世相実録の于山島

<太宗 17ニョンゾ記録の傘も(于山島)は現在の鬱陵島という主張に対して>

すぐ下の世宗実録地理志を含めて韓国の古文献と古地図で傘島と武陵島は高麗四肢リッジの記録に一島で混同をしたことを除けば例外なしに他の島に記録されている.太宗実録 17年の記録での傘島が '武陵も' という主張は常識を脱する主張であるしかない.傘島は武陵島の部属島で二つの島重い島の名前だけ挙論になれば,二つの島皆(武陵も+傘も)を称えることで断定したのだ. 

太宗のすぐ次の王朝の記録に二つの島を他の島で記録しているのに,別に異意を申し立てることはできない.

世宗実録の下の 3種記録をよく見よう.

世宗 29巻 7年 8月 8日(甲戌)
      • 甲戌/以前判 長 県事 金麟雨為 于山′ 武陵等処按撫使B
私は板屏期賢士(判長 県事) キム・インウ(金麟雨)を傘も(于山島)・武陵も(武陵島) 等地の按撫使(安撫使)にした.

世宗 30巻 7年 10月 20日(乙酉)
      • 于山 ′茂陵 等処按撫使 金麟雨捜捕本島避役男婦二十人来復 命B傘(于山)・武陵(茂陵) 等地で按撫使(安撫使) キム・インウ(金麟雨)が本島(本島)のピヨック(避役)一男女 20人を捜索して取って来て復命(復命)した.

世宗 30巻 7年 10月 26日(辛卯)
      • 賜 于山′ 茂陵等処按撫使 金麟雨冬衣二領′笠靴B 賜伴人 金加勿 衣一領′笠靴B


傘(于山)・武陵(茂陵) 等地の按撫使キム・インウ(金麟雨)に冬服も着と冠・はく下賜して,半分の(伴人) 金日照り(金加勿)にはあわせ一着と冠・はく下賜した.

世宗大王はキム・インウを太宗のように ‘武陵など先按撫使(武陵等処安撫使)’で任命したのではなく, ‘傘・武陵など先按撫使(于山 武陵等処安撫使)’で任命した.これは '武陵も'とともに '傘も'がキム・インウが振付しなければならない行政管理地域の中でグァンチング名称でも現われたのだ. 

他の一つはこの記録が '武陵も'を二回も ‘本島(本島)’で記録しているという事実だ.

これは世宗とその関連者たちが皆鬱陵島を 本島で,傘島を彼に属した島で分かっていたことをよく現わしてくれるのだ.


すなわち世宗と臣下たちはこの時に鬱陵島とその速度(属島)として傘も(于山島)があるというのを明確に再確認して,派遣する官吏の官職名前から ‘傘・ 武陵など先按撫使(于山 武陵等処安撫使)’で名付けたし,武陵島を本島で見て傘も(于山島)を彼に附属する島で区分して見たことをここで分かる.

このように,太宗次の王朝の記録に武陵と傘は確かに他の 2島に記録されているところ,太宗実録での '傘も'やはり,武陵とは違う島なことが明らかだとする.それでは,太宗実録での傘も(于山島)はデッソムである 竹島でもなくて, 鬱陵島の他の名称でもないことが現われた.やっぱり鬱陵島部属島中おかゆも次に大きい独島である数 しかないし,この事実は世宗実録地理志で明確に記録することで傘島は独島なのが証明される.

  • 最終更新:2009-02-26 17:31:52

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