任那日本府説(任那日本府説) 4

任那日本府説(任那日本府説) 4.ヤングラックギゴングビムン(永楽紀功碑文)と任那日本府(任那日本府) (2) | 伝統 22|0
96303| koguryoempir | 2008.12.29 15:21:33  


 




それではまた 1千 5百余年前に動いて見よう.

一応ヤングラックギゴングビムン(永楽紀功碑文)の神妙年組(辛卯年條) 記録に対して日本人たちが解釈した内容を書いて見る.

百残新羅 旧是属民 由来朝貢 而倭以辛卯年 来渡海破 百残???羅 以為臣民 以六年丙申王躬率大軍 討利残国

'バックザン(百残; 百済)と新羅(新羅)は昔から高句麗(高句麗)のソックミン(属民)として朝貢(朝貢)を捧げて来たが倭(倭)が神妙年(辛卯年; 西紀 391年)に海を渡って来てバックザンと任那(任那; 伽〓), 新羅を征腹して臣民(臣民)にしたので病気新年(丙申年; 396年)に太王(太王)が親しく大軍を導いて百済軍を討伐した.'

ゴンフング(建興) 2年(西紀 414年)に立てられたこの雨(碑)が世に知られたことは 19世紀後半だった. もっと悲しい事は発見初期には金国時代に建てられた雨で過ち知られたまま長年の歳月を雨風に風化されて来たのだ.BR>
しかし悲劇の手始めは歳月ではなくいつも人間にあるようもする.

が悲歌光ヶ土豪太王(広開土好太王)のフンゾックビ(勳積碑)というのと同時に日本書紀(日本書紀)との連結の輪を最初に見つけた者は中国人でもなくて韓国人でもない日本陸軍参謀本部所属の情報将校だったサコオカゲノ?ブ[酒奈景信] 中尉(中尉)だった.

本当に珍しい事だ. どうして日本の軍人がその頃(1880年代初期)に満洲に行っていたことだろう? その理由は彼は北京に派遣されて中国語を学んだ後漢方医に変装して中国各地を歩き回ったスパイだったからだ.

一方日本がこの当時満洲地域にスパイを派遣して情報収集に出るということは朝鮮だけではなく中原大陸に対する野慾まで持ち出したということを言い表すのだ.

こんなにサコオ中尉は碑文の石摺りをして日本に持って来るようになる. この時が 1883年の事だった.

参照で 1876年江華島条約(江華島條約), 1882年壬午軍乱(壬午軍乱), 1884年甲申の変(甲申政変) 1894年東学農民革命(東学農民革命)と日清戦争(清日戦争)...... ところでもっと不様な様子であることは拓本を研究した人も考古学者や歴史学者たちではなく日本陸軍参謀本部編纂と所属のグルス中尉とうそ什中尉だった.すなわち雨(碑)の利用価値を見つけたことも, 石摺りをしたことも, 研究をしたことも, はじめから最後まで陸軍参謀本部だったという話だ.

突き放したついでに一言加えようとすると 1894年日清戦争の渦中でも日本軍参謀本部は 6.3mにあたる巨大な碑石を一番(回)に拓本することができる紙をあらかじめ準備して行って石摺りをしたが, その重い付加参謀総長であるコマス乃美なの[小松宮] 大将(大将)に贈呈されたりした.

日清戦争は日本立場(入場)で朝鮮半島での覇権を争うとても重要な戦争だった. 事案を朝鮮内部情況にだけ局限させて見ると言っても東学農民革命の旋風の中で今後の局面を全然予測することができない状況だった.

すぐこのような緊急な状況の中で参謀本部の碑文拓本行為は一見理解することができない行動で映るかも知れない.

日本の軍事力が越等で余裕を使ったかも知れないが 1884年甲申の変に失敗した後にはみでた反日感情と清に主導権を奪われた日本としては過ぎ去った 10年はそれこそ刀を磨く歳月だったろう. そういう日本に東学農民革命による '清の朝鮮派兵'は千載一遇の機会だったろう. いよいよ天真条約(天津條約)に基づいて即刻な派兵を断行する.そのように重大した派兵と緻密に計画された日清戦争なのにのんびりとヨユブリル序ではなかった.

それならそんなに緊迫な状況下でも拓本を強行した日本の底意が何だったろうか? その同期, 意図が果してどこにあっただろうか? それも他人の奈良, 阿洲古い古代王国の碑石だ. 考古学籍で世界文化史蹟にとても重要な碑石だから危険を冒すとしても石摺りをしたとは考えられない. そこにはすべて理由があるでしょう.

まさにその碑文が日本人にはどんな戦争よりも重要だと判断したのではないか? そんな理由で日清戦争の渦中でも拓本をするようになったのではないか推論して見ることもできる. その意図と目的を解剖する事こそ任那日本府説(任那日本府説)の根拠に提示されたヤングラックギゴングビムン(永楽紀功碑文)の失墜された名誉を回復して, 日本陸軍参謀本部の奸計(奸計)を突き通すことができる接近方法になるでしょう.

ゾブイブがギョング(漸入佳境)であるのは 1907年, これからは一お酒もっと浮かんで雨(碑) 自体を初めから丸ごと日本でバンツルハリョゴまでしたという事実だ. しかし当時家現知事(集安県知事)だった五光国(呉光国)が拒否することで失敗してしまう.BR>
それでは日清戦争の中で日本軍参謀本部の拓本行為に対して疑点を中心に近付いて見よう.

第一, サコオ中尉がもう拓本をトガッヌンデどうしてまた拓本が必要だったろうか?

李進ヒ(李進煕) 日本明治大学教授の碑文変造論とは別個で拓本誌修正では(鐸本紙修正論)を言いたいが..... サコオ中尉の拓本が日本に渡ってから修正されたことではなかっただろうか? そんな脈絡で考えて見る時 'それでその後まったく同じく作りのために' 碑石を毀損しに行ったのではなかったか言葉だ.

第二, サコオ中尉が最初に拓本したことは 1883年なのに, どうして 10年後こそまた拓本する考えをしただろうか?

拓本の状態が粗っぽくてまたきれいにさせようとすることができたかも知れないといえども, それなら早くするべきだったどうしてあまり長年の歳月が必要となっただろうか? すなわちそれは何やら長い間秘密裡に研究したという反証に違いない. 描いてしたかったらその以前に中国側の了解を得てすることはできなかったのか. ではなければスパイをまた送ってすることもできたし.....

第三, 草本が日本に入って行ってから 10年が経った.

民間学者たちが分からなかったらできないがどうして 10年後にも民間学者ではない日本軍人たちによって研究作業が成り立つことだろう? もしその時までも碑文の研究を陸軍参謀本部が独占して統制していたのではなかったのか.BR>
第四, どうして戦争の中にしなければならなかっただろうか?

五番目, そしてその延長線上で 20余年後には初めから碑石自体を日本に搬出しようとしたと言うのに その底意が何だったろうか? もし誰も分からなくすべきことがあったのではないか. ひいては外部との永遠な遮断を企てたのではなかったのか.

六番目, 五番目は中国側の拒否で搬出がシルペヘッダドンデそれならその後朝鮮, 満洲, 中国北部まで占領していた時はどうして持って行かなかっただろうか? もうこの時はすべての作業が極秘に終わってその必要性が消えたことか?

以上六つの疑点が生ずるが......

その頃日本軍人たちに聞いて見ることもできないことで, ソルホック可能だと言っても彼らの執拗な証拠いん滅行為を思い浮かんで見る時無意味な作業に明らかだ.

それなら逆に日本人たちの弁論を聞いて見よう.

日本人 曰 "第一, サコオ中尉が拓本を日が暮れて来たが拓本の状態が乱雑だったし多くの枚で分けられていたから一枚できれいにさせようとしただけだ. 過去には石灰塗抹では(石灰塗抹論)を主張したらこれからは拓本誌修正では(鐸本紙修正論)か? 陰刻拓本(双一嘉木)の変造がいくら易しいといえども変調したこともなくて毀損しに行ったのでもない.

第二, 1884年甲申の変(甲申政変)の失敗で朝鮮でさえ活動が不自然だった. スパイをまた送るということも言葉のようにたやすい事ではない.

第三, 大陸はまだ整理にならない状態で戦争の中だったないか. そして民間に発表をしたのかしなかったかは韓国側自ら調べなさい.

第四, 二番目返事で言ったのないか. また戦争がどんなに終わるかも知れない状況で真書きれいな拓本を得たい急な心にそんなにしたのだ.

五番目考古学籍で重要な品物と思った. 率直にうちの日本人たちは文化財を非常に愛して水準の高い美的感覚を自慢して来た.?w 特にお金になるに値する仕事は何でもする.?k 例えたら 1904年から任那日本府の足だまりで思われるのりして脂肪と昔の伽揶全地域を 15年間徹底的に調査して 100ここに達する古墳を掘り出した. しかし惜しくも任那日本府に係わる遺物は一粘度見つけることができなかった. それで学術発表もできなかったが付随的に 1918年タニイ[谷井済一]の足国作業では鉄道貨車で 2リャングブンもなる遺物を得た.

その遺物たちがどこに行ったかは言えない. とにかく私たちが掘り出した私たちの遺物と同時に戦利品だからだ.k 朝鮮の学者たちがそれで伽揶地方に関する史料が不足だと主張するのにしかしこの発掘作業で被害を被ったことはいざうちの日本人たちだ. その理由は任那日本府を実証してくれることができる遺物が一つも出ないことで真書任那日本府が虚構というのを私たちが証明し出したからだ. 自家撞着に自ら陷ったのだ.?w

六番目, 柔道質問みたいだ, ノ?コメント[No Comment]だ.?w"

而倭以辛卯年来渡海破 百残???羅 以為臣民

が部分に対する日本人たちの解釈を移して見れば '倭(倭)が神妙年(辛卯年; 西紀 391年)に海を渡って来て百済, 任那(伽揶), 新羅を撃破して臣民(臣民)にした.' そして ???にはそれぞれ 任, 那, 新 三つの字を入れた.

先に彼らが提示した史料たちどうし矛盾店をよく見よう.

日本書紀(日本書紀)では日本が新羅と伽揶 7ヶ国をピョングジョングしてその一部を百済に与えたら, ここに永遠な服属とともに打つかも(七支刀)を献上したと書かれている.

ところで碑文では百済, 伽揶, 新羅皆を撃破したと書かれている. すなわち碑文上のパバックザン(破百残)と日本書紀の文献内容がお互いに矛盾を起こしている.

もう一つは碑文上の文法的矛盾をよく見よう.

すなわち, という(来)を聞いて意味の動詞で使って, また度(渡)を渡って意味の動詞で使ったが, これは二つの動詞が重畳的に使われた致命的な矛盾を現わす.

到来(渡来)のように使えば別に問題がないが... しかしこのような表現も含み的な表現を志向する表意文字として漢文の速成上厚い行くことがある. すなわち字句の用例に照らしてそういう表現ができた避けているのにましてシキイ値までシキョがであり重畳させる必要性があっただろうか.

一方 1972年からヤングラックギゴングビムン(永楽紀功碑文)を研究して来た中国人学者である王健君(王建群)によれば神妙年(辛卯年) 前のこれ(以)者とという(来)者を連結させて神妙年以来に解釈したりした.

しかしこれは東(同) 碑文上の他の所に以来(以来)という表現が出るのですぐ矛盾なのを分かる.

'と言う(以来)'は自体で固まった一つの単語なのに落ちても繋がれるという主張は説得力が弱い.

結局これ(以)寝る後文章の '以六年丙申'のように連帯の前に付く語助辞のみ落ちたという(来)者とは関係がないと思うことが妥当だ.

一部では王健君(王建群)が現地の中国人学者という点を持って大きい比重を置くようだが, すなわち "現地で雨に付いて暮すようにして碑文を研究したから接近方法においてもうちょっと信頼性がないか?"は話だ.それは拒否することができない事実だ.

しかし或者の話のように彼が中国人だから私たちより碑文に対してもっと該博なことと言う(のは)断定はよりにくい.

ヤングラックギゴングビ(永楽紀功碑)は長寿太王(長寿太王)が自分の父王(父王)である光ヶ土豪太王(広開土好太王)の業績を記録するために立てた碑石だ. 中国人が独特の彼らばかりの文法と慣用句を駆使して立てた悲歌決してない.

すなわち韓民族(韓民族)の言語で記録したのだ. ただ漢文(漢文)という文を借りて少なくはあったが中国そのままの文法と語法を額面そのまま書き写したと思うことは無理がある.

中国人たちも 19世紀後半まで金国皇帝の雨(碑)で間違って分かっていた点に注目する必要がある.

中国人の文漢字(漢字). それはもう韓民族(韓民族)の体質化を通じて韓半島特有の言葉と調和して変貌していたのではないか?

時代状況を見ても三国はその頃以前にもう水準の高い漢文実力を取り揃えていた.

例えば百済ではもう博士(博士)という制度が具備されていたし王人(王仁), アジックギ(阿直岐) などを日本に送って漢文を伝授したりした.またコフン(高興)が西紀(書記)という四書(史書)も編纂するほどに漢文学(漢文学)の水準が高かった.

その水準の高い漢文実力がすぐ中国人のようになったと言う意味ではないだろう. 異民族(異民族)の字と我が民族の言葉を調和させて完璧に消化することができたという意味であるでしょう.

文化は流れながら伝えるが変形されないでありのままの模様を固執することができない. それが文化の速成であるでしょう. すなわち韓民族(韓民族)は中国の文字を受け入れたが私たちの言語と相当部分融化をさせて独特の体系を構築したと思うことが適当だ.

三番目は丙時年(丙申年)に光ヶ土豪太王(広開土好太王)が親しく大軍を導いて百済軍を討伐したという内容の文献が書かれているのにこの文脈の内容とも矛盾が生ずる.

すなわち日本が百済, 伽揶, 新羅を打ち破って臣民(臣民)にしたと言ったが, いざ討伐しようとすれば日本を討伐しなくてはならないどうして被害者である百済を討伐しただろうか. 前後文章はこのように矛と盾の論理で不真面目な詭弁に過ぎない.

'百済と新羅は元々高句麗のソックミン(属民)だった.'と言う表現のように元々高句麗の物を日本が来て破って奪った.それなら日本を打たなくてはならないどうして百済を打ったという話か. 彼でもなければ最小限 '窃盗犯である日本を追い出すために...'という文具だなければならない竝びで分かる. また百済を打とうとすれば伽揶, 新羅まで打って取り戻さなければならなくなかっただろうか?

主旨するようにヤングラックギゴングビ(永楽紀功碑)を立てた長寿太王(長寿太王)が父王(父王)である光ヶ土豪太王(広開土好太王)の維持を奉じて領土拡張事業(領土拡張事業)を受け継いで行くのに, 特別に南進政策(南進政策)を強調して首都を平壌城(平壌城)にまで移す.

中原高句麗費(中原高句麗碑)に見れば長寿太王(長寿太王)が南漢江上流まで席巻して新羅の民たちを竹嶺以南で返すという内容が出る.

古代には人力(人力)がすなわち生産力だ. 特に戦利品である奴隷は古代社会の基本礎であるでしょう. ところで長寿太王(長寿太王)は彼らを返す. のような民族と言う(のは)意味もあるでしょう.

しかしこの中原高句麗碑文(中原高句麗碑文)を目を注ぐ必要がある.

新羅人々を返すということはどんな意味だろう? それはちょうど新羅が高句麗の属国(属国)載せるからだ. 同じ民族として朝貢をよく捧げる国家, 新羅. 長寿太王(長寿太王)はそういう新羅を敢えて征腹する必要がなかったことで結局友好的な仕打ちとして彼らの頼もしい対局(大国)になろうとしたはずだ.BR>
ところで日本人たちの主張によると西紀 369年から 562年まで百済, 伽揶, 新羅の領土に任那日本府(任那日本府)があった.

それなら長寿太王(長寿太王)は新羅人々を日本で返した体たらくにならないか! 韓半島ほとんど全体と満洲一帯そして中国の北側にまで領土を広げた高句麗の長寿太王(長寿太王)が日本が恐ろしくてそうだったろうか? 日本に朝貢を捧げる日本の臣民(臣民)である新羅人々が好きに見えなかったはずだ.

そのまま竹嶺を越して打って走れば父王(父王) 時代のように新羅を属国で作ることができるのに, どうしてそうしないで新羅人々を竹嶺以南で返しただろうか?

それはただ一つ, 任那日本府(任那日本府)は虚構でふたつ, 新羅は高句麗の神国(臣国) その以上その以下でもないからだ.

1930年代末の上だ(為堂) 鄭寅普(鄭寅普)の解釈を見よう.

その以前まで日本人たちのこのような碑文解釈に反論を申し立てた韓国人学者はほとんどなかった. 痛嘆すべき事だが 1880年代の初めからおよそ 60余年以上を日本という国が韓半島を独占していたのだ.

鄭寅普(鄭寅普)の解釈を見れば "倭(倭)が神妙年(辛卯年)に来たら高句麗が海を渡って倭(倭)を撃破した.百済が (倭と連結して) 新羅を侵略して彼の臣民(臣民)にした. ここに太王が丙時年(丙申年)に親しく大軍を従えて百済を討伐した."とされている.

このように雨の設立主旨に照らして高句麗やグァンゲトテワング(広開土太王)を主語で見て文章を解釈したのだ.

毀損された ???には 連, 侵, 新で満たしたしバックザン(百残; 百済) 前で切って解釈することで, 総体的でも裏門場との連結も自然につながることを分かる. しかしこのような解釈は長い間発表されることができなかったり 1950年代後半に行って日の光を見るようになる.

鄭寅普(鄭寅普)が何の根拠で 連, 侵, 新を入れたのかそれとも多分に恣意的な解釈だったかは確かではない. また他の人物, 拓本を求めるお金がなくてそのままドイドルよ来たという短才(丹斎) シン・チェホ(申采浩)の場合のように我が民族はヤングラックギゴングビムン(永楽紀功碑文) 研究において相対的に劣悪な条件にあったことが分かる. そんな無防備状態に歪曲されてなぐられてばかりした.

しかし日本人たちは一お酒もっと浮かんでこんなに宣伝した.

"このようにさまざまな歴史的根拠によって任那日本府(任那日本府)がはっきりと証明になったら, 古代にももう朝鮮は日本の植民地だったことが確かだ.したがって朝鮮は東洋平和と大東亜共栄圏という天皇(天皇) 陛下(陛下)の負けてした聖地を奉じて内鮮一体(内鮮一体)に積極出なければならないでしょう."

上記論理で日本ミリタリズム侵略者たちは朝鮮の知識人とリーダー, 財力家を主として韓半島植民地支配と大陸侵略の正当性を強調したはずだ. これに反して朝鮮の立場(入場)ではこれと言う根拠も, 対応するに値する史料も, 時代状況も与えられなかった.

一方的なゲームだった. それでも感情的だけで対応することもできないことだ. それは学問の姿勢ではない. ただ輾転したであろう.....

そうするうちに 1972年日本明治大学教授である在日史学者李進ヒ(李進煕) 先生によって石灰塗抹では(石灰塗抹論)が申し立てられる. すなわち日本陸軍参謀本部による碑文変造論だ.

彼はいくつかの拓本を比較検討する中字がお互いに違ってまたその数鼠も少なくなさに有意, 満洲のスパイだったサコオ中尉が碑文に石灰を塗って字を変調した後石摺りをしたと主張する. これは当時学界と一般社会に相当な衝撃を与えた.

しかし悲しい事だが日本では反論を広げるところにだけ汲汲していただけ, 一定部門反対学説で受け入れて任那日本府説(任那日本府説)のリアル意味を向上しようとする真摯な姿勢は見せてくれることができなかった.BR>
一方 1972年からヤングラックギゴングビムン(永楽紀功碑文)を研究して来た中国人学者である王健君(王建群)によれば, 1880年代の初めから碑石注意に寄居して拓本で生計を立てたチォシ(初氏) 金持ちが碑面に付いた苔をとり除くために馬糞を塗って燃やしたというのだ. また表面の荒い所には石灰を塗ることで拓本をもうちょっと易しく浮かぼうとしたというのだ. すなわちこのようにして字が変形されたはずだという主張をした.

上の主張も角度によって問題点があったりするが王健君が現地学者というお負け[Advantage] のため無視することはできない主張だ. 参照で彼は '土埋残菊(討利残国)'からこれ(利)者が着(伐)育つ主張をしたりした. ビガムスラン仕事だ.....

このように歴史が歳月より人間によってもっと毀損されることもできるという事実の前に無力感を感じるだけだ.

一方ヤングラックギゴングビ(永楽紀功碑)で一番問題視されたことが上記神妙年(辛卯年) 記事なのに, ここに劣らず日本人の歴史歪曲が大きい物議をかもしたのがまたあった.

すぐ庚子年(庚子年) 記事だ.

しかし日本軍国主義者たちが主張する庚子年記事の虚構性は簡単に現われてしまった.BR>
1981年中国政府機関で精緻な拓本をしたがこれがその有名な拾うんだって(周雲代) 拓本だ. この新しい拓本で字が新しく判読されながら全然新しい解釈が出たのだ.

二つの内容を比べて見ればその内容が完全にゴクリョ引っ繰り返っていることを分かる.

?来貨急追至任那加羅従抜城 城即帰服 安羅人成兵 新羅城?城 倭満倭潰城?...

倭軍が回って追撃してイムナがだと(任那加羅)までのぼってずっと城を攻撃したら性がすなわち陷落された. アンラである(安羅人) 駐屯軍が... 新羅性... ?性... 倭(倭)が一杯だった. 倭(倭)は性を崩した. {日本刺身余禄(会余録)の内容}

自倭貨急追至任羅加羅従抜城 城即帰服 安羅人成兵 抜新羅城塩城倭・寇大潰 城大...

倭軍を後から急に追撃してイムナがだと(任那加羅)に至ってずっと城を攻撃したらすぐ陷落された. アンラである(安羅人) 数字里軍事が新羅盛炎性を攻撃すると 倭・寇が大きく崩れた. 怒る... {100年後中国拾うんだって(周雲代)の精密拓本を土台にした中国人学者王健君(王建群)の解釈}

'?来'が 'ザウェ(自倭)'で明かされるによって '追撃した倭軍'が '追い討ちにあった倭軍' 形象になって, 'ウェマンウェグェ(倭満倭潰)'が '倭・寇大潰'で明かされるによって '一杯な倭軍が性を崩した.街 '倭・寇が大きく晴れた.'で意味が完全に変わったのだ.

碑文と言う(のは)ますます摩耗されて拓本をたくさんしてみるとその部分が毀損されることは当たり前の事だ. ところで 100年前の字が違って 10年後の字がもっと正確だと言うことは何のためだろう?

サコオカゲノ?ブ[酒奈景信]のサンググがムックボン(双鉤加墨本)はまるで筆文字で使ったように正確なのにかかわらず状態がずっと悪い株運台の拓本をもっと認めることは何のためだろう?

サンググがムックボンを詳らかによく見れば万(満)寝るまるで使ってから間もない筆文字のように明確だが, 1981年に精密拓本したことを見れば確かに句(寇)定木だ. 今も句(寇)寝るとても易しく識別することができるのに 100余年の前にあやまちをしてだけ(満)定木に描いたとできない.

それなら誰か確かに変造(変造)したことなのにその主犯が誰だろう?

こんな解釈は 1883年に日本軍将校サコオ中尉がサンググがムックボンを持って帰国した後, 参謀本部によって解読作業が進行されたからだ. すなわち 1884年任那で(任那考)に引き続き 1889年刺身余禄(会余録) 5集に積まれた ヨコイダダナオ[横井忠直]の高句麗費で(高句麗碑考) などを通じて行われたのだ.BR>
これを日本陸軍参謀本部の陰謀と主張した人がまさに李進ヒ先生だった.

出処; 理性学(李聖鶴) 著述 '朝鮮日報と任那日本府説'

{引き続き}


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g7jp|12-29 16:53       


自国の文化に自信がない、誇るものがない。その劣等感から、太古の妄想に走る。それは、誰も大昔のことは証明できないから。日本と関係ありそうな事があれば、必死に関係づける。乞食はそうすることで、劣等感を晴らすしかない。しかし、それは朝鮮@人にとって慰めでしかない。乞食そのものである。


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TITLE:言葉も国境も越える!日韓リアルタイム翻訳掲示板 enjoy Korea
DATE:2008/12/29 18:19

  • 最終更新:2009-03-06 12:28:52

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