世宗実録地理誌の『于山島』

世宗実録(世宗実録 巻153 地理誌) 江原道 三陟都護府 蔚珍県
世宗実録圏153 地理誌江原道三尺都護府蔚珍県(1432年及び 1454年編纂)
于山武陵二島,在県正東海中.二島相去不遠,風日清明, 則可望見.
新羅時,称于山国,一云鬱陵島.地方百里, 恃険不服,
智証王十二年,異斯夫為何瑟羅州軍主,謂于山人愚悍,難以威来,可以計服,乃多以木造猛獣,分載戦船,抵其国詐之曰, 汝若不服則 放此獣,国人懼来降.
高麗太祖十三年,其島人,使白吉土豆献方物
毅宗十三年,審察使,金柔立等回来,告島中有泰山, 従山頂向東行 至海一万余歩 向西行一万三千余歩,向南行一万五千余歩,向北行八千余歩,
有村落基址七所,或有石仏像鉄鐘石塔,多生柴胡蒿本石南草 我太祖時,聞流民,外入其島者甚多,再命三陟人金麟雨,為按撫使 刷出空其也,麟雨言,土地沃饒,竹大如柱,鼠大如猫,桃核大於升, 凡物称是

傘と武陵,二つの島が現の正東方海の中にある.二つの島がお互いに距離が遠くなくて,天気が晴れれば眺めることができる.
新羅の時に于山国,または鬱陵島だと称した.地区域は 1百里で,(人々が) 険しい地形に寄り掛かって従わないので,ジズングワング 12年,引っ越し部がハスルラズ君主になって早いのを,"于山国人々は愚かで荒しくて威厳では服従させにくいから,優に計巧としてしよう." してからは,
木で猛獣をたくさん作って,戦闘船に分けて積んでその国へ行って欺いて言うのを,"君たちが降伏しなければ,このけだものを解いて食うようにしよう."したら,その国人々が恐ろしがって来て降伏した.

高麗太祖 13年,その島人々が白旗を,トドにとって小間物を献納するようにした. ウィゾング 13年,シムチァルサギムユリブなどが帰って来て報告するのを,"島の中大きい山があるのに,山頂から洞方へ海まで 1万余補,西の方に 1万 3千余補,南に 1万 5千余補,北に 8千余補になって, チォンラックトが 7箇所あり,たまに石仏・スェッゾング・石塔があって,諡号・ホボン・石楠初などがたくさん出る." した. 

右里太祖の時,流民たちがその島で逃げて入って行く者が甚だしく多いと言うことを聞いて, また三尺人キム・インウを命じて按撫使にして,人々を掃いて出して留守にしたが,インウが言うのを,"土地は肥えて,竹は大きさが柱みたいであり,握る大きさが高揚これでして,桃さんがドエッバックだけ一所,皆品物がこれと同じだ." した.




'金鉄丸'さんが肉眼で独島が見える時写真を撮って '神経北日補' (1999年 12月 11日付け)に載せた写真


世宗実録地理志で傘島は鬱陵島で天気が晴れればお互いに 見えると記録している.鬱陵島で独島が見えるという事実はもう証明された.また減らす日本側でもこれ 事実に駁していない.

それでは,鬱陵島で目に直接見える島で竹刀(デッソム),観音島があって鬱陵島海岸の三善癌,亀岩,燭台癌, ゴムバウィドングの岩が存在する.この中竹刀は苧洞港から 4km,観音島は北面先唱(島目) 前で約 100m 海上に位する. 竹刀や観音島は天気が曇っても鬱陵島でいつも見える. したがって史料での '傘も'はなれない.


あまりにも明らかに傘島は独島なのを記録した朝鮮の官撰史書だ.

日本側主張(下條正男)

日本側では 于山武陵二島,在県正東海中.二島相去不遠,風日清明, 則可望見. 義記録は韓半島で二つの島が 見えるという意味と駁している.したがって傘島が独島なのを証明して 与える資料はなれないと言う.

Shimojo(下條正男)は当時地理誌(地理志)を 編纂するには決まったギュシック(規式)があったがこの中図書に 関しては “諸島 陸地相去水路息数 及 島中在前人民接居農作有無 開写事”になっていたから原則的にすべての島は陸地からの 通りを数で何里式で表記したが鬱陵島はあんまり遠くて 彼と一緒に表記することができずに天気が晴れれば見えて望むことが 穏かならば二日に行くことができるという式で表記したことだと する.

すなわち世宗実録地理志の “相距不遠”,“則可望見”,東国輿地勝覧の “歴歴可見”は 皆陸地で鬱陵島が遠くなくて,バラダボインダは意味であり, “二日可到”は陸地で鬱陵島を二日なら行くことができるという 意味というのだ.事実がこのようだから当代の学者たちは 皆陸地で鬱陵島が見えることで解釈したと言う.

すなわち安竜福によって 韓日間に鬱陵島の領有権問題が発生された当時南欧だけは “本島 峯巒樹木 自陸地歴歴望見 在於我国輿地勝覧書”と しながら明確に陸地で鬱陵島が見えることで解釈したし またこれを根拠で日本に対して鬱陵島の領有権を主張したし, 安竜福の活動がある前に三渉府士を執り行なった 許穆が使った 東界にも “傘鬱陵島の一島,雄大壮厳な三つの峰を 見る.海が清ければ直ちに山の木の見えるに違いない”と しながら陸地で鬱陵島が見えることで解釈記述して あり,その他に当代の最高学者たちが使った '星湖〓説類選', '春官志','雑同散異','五州衍文長箋散稿','大東地志', '林下筆記' なども皆 '東国輿地勝覧'の記録を陸地で 鬱陵島が見えることで解釈していると言いながら鬱陵島で 独島が見える見えないと言う論争は四書(史書)の記録とは 関係がない全然無意味な論争だと言っている.

独島領有権に 大韓 日本側の 主張整理(金柄烈)で抜純

Shimojo教授の主張どおり世宗実録地理志の "于山武陵二島,在県正東海中.二島相去不遠,風日清明, 則可望見" での '則可望見'を韓半島で 二つの島(于山と 武陵)が見えるという意味で解釈して見よう.

傘もやっぱり韓半島で見えるという 記録になる.ここで傘島を日本側主張どおり竹刀(デッソム)で上程するとか 独島で見た場合,二つの場合皆で二つの島は陸地で見えるの ない.竹刀は鬱陵島の北東の方に位するので目撃になることができないし, 独島は蔚珍で約 216.8㎞距離にあるので目撃されるのが不可能だ. 彼の主張とおりなら世宗実録地理志の技術は荒唐な記録になる のだ.

世宗実録地理志の記録に先立って 二島が 傘と武陵なのを提示して "二島相去不遠",この二つの島がお互いに遠くないことを 記録している.二島 次の文具に 相定木(字)が登場しなかったら韓半島で 二つの島が見えるという解釈も可能だ.しかし確かに 相定木(字)を挟みこんで, 後句節の説明が二つの島の間の仕事なのを明らかにしている.あまりにも基本的な漢文解釈を思いきり 歪曲していることを確認することができる. 

たまに日本側ではこの場合と一緒に 後代の記録を土台で前代(前代)の記録を否定しようとするちょっと理解することができない 文献解釈をする場合が多い.後代の記録が前代の記録に影響を かけたわけはない.どうしても韓国側傘島を現在の鬱陵島や竹刀で 作ろうとする意図でむりやりに常識を脱した主張をしているのだ.

世宗実録洩らすのは朝鮮の領土に 大韓 地志として世宗大の領土範囲を明らかに規定した記録だ.これ 記録に傘島である独島を言及しているという事実は数万番(回)強調しても不足さが ないだろう. 

信証東国輿地勝覧の記録を見よう.

  • 最終更新:2009-02-26 17:34:45

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