる」と。
  だが、あまり注目されないのは、こうした認識=宣言が、「現にすでに財産が廃止されている」事実を前提にしているということである。
    •  われわれ共産主義者は、個人が自力で得た、自分で働いて得た財産、あらゆる個人的自由、活動、独立の土台をなす財産を廃止しようと望んでいる、といって非難されている。
    •  働いて得た、自力で得た、自分で稼いだ財産だと!*4 君らはブルジョア的所有の以前にあった小市民的・小農民的所有のことを言っているのか? そんなものは、われわれが廃止するまでもない。工業の発展がすでにそれを廃止しているし、また日に日にそれを廃止しつつある。
    •  それとも、君らは近代のブルジョア的私的所有のことを言っているのか?
    •  だが、賃労働すなわちプロレタリアの労働は、プロレタリアに財産をつくりだすか? 決してつくりださない。それは資本をつくりだすのだ。

  ルソーがそこに、「若干の野心家の利益」を見出すのに対して、マルクス=エンゲルスは、「ブルジョア社会では、資本が独立性と個性とを持っていて、生きている個人は独立性も個性も持たない」状態に置かれていると見る。マルクスが資本家を問題にするのは、「経済的カテゴリーの人格化である限りの、一定の階級関係と利害関係の担い手である限りの人間」(『資本論』「第一版へのまえがき」)に関してであって、ブルジョアジーもまた「資本」という主体に従属しているにすぎない。資本もまた、「使用する」ことはできるが、「所有する」ことができるかどうかは「疑わしい」ものなのではないだろうか。そしてこの不確実性から、資本の増殖への無際限の欲望が生じてくる。
  必要なのは、この無際限の循環を「廃止する」こと、私的所有の目的と限界を設定することではないだろうか。
  各人は自分の生命と自由を守る限りで私的所有への権利をもつが、他人の生命と自由を脅かすような「財産への権利」はもたない。*5   各人は「世界の特定の部分に自分の場所を占める」権利をもつが、そのために他人をその居場所から追い出す権利はもたない。
  この原則をさまざまな具体的な場面に適用すること。*6



 *1:岩波文庫版の解説(平岡昇氏)を読むと、ルソーが「新大陸の未開人に関する記録」に、いわば「現在の人類学や民族学」に近い関心をもっていたことが、「レヴィ・ストロスなどによって指摘されている」という。

 *2:今日、われわれは、そこからパレスチナの「壁」、韓国との「竹島」問題や中国との「尖閣諸島」問題、沖縄の基地問題等、土地の「囲い」をめぐる問題を想像することができるし、さらに正社員とフリーターの問題も、メンバーシップ(成員資格)の「囲い」をめぐる問題として理解できるだろう。

 *3:たとえば、言語に関しても、われわれはそれを「使用する」ことはできるが、「所有する」ことができるかどうかは「疑わしい」と見るべきだろう。ウィトゲンシュタインの「私的言語」批判は、いわば言語の「私的所有」批判なのではないだろうか。私的に所有された言語は、他人には意味が通じない。「言語の意味とは、その用法である」とすれば、他人にはその言語の使用方法がわからない。とすれば、それは「言語」たる条件を欠いている。ルソーの「法律」批判は、こうした文脈で見るとき、「私的に所有された法律」は「法」(社会契約)たる条件を欠いているという事態への批判として読むことができるのではないか。

 *4:最近よく「エンタの神様」で見る摩邪の「キレ芸」を思い出す。「ハァ~ッ?!」って感じでしょうか。

 *5:先日、岩波文庫版『人権宣言集』の宮沢俊義「人権宣言概説」をパラパラと読んでいたら、次のような一節があった。《この種の社会権の考えは、すでに古く、ジャコバン思想のうちにも、見られる。一七九三年四月二四日にロベスピエールがコンヴァンションに提出した草案には、財産権は、同胞の安全、自由、生存または財産を侵すことができず、それに反する所有または移転は、本質的に不法であり、不道徳であること、社会は、国民に職を与え、また働けない者には生活の手段を確保してやることにより、すべての国民の生存を保障する義務があること、貧者への生活保護は、富者の貧者に対する責務であること、生活に必要な程度を超えない収入しかもたない者は、納税の義務を免除されること、社会は、すべての国民に教育を保障しなくてはならないことなどを定めた規定があった。》 ▲ロベスピエールの名は、フランス革命期の「恐怖政治(Terreur)」の記憶とともに知られているが、「テロリズム」とはもともと「国家テロ」あるいは党派間の権力闘争の手段であったこと(たしかハンナ・アレントの指摘)は、今日では都合よく忘れられている。ロベスピエールはルソーの愛読者だったことでも知られており、秋山駿氏はたしか、ロベスピエールが「笑わない男」だったことに注目していた。一方、「笑う男」花田清輝氏は、「テロリストをふにゃふにゃにする」手練手管を考えようとしていた。 ▲「人および市民の権利宣言」(1789年)の第二条「あらゆる政治的団結の目的は、人の消滅することのない自然権を保全することである。これらの権利は、自由・所有権・安全および圧制への抵抗である」、第一二条「人および市民の権利の保障は、一の武力を必要とする。したがってこの武力は、すべての者の利益のために設けられるもので、それが委託される人々の特定の利益のため設けられるものではない」。武力の「無際限な」使用を批判するためには、武力の所有・使用の「目的と限界」について、原則的かつ具体的に再考・検討する必要があるだろう。

 *6:たとえばホームレスの人は、自己保存のために、一定の居住の場所を占める権利をもつが、そこが公共の場所(公園や駅)であるならば、住民や公権力とのさまざまな軋轢は避け得ない。ひきこもりの人は、自分の部屋に閉じこもる権利をもつが、そのために家族を経済的・精神的に苦しめてよいことにはならない。しかし、彼らが「財産」(property)をもたない「無産者」であるならば、問題は個人の意思や能力で解決できるものではなく、社会が個人の居場所(生命と自由への権利)をいかにして保障するかという課題に転化されなければならないはずである。



  • 最終更新:2010-06-11 17:16:13

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