大使館の秘密書簡、(竹島は)『朝鮮王朝の一部であった』

2008年07月22日
 
■アメリカ大使館の秘密書簡、(竹島=独島は)『朝鮮王朝の一部であった』

 
前回のエントリーでは、サンフランシスコ平和条約の草案で竹島(=独島)を日本領とする記述が削除された経緯があったことを示し、平和条約によって竹島(=独島)が日本領土と認められたという日本政府の主張に反論しました。



私は数年前まで、竹島(=独島)問題は日韓双方の主張にそれなりの根拠があるのだと考えていました。しかし最近の日本政府の主張には疑問を感じています。たとえば今回の学習指導要領には明記することを避けましたが、「韓国による竹島の不法占拠」という過激な表現(外務省ホームページによる)は、両国民のナショナリズムをいたずらに煽るだけで、冷静な議論を遠ざけている気がします。嫌韓派もそれに呼応するかのように、日本領とする根拠を示すよりも、韓国に対する非難に主張のほとんどをあてているようです。



今回は、米国のラスク書簡によって韓国領土ということが否定されたという主張に関して検討していきたいと思います。

 
 
サンフランシスコ平和条約における竹島の扱い(外務省ホームページ)

    •  3)この韓国側の意見書に対し、米国は、同年8月、ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡をもって以下のとおり回答しました。
    •  「・・・合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。・・・・」



この文章を読むと、アメリカの竹島(=独島)に対する上記の見解がいかにも現在も継続しているかのような印象を受けます。



ところが最近、韓国史研究者であるロプモ氏(アメリカ)によって「アメリカ大使館の秘密書簡」が発見され、上記のアメリカの見解が変更されていたことが明らかになっています。ここでもまた日本政府の情報隠しです。



Mark S.Lovmo,1952 memo from the U.S. Embassy in Tokyo.

http://www.geocities.com/mlovmo/temp8.html#oct3.(書簡の原文画像がご覧いただけます)



このアメリカ国務省宛の書簡は、なぜ、サンフランシスコ平和条約において竹島(=独島)が一言も記述されず棚上げにされたのかを明らかにする資料としても注目されています。



1952(昭和27)年10月3日付で日本駐在アメリカ大使館が国務省に送った書簡(公文書)には、国務省で竹島(=独島)について何度も検討した結果、「朝鮮王朝の一部であった」という見解に至ったことを明らかにしています。以下に日本語訳の一部を引用します。



内藤正中・朴炳渉『竹島=独島論争』p327~p328より

2 書簡の口語訳
発信:アメリカ大使館・東京659、1952年10月3日
受信:国務省、ワシントン
件名:リアンクール岩の韓国人
    •  韓国と日本の間で相次ぐ利害関係の衝突により、両国関係が悪化している。最近、発生したある事件は、今後、より大きな問題に発展しかねない。また、アメリカへ少なからぬ影響を与えかねない。その事件というのはリアンクール岩(独島)をめぐる領土紛争であり、日本と韓国の間で領有権をめぐる紛争である。
    •  国務省はリアンコールト岩の歴史をすでに数回も検討したことがあるが、それをここで詳述する必要はない。その岩はアザラシの繁殖地であり、ある時期、朝鮮王朝の一部であった。その岩は、日本がその帝国を朝鮮に拡張した時、もちろん朝鮮の残りの領土とともに併合された。
    •  しかしながら日本政府は、帝国支配の過程においてこの領域を日本の本土に編入し、ある県の行政下においた。
    •  そのため、日本が平和条約の第2章で「済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権」を放棄することに同意した時、条約の起草者はこの岩を放棄すべき領域に含めなかった。
    •  日本は、リアンクール岩に対する日本の領有権は理由のあることとしている。それに韓国が異議を唱えているのは明白な根拠にもとづくものである。



この書簡に関して、わかりやすく解説したものがあるのでご紹介します。竹島(=独島)問題の研究者・内藤正中氏*1は次のように述べています。



内藤正中・金柄烈『史的検証 竹島・独島』p108より
    •  これは1952(昭和27)年10月に作られた「メモ」であるから、対日講和条約の発効後となる。したがって、条約の草案作成に直接影響を与えるものではなかったが、アメリカの国務省当局者が竹島(独島)の問題について如何なる見解をもっていたかを知ることができるといえる。1949(昭和24)年11月19日のシーボルトの提案が、日本政府からの一方的な情報に基づくものであり、韓国側の反論に耳を貸さなかったとしても、アメリカが竹島を日本領土であると断言しなかった背景には、この「メモ」に見られるような内容をもった情報が、アメリカ国務省にもたらされていたためと考えざるをえないのである。
    •  そのためもあって、対日平和条約のなかでは、竹島の領有権問題を決着させず、意図的にあいまいにしたものということができる。領土について明確にすべき平和条約で、あえて明確にしなかったのは、草案作成の当事者がわざとあいまいにしたものと解釈しなければならないわけで、平和条約に記していない以上、竹島は日本のものになったという説は如何にも早計にすぎるといわなければなるまい。


 
 
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1:島根大学名誉教授


  • 最終更新:2009-02-08 07:31:40

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