エムペ 韓国語版Wikipediaの「獨島」

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翻訳:2009年12月上旬
一部未完・ミスあり

※文章は自然な日本語になるように編集しています。そのため、日本語→韓国語に翻訳する場合は原文と異なった文章になります。

韓国版Wikipedia

獨島


獨島は、東海の中の、韓国・鬱陵島の東南にある島で、東島と西島を含む合計91個の大小の島々から成っている。獨島の東島は、東経131度52分10.4秒、北緯37度14分26.8秒に位置し、西島は、東経131度51分54.6秒、北緯37度14分30.6秒に位置している。光復以降、現在まで韓国が実効支配しており、大韓民国の地方行政区画上、慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑獨島里に所属している。大韓民国では、この島を天然記念物第366号、獨島天然保護地域として指定保護している。

1952年から日本の一部極右団体では獨島を竹島という名前で呼んで、領有権を主張している。大韓民国では1952年に当時の執権者である李承晩大統領が平和線を宣言して日本に対して強硬に対する場合を除いては、獨島問題に対しおおむね「静かな外交」をしている。韓日両国以外の第三国では1849年フランスの捕鯨船リアンクール号が獨島を初めて発見したことから名付けたリアンクール岩礁という名前を使ったりもする。


1 地理

獨島は東海にある島で、大韓民国では領有権上に問題がないというが、日本では韓国との領有権紛争中であることを主張している。大韓民国は獨島が慶尚北道鬱陵郡に属し、日本では島根県隠岐郡に属すると主張している。 151メートル(距離)の二つの主要な島東道と西島および89個の附属島嶼で総91個の大小の島で形成されている。獨島は本来460万年前火山活動で生成された火山島であるが、現在は永い歳月の間侵食されて火山の跡は探し難い。東島と西島および付属島嶼は大部分水深10メートル未満の浅い土地に連結していて、東島は北緯37度14分26.8秒、東経131度52分10.4秒、西島は北緯37度14分30.6秒、東経131度51分54.6秒に位置している。 面積は東島73,297m2、西島88,639m2、附属島嶼25,517m2など総187,453m2だ。 東の島の高さは98.6メートル、西島の高さは168.5メートルである。西島にある山は「大韓峰」、東島の山は「日出峰」という。

獨島は慶尚北道鬱陵島の東南側で約87.4キロメートル離れていて、日本の隠岐島からは約157.5キロメートル離れている。 韓半島からの距離は約216.8キロメートル、日本の本州からは約250キロメートルだ。 天気が良ければ鬱陵島東海岸で獨島が見える。しかし、隠岐島では獨島が見えない。


2 行政区域

大韓民国の行政区域では慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑獨島里山1-37番地に属し、郵便番号は799-805だ。日本の行政区域では島根県隠岐郡隠岐の島町に属している。大韓民国は獨島を天然記念物第336号獨島天然保護区域に指定して保護している。 慶尚北道では獨島と近隣海上を鬱陵島とともに鬱陵島・獨島道立公園として指定し管理している。


3 気候

暖流の影響を多く受ける典型的な海洋性気候で平均降水量年1,240mm程度、年平均気温約12℃、1月平均気温1℃、8月平均気温23℃で温暖な方だ、年平均風速は4.3m/sで夏には南西風、冬には北東風が優勢を見せる。霧が多くて年中天気中曇る日は160日以上であり、雨または雪が降る日は150日ほどで、冬季降水量が多い。

出所:大韓民国気象庁2003年~2007年鬱陵島と獨島の天気(2003~2007年平均、鬱陵島気象台観測)
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
平均気温1.82 2.94 5.2 10.62 14.88 19.36 21.6 23.88 19.82 15.66 10.82 4.52
最高平均気温4.88 6.12 9.06 14.7 18.62 23 24.52 27.14 22.84 19.12 14.16 7.44
最低平均気温-0.4 0.44 2.3 7.3 11.68 16.64 19.44 21.58 17.62 13.24 8.38 2.26
降水量(mm) 94.72 66 86.3 136.54 181.88 148.82 259.06 200.14 277.82 100.06 124.44 155.34


4 自然と資源

獨島と周辺の島々は互いに分離しているように見えるが、実際には海底2千余メートルから海上にそびえた海山の峰の部分に該当する。

獨島周辺の海は多様な海洋生物が棲息していて、獨島一帯の自然環境を保存するために獨島を天然記念物に指定して保護している。

1982年に“獨島海草類(ウミツバメ・スムセ・クワカモメ)繁殖地(獨島海鳥類-繁殖地)”という名前で天然記念物に指定し、1999年に天然保護区域に名称を変えて動植物全体の植生を管理することになった。


5 動物

獨島は南北で往来する渡り鳥らが休んでいく主要休息所だ。 獣は1973年警備隊でウサギを放牧したが今は一匹もない。 昆虫は7首26と37種が棲息している。鳥類は様々なものが天然記念物にある。最近スムセの数は減少している一方、ウミツバメ数は増加していると知られている。クワカモメは3000余匹が棲息している。近隣海洋には青ドーム、ヘビギンボウ、イルゴプチュロルゲビヌル、ひらめ、ワカメ、チュホンガムペンなど多様な魚類が棲息している。また大邱地方環境庁は去る2007年5月から6ヶ月の間慶北大学校鬱陵島・獨島研究所と共同で四回にかけて獨島生態系を調査した結果無脊椎動物26種が生きているという事実を2007年12月11日発表した。


6 ニホンアシカ

日本アシカは東海(日本海)沿岸に棲息したアシカの亜種だ。 現在は絶滅されたと知られる動物で、朝鮮時代の人々はこれらを“可支”または“●(枝?)”と呼び、獨島を中心に東海(日本海)(韓国海)に数万匹が棲息したという。アシカの他の二つの亜種と地理的に遠く離れていて独自の類に分けられる。これらが留まったという可支岩が獨島に残っている。露日戦争前後に革を得るために始まった日本人の無分別な乱獲で徐々にその姿を隠し、1974年北海道で子アシカが確認されて以降は目撃されていない。


7 植物

傾斜が急で土壌が発達できず、雨が降り次第排水されて水分が不足して、自活する植物が少ないが鬱陵島から種が飛んできて50~60種の草と木がある。獨島に生える植物は背が低くて風に強いために適応して葉が厚くて産毛が多い。もちろん日照りと寒さにもよく耐える。2007年12月、外部で入れて直接植えた木の中でムクゲ、ほおの木、黒松、いぶきなどが大部分枯れたと明らかになった。

近隣の浅い海にはホンダワラ、大黄などの海洋植物が群落を成し遂げている。


8 細菌

獨島一帯は'細菌の報告所'と呼ばれる程多様な種類の細菌がたくさん棲息する所だ。韓国生命工学研究院で調査したことによれば2005年5種、2006年13種、2007年16種、2008年4種など2008年現在までに獨島で発見された新種の細菌は38種に達する。発見された新種細菌の学名には'獨島'や'東海'の名称がつけられた。(例:Dokdonella koreansis,Donghaeana dokdonensis等)このおかげで2005年から3年連続で大韓民国が新種細菌発表件数1位を占めることになった。


9 市場・資源
KAIST生命工学科の調査によれば、獨島近海海底にいわゆる'燃える氷'と呼ばれるメタンハイドレート(methane hydrate、固体天然ガスまたはメタン手荷物)が確認され、約6億トンほどの量が埋蔵されていることが明らかになった。メタンハイドレートは溶けて水とメタンガスを発生させ、効用価値が大きい未来清浄資源で、主要先進国の開発・研究対象に注目される資源だ。


10 主要施設

東島
船着き場と接岸施設(1997年11月完工、1998年8月指定公園に登録)80メートル500トン級船舶接岸可能
有人灯台1期
警備警戒所
テント9棟
登山ルート610メートル
獨島ヘリコプター着陸地
西島
漁民宿舎1棟(2階36坪)
登山ルート550メートル


11 歴史

●17世紀以前

4世紀頃に作られた新羅様式の土器が鬱陵島で発見された。これは鬱陵島住民たちが新羅と交流していたことを表す。
鬱陵島の人々は主に漁業をし、鬱陵島からは周辺に豊富な漁場を保有した獨島が見えるので当時鬱陵島の人々は獨島の存在を知っていただろうと推定される。

《三国史記》の説明

韓国の学者らは、新羅時代に獨島を于山島と呼び、三国史記(1145年)が獨島を記録した最初の歴史書文献だと主張する。《三国史記》には、新羅智証王即位13年の512年6月、悉直州の君主である異斯夫が于山国を征伐したという記録がある。だが、日本の学者らは《三国史記》の原文に鬱陵島と于山国に対する言及はあるが于山島に対する言及はないという点を指摘する。

“于山国在溟州正東海島或名欝陵島地方一百里恃不服伊異斯夫為何瑟羅州軍主謂于山人愚悍難以威来可以計服乃多造木偶師子分載戦船其国海岸告曰汝若不服則放此猛獣踏殺之国人恐懼則降”

●高麗・朝鮮初期

于山国とは高麗の時代まで朝貢関係を持続し、11世紀始めに女真の侵寇を受けた于山国の人々が本土に避難した後から直轄区域となった。これは朝鮮時代も続いた。

朝鮮初期、倭寇の侵略で多くの島民が被害をこうむるや、1416年(太宗18年)、政府は島民を本土に移住させる空島政策を実施した。翌年鬱陵島(当時:武陵(ムルン)島)の住民3人を移住させたのを始め、何回も武陵一帯の住民を移住させた。

《世宗実録》地理誌の説明

1530年に朝鮮で出された八道総図には于山島が今の獨島の位置とは反対の鬱陵島の西側に描いてある。また、地図には対馬島も含まれている。

1454年(世宗36年)に編纂された《世宗実録》地理誌の<蔚珍玄祖>部分に東海の武陵と于山の二島を言及している。

“于山武陵二島在県正東海中 二島相去不遠風日清明則可望見 新羅時称于山国... ”

一般的にこの内容は次のように解釈する。

“于山と武陵の二島が県の東の海の中にある。二島は互いに距離が遠くなく風が吹いて清明な天気ならば眺めることができる。新羅では于山国と称した。 ”

現在の鬱陵島と獨島に該当する二島が蔚珍方面にあって、二島の距離は“互いに遠くなく、天気がよければ見られるほど”というものが韓国学者らの解釈だ。

日本の学者らはこれを《新増東国輿地覧》の“于山島と鬱陵島が同一のものである。”という注釈を根拠に于山島は鬱陵島付近の竹島(注:竹嶼)であると主張している。また、安龍福の時の政府もこの部分をそのように解説したと主張した。だが、パク・セダン(1629~1703年)の文集の中の鬱陵島で聞いた話で“于山島は晴れた日、高いところに上がって見ることができる。”という内容が記録されているので、于山島が獨島であることを証明する資料と主張された。
●17世紀~ 18世紀

大谷九右衛門の竹島渡海由来記録書控によると、1618年徳川幕府が伯耆国(今の鳥取県)の漁夫家の大谷家と村上家に鬱陵島に渡る許可を出したという。当時、日本では獨島を「松島」、鬱陵島を「竹島」と呼んでいたという。韓国の学者らは、当時も鬱陵島と獨島が朝鮮の領土だったのでこの許可には根拠がなく、また根拠があるといっても(○○○)に渡っていくことは藩主の権限であり、幕府に許諾を求めたというのはまぎれもなく他国に渡っていく許可を求めたことを意味すると主張する。2家族は1696年まで本州と鬱陵島を行き来して鬱陵島近海で操業をした。しかし、日本の公式文書にはこの事実が表れていないことを日本で内藤正中島根大名誉教授が指摘した。

1693年漁夫の安龍福が鬱陵島に行き日本漁夫を見て操業に対して抗議し、日本人に捕まり日本へ行った以後政府と日本幕府に所信が行き来し、1697年徳川幕府は鬱陵島への出漁を禁止させるという所信を政府に送った。日本学者らは、ここに獨島に対する言及はないと主張している。

1779年「長久保赤水の<改正日本輿地路程全図>(1779年初版)等鬱陵島と竹島を韓半島と隠岐島の間に正確に記載する地図が多数存在する。」という点を上げ、昔から竹島の存在を認識していたと日本外務省は主張している。内藤正中教授はこれに対し「長久保赤水の日本輿地路程全図(?)には明らかに鬱陵島と竹島が記載されているが他国のように取り扱い彩色もならなかった。」と反論した。彼は「<三国通覧図解>(1785年)の付録<三国通覧輿地路程全図>(?)には竹島に対して「朝鮮のもの」という注釈を付けるなど朝鮮領土であることを明確にし、江戸時代の官撰紙にも竹島は出ていない。」と指摘した。

19世紀東京大附属島嶼館にある鬱陵島図解に関する資料の鬱陵島図解一件期は1836年に逮捕された会津屋八右衛門が直接述べた供述の裁判記録だ。記録の中には図解計画と過程が詳細に含んでいる。鬱陵島図解一件期は(○○?)での裁判記録で日本でも重要な資料として取り扱われている。鬱陵島図解一件期の最終部分に添付された地図は会津屋八右衛門が直接描いたという。地図は簡略ながらも詳しい。韓半島と鬱陵島(竹島)、獨島(松島)は同じ赤い色に塗られた。 当時日本では獨島を松島、鬱陵島を竹島と呼んだ。一方、隠岐島と日本領土は白色(若干黄色)に塗られている。両国の領土は明確に区分されている。浜田市立図書館に保管されている朝鮮竹島渡航始末期は会津屋八右衛門図解計画から死刑までが記録されている本だ。この本の地図はもう少し詳細だ。これまた日本は白色、獨島と鬱陵島、朝鮮は赤い色で塗っている。

1849年フランス捕鯨船リアンクル号の船員が西洋人では初めて獨島を発見し島に船舶の名前を付けた。以後同じように1854年にロシア軍艦の名前を取って「Manalai and Olivutsa Rocks」、1855年に英国船舶の名前を取って「Hornet Rocks」という名前がついた。だが、20世紀に出版された地図で使われている表記で韓国と日本で呼ばれる名前を抜けばリアンクル岩島が大部分だ。
1850年米国トーマス社で発刊した獨島地図には獨島が朝鮮の土地だと出ている。

1870年には1869年朝鮮に派遣された日本外務省管理3人が帰ってきて日本政府に<朝鮮国交際始末内探書>を提出した。この内探書には竹島(鬱陵島)と松島(獨島)が朝鮮領土になった始末に対して調査し鬱陵島と獨島は朝鮮領だと結論付けた内容が出ている。

1877年には当時日本政府の最高権力機関だった太政官が<太政官指令文>を通じて鬱陵島と獨島を朝鮮領土と認定した。日本内務省は1876年全国の指摘を調査して地図を作るために各藩に調査を指示した。その年10月16日島根県は鬱陵島と獨島を島根県の地図と指摘調査に含ませるのかを内務省に問い合わせした。

内務省は17世紀末朝鮮とやり取りした往復文書と記録らを全部調査した。内務省は5ヶ月間の調査結果この問題はすでに1699年に終わった問題で鬱陵島と獨島は朝鮮領であり「わが国(日本)とは関係がない」と結論付けて日本地図と指摘調査から除外することに決めた。

1881年に日本の外務省が北沢正誠に指示して出した本である《竹島考証》(上/中/ハ)によれば“松島は朝鮮の鬱陵島で、竹島はすぐそばの小さい島、すなわち竹島(日本で話す竹嶼)だ。」と明らかにした。また「今日の松島はまさに元禄12年称したところの竹島であり古来から我が版図外の土地であることが分かる。」と明らかにして獨島日本地図外側であることを明示した。

1883年日本海軍省が発行した《?瀛水路誌》第2冊(1883年3月)で獨島(「リヤンコ-ルト」列岩;257~258ページ)は欝陵島と同一項目に入れて鬱陵島の付属島と認定した。これは1886年に発行した同じ本第2版(397~398ページ)でも同じだ。

1892年日本の中村種米堂は《万国新地図》の地理統計表の朝鮮に鬱陵島と獨島を朝鮮領土と表記して発行した。

1894年フランスで獨島が朝鮮の土地だと明白に表わした地図が発見された。

1899年日本海軍省が《?瀛水路誌》の代わりに国家別水路誌を発刊したが、この時獨島は《朝鮮水路誌》第2版(1899.2.;「リヤンコ-ルト」列岩;263~264ページ)に収録した。

1900年(高宗38年)10月25日、大韓帝国政府は勅令41号を公布して鬱陵島を江原道の郡で昇格させ、この鬱陵郡の管轄区域に獨島(当時の名前石島)を含ませた。そしてこれを大韓帝国官報を通じて公布した。日本の学者らは石島が獨島を示すという根拠がないと指摘している。

●1901年~ 1945年

露日戦争中の1904年8月、日本政府は東海の中でロシア軍艦活動を偵察するために鬱陵島と獨島に軍事用望楼を設置しようとした。1905年1月28日、日本内閣会議で「竹島」を島根県隠岐島司の所管に指定し、同年2月22日には島を無主の土地と見なして日本領土に編入する内容の島根県告示第40号を発表し、6月5日に官報に「竹島」と明示して公布した。だが、当時まで土地を領土に編入する時は内閣会議を経て官報と新聞に告示してきた慣行とは違い唯一獨島の場合いわゆる島根県告示第40号は当時日本の104個の新聞の中のどこにも告示されず、4ヵ月が過ぎた6月には官報で告示した。さらにその後も70年が過ぎるまで島根県は現地図に獨島を入れなかった。これに対して日本の外務省は「1905年竹島を島根県に編入して竹島領有意志を再確認した。」と主張しているが、内藤正中教授は日本政府の役人らが朝鮮側にアシカ捉え請願(?)(獨島利用請願)を出そうとした業者を誘引して領土編入請願を出すようにと工作を広げ、露日戦争のために獨島を編入しようとしたことを明らかにした。

当時「松島」と「竹島」という名前の間に混乱があった。1905年以前には「松島」が獨島を示す言葉で、鬱陵島を「竹島」と呼んだが、1905年以後の地図の大部分は反対に、すなわち鬱陵島を「松島」、獨島を「竹島」と表記している。当時獨島の韓国語の名称は「石島」であり全羅道出身の鬱陵島移住民らは「トクソム(なまりで「トルソム」という意)」と呼んだ。

また、島根県告示第40号では無主地先取り論により「獨島は1905年当時主のない土地(無主地)だったから日本が無主地を先取りする場合領土獲得と認められるという国際法上要件を充足させ、島根県に編入させた合法的な日本の領土」と明らかにしていて、国際法的に正当な領土編入という重要な証拠としてその告示を前に出している。しかし、韓国の学者らは獨島は無主ではなかったし、日本さえ《竹島考証》(上/中/ハ)等を通して朝鮮領土であることを知っていたと主張している。

その上、当時の日本の内務省は露日戦争が終結する前に獨島を編入させるのは、列強に「日本が韓国併呑の野心があるのではないか」という疑いを持つようにする危険があると領土編入を反対した。この事実は獨島の日本編入は韓国領土の一部を日本領土に編入する行為であることを日本内務省自らが認めたという根拠で使われる。

国際法で称する先取りの場合、無主地域を自国の領域に編入するという事実を国内外に公表することになっているので、日本は正常に公布しなかった。 現在この告示の原本は唯一島根県庁にただ1枚保管されており、この文書は1905年2月22日当時島根県で発刊された島根県令や島根県訓令どこにも収録されてなく、しかもこの文書には“回覧”という朱印が鮮明につけられている。換言すれば、これは領土の合法的編入を明らかにする「告示」という日本の主張とは違って、単純に関係者何人かが回して見る「回覧」だけであり、これはまた、先行獲得が公表されて進行されないでこっそりと進行されたことを知らせる証拠になると韓国の学者らは主張する。

蔚島(鬱陵島)郡守・沈興沢は1906年3月28日に日本が獨島を領土に編入した事実を知ることになり、翌日江原道観察使を通じて大韓帝国政府にこの事実を報告したが、この報告で初めて島の名前に「独島」を使った。大韓帝国参政大臣?が日本に公式に抗議したのはその後であった。日本学者らは、韓半島で発行した新聞でも獨島編入に対する批判があったにもかかわらず、政府が1年の間何の公式的な非難をしなかったと指摘するが、韓国側ではこれが1905年11月に結ばれた乙巳条約を前後で起こった混乱のためだったと反論する。

一方1905年に出版された《韓国新地理》や同年9月に出版された《帝国百科事典》に収録された地図とともに島根県告示が発表されて数ヶ月の後に出版された日本地図には獨島を日本に属している領土と表わさないでいる。また、韓国の学者らは鬱陵島を示す言葉だった「竹島」を島根県告示に使ったことは誤ったことであり、「松島」と「竹島」という名前の間に混乱があった事実も当時日本が獨島に対する領土意識がなかったということを現わすと指摘している。

1907年日本海軍省が出した《朝鮮水路誌》第2改版では竹島[Liancourt rocks](451-454ページ)を収録し、これは日本が大韓帝国を併合した後の1933年に出した《朝鮮沿岸水路誌》にそのまま引き継がれていく。

1928年に発刊した日本の小学校の歴史不渡りは露日戦争当時の状況を説明する部分で日本の土地を赤色で表記した一方、獨島は韓半島のような索引紫色で表わした。小学校5学年から高等学校2学年を対象に教えるこの本は日本の国定教科書を配給する会社に出版され、当時東京帝国大学の歴史専攻教授が甘受した。

1933年に日本海軍が作成した《朝鮮沿岸水路誌》のような地図には獨島が朝鮮地域で入っている。朝鮮総督府が1936年に出した地図の<陸地測量部発行区域一覧?>、1943年出した教科書、1945年7月に出した<解凍紙?>には獨島が朝鮮地域の土地に出ている。これが獨島が朝鮮の領土だったとの考えを持っていたためだと見ることもできるが、一方ではその時韓半島に対する統治権は日本帝国が持っていたので韓半島側に分類することが気楽だろうと判断したものと見ることもできる。
●1946年~ 1950年

1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して連合国に無条件降伏した。1946年1月29日、敗戦した日本を統治した連合軍最高司令(Supreme Commander of Allied Powers)は日本政府に指示令(SCAPIN)第677号<若干の周辺地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書>で日本の領土を次の通り指定している。

For the purpose of this directive,Japan is defined to include the four main islands of Japan (Hokkaido,Honshu,Kyushu and Shikoku) and the approximately 1,000 smaller adjacent islands,including the Tsushima Islands and the Ryukyu (Nansei) Islands north of 30° North Latitude (excluding Kuchinoshima Island);and excluding (a) Utsuryo (Ullung) Island,Liancourt Rocks (Take Island) and Kuelpart (saishu or Cheju) Island,(b) the Ryukyu (nansei) Islands south of 30° North Latitude (including Kuchinoshima Island),the Izu,Kanpo,Sonin (Ogasawara) and Volcano (Kazan or Iwo) Island Groups,and all other outlying Pacific Islands including the Daito (Ohigashi or Gagari) Islands Group,and Parace Vela (Okino-tori),Kercus (Kinami-tori) and Canges (Nakano-tori) Islands,and (c) the Kurile (Ohishima) Islands,the Habomai (HapomazoIslands Group (including Suisho,Yuri,?ki-yuri,?hibotsu and Taraku Islands) and?oikotan Island.

だがこの指示令には「ポツダム宣言第8項で言及された附属島嶼に対する最終的な決定」ではないと書いている。実際に(b)と(c)に明示された島は以後に日本で返還されたが、獨島とともに(a)に明示されている鬱陵島と済州道は朝鮮の領土だったために大韓民国政府が樹立されてずっと領有権を持つようになった。

サンフランシスコ条約の1次草案には獨島が韓国の領土となっていたが、1949年12月29日に作成された6次草案には獨島が日本の領土となっていた。しかし結局最終案には獨島に対する言及がのせられなかった。

1951年8月10日米国はラスク文書を韓国に送った。韓日間の主権に対する米国政府の最終回答だった。ラスク文書で、獨島は日本領土と書いていた。

1946年6月22日指示令1033号<日本の漁業および捕鯨業の許可区域に関する覚書>でどんな日本漁船も獨島付近12海里以内の先へ渡ることができないように制限した。この線は司令官の名前を取っていわゆる「マッカーサーライン」と呼ばれた。

1947年8月、大韓民国では韓国山岳会主催で鬱陵島と獨島に対する1次学術調査が実施され、1948年8月15日、大韓民国政府が樹立されるのと同時に獨島は慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑道洞里山42-76番地と行政区域が決まった。

1948年6月30日に米空軍の爆撃演習で獨島近海で出漁中である漁民数十人が犠牲になり、1951年1月6日に慰霊碑が建設された。日本政府はこの点を指摘して連合軍が獨島を日本領土と見なしたと主張している。しかし、当時大韓民国政府はこれに抗議したこと、米国空軍司令官は「獨島」は米国空軍演習地域から除外されたという回答を1953年2月27日に大韓民国政府に送ってきた。これに伴い韓国では米国が大韓民国政府に回答したことから獨島が韓国領土で再確認されたと主張する。

1950年韓国戦争が起きるや国連軍が韓国領土を領空で防衛するために設定して現在まで使っている<韓国防空識別区域>(韓国防空識別区域:KADIZ;Korean Air Defense Identification Zone)で、国連軍(United Nations force)はKADIZ中に獨島を含ませて獨島を韓国領土で防御している。この事実は国連軍空軍も獨島を韓国領土で守っていることを明白に表していると韓国の学者らは主張する。

●1951年~ 1960年

1951年6月20日には駐韓米軍ジョンB.コルト中将が所信を通じて大韓民国チャン・ミョン国務総理に米空軍が獨島を訓練用で使えるようにしてくれと要請した。7月7日駐韓米8軍陸軍副司令官室が駐韓米司令官に送った報告書に「チャン・ミョン総理だけでなく獨島を管轄する内務長官もこれを承した。」と言及した。

1951年9月8日、日本と連合国はサンフランシスコ条約を調印して戦争を公式的で終えた。この条約は日本が権利を放棄しなければならない韓半島の島として済州道、巨文島、鬱陵島を明示しているが、獨島は韓半島の他の3167個の島とともに言及していない。1952年日本の毎日新聞はこれを報道して地図で獨島を大韓民国の領土と表わした。

1952年1月18日に韓国政府は「近隣の海洋主権に関する大統領宣言(平和線宣言)」を発表して獨島を平和線の中に含ませ保護するようにした。日本側はこれに抗議し韓国側に獨島に対する韓国領有権を否定する外交文書を送った。この時から獨島は国際社会で紛争地域と見え始めた。

1953年1月12日、韓国政府は平和線の内に出漁した外国漁船に対する拿捕を指示した。その後から日本漁船に対する銃撃と拿捕事件が相次ぐことになった。2月4日には日本の漁船第一大邦丸の日本人漁撈長が韓国警備艇の銃撃で死亡することもあった。日本側では韓日関係正常化以前までに総計328隻の船が砲撃されて44人の死傷者を出し、日本人3929人が抑留されたと主張する。

1953年4月27日鬱陵島住民ホン・スンチルを中心に33人の獨島義勇守備隊が結成された。6月26日米国船舶に偽装した船に乗って上陸した日本人が遭難漁民慰霊碑を破壊して「日本島根県隠岐郡五箇村」という内容の領有標識を設置して韓国の獨島近海操業に対して抗議した。これに伴い7月12日大韓民国国会は獨島を日本から守ることを決議し、獨島義勇守備隊は1956年12月30日(4月8日という説もある)大韓民国警察が警備任務を取得する時まで獨島に常駐することになった。以後獨島に対する一般人の出入りが禁止された。

1953年8月5日には獨島領土碑が建設された。1954年1月18日には領土標識が、8月15日には無人灯台が設置された。1954年9月25日、日本政府が国際司法裁判所に領有権紛争の最終決定を委任しようと韓国側に提案したが、韓国政府は獨島は明確に大韓民国の領土であり国際司法裁判所に委任するのは賢明でないといって10月28日これを拒否した。

●1961年~現在

1965年6月、大韓民国政府は韓日国交正常化と同時に平和線で規定した漁業境界線の代わりをする韓日漁業協定を結んだ。獨島の領有権は互いに主張していたのでこれに関する事項はこれに包含されなかった。交渉をする過程で日本の伊関佑二郎当時の局長が韓国のキム・ジョンピル当時中央情報部長に獨島を爆破しようという提案をすることもあった。

1981年8月28日明け方5時50分、日本巡視船PC114○○○○○領海を侵犯、獨島灯台の前東側500m海上まで漸近、乗務員10人余りが10分間双眼鏡で獨島灯台を観察して帰った。巡視船領海侵犯は1977年以後4年だけだ。

1981年に韓国はヘリコプター離着陸施設を設置し、1993年にはレーダー基地を、1997年11月24日には500トン級船舶を利用できる接岸施設と漁民宿舎をたてた。1998年12月には誘引灯台を設置した。大韓民国がこれと共に獨島に何かたてたり記念するために何か作るたびに日本外務省は抗議してきた。

大韓民国と日本は1998年漁業協定を結んだが、その結果獨島が韓日排他的経済水域中に置かれることになった。これに対して獨島の領有権が侵害されたとし憲法裁判所に憲法訴訟審判が請求されたが、憲法裁判所は漁業のために両国が定めた水域と島の領有権ないしは領海問題は互いに関連がないといってこれを棄却した。

2000年3月20日、鬱陵郡議会が獨島の行政区域を変更する内容の条例を通過させた。これに伴い2000年4月1日から獨島の行政区域が「慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑道洞里山42~76番地」から「慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑独島里山1-37番地」に変更になった。

2005年1月14日、日本の島根県議会は100年前に島を日本領土に編入するということを告示した2月22日を竹島の日に定める条例案を制定して2月23日に議会に上程し、3月16日にこの案を最終通過させた。大韓民国政府はこれに抗議し、慶尚北道道議会は2005年6月9日、10月を獨島の月にする条例案を可決した。「慶尚北道所属公務員と道歌基本財産などで2分の1以上を出資、出演した法人および団体役職員の公務上日本訪問を規制できる権限を道知事に与えること」と「獨島の月を10月にすること」を骨子とする。これは2005年6月現在の審査と公布過程が残っている。

2006年10月、日系韓国人の保坂祐二世宗大学校教授は19世紀に獨島を韓国の領土だと表記した日本の古地図2点を公開した(1882年製作された<朝鮮国全図>と1883年に製作された<大日本全図>) 同日、鬱陵島の獨島博物館を訪問してこの2つの地図を寄贈した。

●最近の動向

大韓民国は1948年政府樹立以後、獨島に対する実効的な支配をしている。大韓民国政府は、国際法上平和的な支配を継続することが領土権を主張できる最も確実な根拠と判断して獨島に対する外交的公論化を避けてきた。現在は外交通商部と国土海洋部ホームページに獨島問題に対する対応をしている。

2005年現在、独島に戸籍を置いている両国民は大韓民国には<獨島は我が領土〉を呼んだ歌手のチョン・グァンテを含めて1000人余り、日本には26人だ。だが、実際に暮らしている人は1991年から獨島里山20番地に住んでいるキム・ソンド、キム・シンニョル夫婦1世代2人だ。現在の大韓民国警察が国内治安担当医一環で警備をしている。

2005年4月23日、キム・某(39)とソン・某(32)は東島で結婚式を挙げて、獨島で結婚した最初の夫婦になった。大韓民国国会は2005年4月26日「獨島の持続可能な利用に関する法律案」を議決し、大韓民国海洋水産部は5年ごとに獨島利用基本計画を樹立することになった。

従来獨島問題に対して大部分の日本人は関心がなかったが、2000年代に入って韓国からの獨島問題の批判と関連した話題で扱う場合が増加した。日本の世論調査では「竹島(獨島)は日本の領土と考える。」という意見が多数を占めて「竹島の日」に対して日本内部の批判する立場は少数だ。日本の言論も2005年を基点に獨島問題を拡大して領土紛争地域と報道していて島根県をはじめとする周辺の県が連合して獨島に対する領有権を主張している。

日本は韓国の獨島、その他にもロシアとクリル列島問題、中華人民共和国、中華民国と尖閣諸島の領土問題を抱えていて、韓国政府が獨島問題を国際司法裁判所に委譲して決めることを願っている。これに大韓民国政府は日本の主張が領有権侵犯に該当する問題や、獨島は韓国固有の領土なので裁判に応じる理由がないと公式に答えている。一方、国際社会は力の論理に立つから国際司法裁判所でどんな結果が出るか予想ができず、日本政府は中国と尖閣諸島の論議、および東海(日本海)の名称を囲んだ立場とは違って対応するという批判も受けている。

2006年韓国のノ・ムヒョン大統領は韓日関係特別談話を発表し、日本に謝罪に符合する行動を促したが、彼は談話で「獨島は私たちの土地です。そのまま私たちの土地でなく、40年痛恨の歴史が明確に彫られている歴史の土地です。獨島は日本の韓半島侵奪過程で一番最初に併呑された私たちの土地です。日本が露日戦争中に戦争遂行を目的に編入して占領した土地です。」と話した。また日本が獨島に対する権利を主張するのは帝国主義侵略戦争による占領地権利、さらには過去植民地領土権を主張するというために獨島は完全な主権回復の象徴だと話した。両国の外交関係は急冷し、ノ・ムヒョン政府は駐日大使を召還した。

2008年2月、日本の外務省は日本の獨島領有権を主張するパンフレットを発刊して配布し、これに対して、大韓民国の東北アジア研究財団と韓国海洋水産開発院では反論する資料を発表した。

2008年7月には日本政府が中学校社会科教科書学習指導要領解説書に獨島を日本領土と表記して2012年から韓国の固有領土の獨島に対して「竹島は日本固有の領土」という内容を教育することを発表し、大韓民国政府の強い抗議を受けるなど、主権侵害の論議になっている。獨島の表記問題に対する論議が提起され大韓民国政府ではこれに対する対応も考慮している。

2008年7月29日、大韓民国政府樹立以後現職総理では初めてハン・スンス総理が獨島を訪問した。


12 関連研究および主張

●肉眼観測否定論

「川上の計算は背1.5mの人が水平面に立って観察するのを基準としたことであり、獨島の海抜高度が174mで、鬱陵島と獨島の通りが47.4海里なので、これを利用する場合背が1.7m以上の人が鬱陵島の海抜高度100m以上の高さで獨島を眺めるならばいくらでも見られる。」 -イ・ハンキ博士

《世宗実録》<地理誌>には「二島相去不遠風日清明則可望見」部分と関連、この時の二島は鬱陵島と獨島でないと主張する論拠の一つで1966年川上健三の計算値を土台に「獨島肉眼観測否定論」が主張された。

しかし、これはイ・ハンキ博士が誤りであることを指摘することで一段落し、2008年7月には国際韓国研究員が鬱陵島で獨島を肉眼観測と同じ条件で撮影した写真が公開されたりもした。

●日本の外務省の主張と反論

2008年2月,日本外務省は<竹島問題を理解するための10のポイント>という題名の文書をインターネットに掲示し、大韓民国の東北アジア歴史財団はこれに対し、<日本外務省の獨島広報パンフレットに対する反駁文>という文を掲示した。両者の主張を簡単に整理すれば次のようだ。

日本外務省(主張)
東北アジア歴史財団(反論)

日:日本は昔から獨島の存在を認識していた。
韓:提示した資料は鬱陵島と獨島が日本の領域でないことを表していて、日本の官庁で出した資料は獨島を韓国領土に含ませている。

日:韓国が昔から獨島を認識していたという証拠はない。
韓:獨島は鬱陵島から肉眼で観測されて、 15世紀以後の様々な文献に獨島を説明している。

日:日本は鬱陵島に行く時の停泊場で獨島を利用し、獨島で魚を釣ったりもしていて、遅くとも17世紀中頃には獨島の領有権を確立した。
韓:17世紀中頃、19世紀末の日本の文書で獨島は日本の領土から除外されている。

日:日本は17世紀末鬱陵島への渡航を禁止したが、獨島は渡航を禁止しなかった。
韓:17世紀末鳥取藩?から江戸幕府に対する返事で鬱陵島と獨島が鳥取藩所属ではないことを明らかにした。

日:安龍福の陳述内容は日本の記録と合わないなど疑問点が多い。
韓:安龍福の活動は備辺司で徹底した調査があった。日本の記録だけ信頼できるということは独断的な主張だ。

日:日本政府は1905年獨島を島根県に編入して獨島領有意思を確認した。
韓:1905年の編入は露日戦争と韓半島侵奪の過程で行われたことであり、不法・無効な措置だ。韓国は外交権が剥奪された後この事実を知ることになった。

日:サンフランシスコ平和条約基礎過程で韓国は領土に獨島を含ませるように要求したが米国は獨島が日本の管轄下にあると言及しこれを拒否した。
韓:日本は対日講和条約直後獨島が日本の所轄区域から除外されたことを確認した。

日:獨島は1952年駐日米軍の爆撃訓練区域と指定されて日本領土で取り扱いされたことを示唆する。
韓:米空軍は韓国の抗議に獨島を訓練区域から解除しし、韓国側に公式に通告した。

日:韓国は獨島を不法占拠していて日本は厳重に抗議している。
韓:日本は獨島に対する領有権を確立したことがない。

日:日本は獨島領有権に関する問題を国際司法裁判所に回付することを提案しているが韓国がこれを拒否している。
韓:日本は尖閣諸島や北方四島問題は国際司法裁判所回付を拒否して唯一獨島に対してだけ裁判所回付を主張している。


13 総理部令24号と大蔵省令4号

2009年1月2日、新たな事実が明らかになった。大韓民国国務総理の監督を受ける政府外郭研究機関の韓国水産海洋開発院は1951年6月6日に公布された日本の「総理府令24号」と1951年2月13日に公布された「大蔵省令4号」等二つの日本法令を捜し出したと2日明らかにした。この二つの令は全て日本の獨島への主権を否認する内容だ。

「総理府令24号」という日本が過去の朝鮮総督府の所有財産を整理する過程で「過去植民地であった島」と「現在日本の島」を区分する内容を含んでいるのに、この部令の第2条は「政令291号2条1項2号の規定を準用する場合には下述した島以外の島をいう」と書いた後除く島として「鬱陵島、獨島および済州島」を明記した。ここで言及された「政令291号」という1949年日本内閣が制定したことで「旧日本占領地域に本店を置いた会社が所有した日本の中にある財産整理に関する政令」だ。用語の定義を扱った2条の1項2号には「本邦(日本土地)は本州、北海道、四国、九州と主務省令が定めた付属島嶼をいう」とある。「総理部令24号」より先立って公布された「大蔵省令4号」とは「共済組合などで年金を受ける者のための特別措置法4条3項規定に基づいた付属島嶼は下述した島嶼以外の島をいう」として「鬱陵島、獨島および済州島」を付属島嶼から除外される島々と明記した。

「年金を支給しなければならない者は戸籍法規定の適用を受ける者として本邦(本州、四国、九州と北海道および財務省令に定めた付属島嶼、硫黄列島と?および北緯27度14秒南の南西諸島を含む。) 中に住所や居住地がある者に限る。」- 1950年、特別措置法4条3項

2008年7月、韓日会談関連情報公開請求訴訟で勝訴したチェ・ポンテは6万ページに達する韓日会談関連日本側文書を渡された。ところが文書に黒く削除された部分があり、それが何か確認する過程で「総理府令」の存在を知ることになった。この事実を捜し出した韓国水産海洋開発院は2008年12月31日、大統領に報告した。

日本の外務省はこの法令が米国の日本占領当時日本政府の行政権が及ぼす範囲が表示されただけで、日本の領土範囲を表わすのではないとし反論した。

14 大蔵省令37号と43号

2009年1月11日、法的に有効な日本の現行法令二件に獨島を日本領土から除外する規定(大蔵省令37号、43号)があると確認された。「総理府令24号」と「大蔵省令4号」に対する日本外務省の反論は「大蔵省令37号」と「大蔵省令43号」に対しては次のような理由で説得力が落ちる。

行政権を基準としないで、「旧日本占領地域」と「本邦(本来の日本領土)」などの範疇を区分して領土を定義している。
米軍政が終わった後に公布され、今でも現行法令として有効だ。
米軍政以後の改正過程でも獨島を領土で排除する規定が維持された。

15 大蔵省告示654号
1946年8月15日、大蔵省は戦後日本企業の債務解決のために「会社経理応急措置法」施行令を制定して日本が占領した領土中外国と分類した地域を規定した内容を含んでいる。この告示によれば朝鮮と台湾、サハリン、千島列島、南洋群島は外国に分類され、獨島も別個項目で外国に規定された。

……続く

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  • 最終更新:2012-09-11 19:27:22

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