安龍福の言う倭の松島=子山島(于山島)はやはり竹嶼だった  日

安龍福の于山島

(Gerryの投稿の日本語訳です。)


肅宗実録の1696年9月25日の項に安龍福が朝鮮王朝の当局者に、鬱陵島の近くの海中で日本人漁師達に5月に遭遇した事件について述べています。安の証言の部分は次の通りです。

“(国境問題を管轄する)備辺司が安龍福達を尋問したところ、安はこのように答えた。”元は東?の出身なのですが、母を尋ねて蔚山へ行き、そこで僧の雷憲達と会いました。彼等に海産物が豊富な鬱陵島への旅の事を詳しく話したところ、とても興味を示したので、寧海出身の劉日夫という船乗り達と鬱陵島に渡航したのです。主峰の三峯は三角山より高く、北から南まで、2日の距離で、東西も同じです。山には沢山の種類の樹木が茂り、鷹やカラス、そして山猫が多数生息しています。日本の船が沢山停泊しており、船乗り達が怖がっていました。

そこで私は船の舳先へと進み、叫びました。「鬱陵島は我々の領土だ、何故日本人がやってくるのだ。全員捕えるぞ。」

日本人は「我々は元々松島に住んでおり、魚をとるためにたまたまここへやってきたので、ちょうど戻るところだ。」

そこで私はこう言いました。「松島は子山島だ。それは我が国の地なのに一体何故そこに住むことが出来るのだ」…”

日本人はこの当時Liancourt Rocks(竹島)を松島と呼んでおり、韓国人はこの”松島”がLiancourt Rocksだと言います。そしてそれを根拠に、子山島(于山島)が独島(Liancourt Rocks)の古名だと主張するのです。しかしながら、その理由付けについて問題になるのは、当時の韓国の地図は于山島をLiancourt Rocksではなく鬱陵島の近隣の島として描いることです。

次は三陟の県知事である朴昌錫によって1711年に作成された韓国の鬱陵島の地図です。

地図1:鬱陵島圖形(1711)朴昌錫

“于山島”と記された小さな島が鬱陵島の東沖に描かれています。

地図2:鬱陵島圖形(1711) 于山島付近拡大図

小さな島の上に次のように書かれていることがお分かりでしょうか。

“海長竹田 ? 所謂 于山島
海長竹の沢山生えているところーいわゆる于山島”

海長竹は、約6メートルにもなる大きな竹で、つまり地図の于山島は、竹の生育に必要な土のない荒涼とした岩山のLiancourt Rocksではありえないのです。しかしながら、鬱陵島の2.2km東沖にある隣接島の竹嶼には海長竹の生育に必要な土壌があります。事実、張漢相が1694年の鬱陵島の検察後に行った報告書において、次のように記されています。

“東方五里許有一小島不甚高大海長竹叢生於一面
(鬱陵島の)東方2キロメートルの所に小さな島があり、その島は高くもなく大きくもないが、一面に竹が生い茂っている。”

上記の報告書にある島が鬱陵島の付属島である竹嶼であることはほぼ確実です。また、1711年の地図に描かれた于山島もその位置と海長竹の記述からして、竹嶼であることも疑う余地の無いことでしょう。

安龍福の証言には一貫性がなくて分かりづらいため、彼の言うところの“松島”がどの島を指しているのか、はっきりとは分かりません。例えば、彼が言う朝鮮半島やLiancourt Rocksから鬱陵島の間の距離は一致しません。しかしながら、安の言う于山島がLiancourt Rocksであれ竹嶼であれ、明らかなことは、朝鮮政府が于山島を鬱陵島の付属島である竹嶼と考えていたたとは確かで、そのことは後に、朝鮮人が鬱陵島の付属島である竹嶼を“松島”と呼びはじめたことにつながっているようです。最終的には、1882年には高宗自身が松島は鬱陵島の付属島である竹嶼の別名である、と言っているのです。

安龍福の”松島”から高宗の”松島”

1690年代におこった安龍福の事件の後、李朝朝鮮は鬱陵島に興味を示すようになり、定期的に島に検察官を派遣するようになります。そして、安の事件によってもたらされた結果のひとつに、以前とは異なり、韓国の地図が于山島を鬱陵島の西ではなく、東にある小さな島として描き始めたことがあります。

以下に掲げるのは安の事件の後に描かれた鬱陵島の地図です。于山島が鬱陵島のすぐ東沖に浮かぶ小さな付属島として描かれていることがお分かりでしょうか。

地図3:海東地圖(1750s)

上にあげた海東地圖では、于山島が、現在の竹嶼の位置にほぼ近い鬱陵島のすぐ傍に小さな島として描かれています。

地図4:輿地圖(1736-67)

この1736年から1767年の間に作成された輿地圖では、于山島が現在の竹嶼の位置にほぼ近い、鬱陵島のすぐ東沖に描かれています。

地図5:朝鮮地圖(1750-1768)

この朝鮮地圖はおそらく1750年から1768年の間に作成されたと思われますが、またしても于山島を現在の竹嶼とほぼ同じ位置に、鬱陵島に隣接する島として描いています。実際、この地図には距離を示すグリッド線が引かれており、鬱陵島本当からの于山島の距離が10キロメートルであることが分かります。

地図6:地乘(1776-1800)

この地乘は、1776年から1800年の間に作成されたものです。またしても、于山島を鬱陵島の東沖にある現在の竹嶼の位置にほぼ近い場所に浮かぶ小さな島として描いています。

上掲の地図は全て、1711年から1800年の間に描かれたもので、全て于山島の位置を現在の竹嶼の位置のほぼ近くに描いています。そして、全て于山島をLiancourt Rocks (竹島)のような二つの大きな岩ではなく、単一の島として描いているのです。

そこで今度は1770年の韓国の文献である東國文獻備考について考えて見ます。

“輿地志云 鬱陵于山皆于山國地, 于山則倭所謂松島也
輿地志によれば、鬱陵島と于山は皆、于山国のことで、于山は倭(日本)の言うところの松島である。”

この文献は、韓国側の鬱陵島の地図が全て、于山島を鬱陵島の隣接等である竹嶼のほぼ近くに描いている時期に記述されています。こうした韓国自身の地図と考え合わせると、上記の記述は基本的に、鬱陵島の隣接島である竹嶼が倭(日本)の言う松島であると言っているようです。

次に1793年10月1日の日省録の記入からの抜粋です。

“臣按本曹謄?蔚陵外島其名松島?古于山國也
官僚がみるところ、Yejoの記録にある鬱陵島の傍にある松島は昔の于山国の一部である。”

1793年まで、”松島”が鬱陵島の隣接島を指すのに使用されていることにお気づきでしょうか。

1808年には、韓国の文献である萬機要覽に次のような記述があります。

“輿地志云 鬱陵于山皆于山國地, 于山則倭所謂松島也
輿地志によれば、鬱陵島と于山はどちらも于山国であり、于山は倭(日本)人のいう松島である。”

この記述が1770年の東國文獻備考と同じ文章なのにお気づきでしょうか。1808年の時点で、朝鮮の人々は于山島が日本人の言うところの“松島”である、と言い続けているわけです。そして同時に、朝鮮製の地図では于山島を鬱陵島の隣接島である竹嶼として描き続けているのです。

次の地図は、1835年に作成された靑邱圖です。グリッドが地図の端に書かれており、朝鮮の10里を表しています。1里は400メートルに等しいです。

地図7:靑邱圖(1835)

“于山”と記された小さな島が鬱陵島の東沖1グリッド、つまり4キロメートルの所に描かれていることがお分かりでしょうか。鬱陵島の隣接島の竹嶼は東沖約2.2キロメートルにあり、つまり、于山と記されたこの島は、ほぼ確実に鬱陵島の隣接島である竹嶼であることは間違いないでしょう。

1869年12月、日本の明治政府の外務省が李朝朝鮮へ担当官を派遣して当該国の情報収集の任務に当たらせます。彼らの報告書に鬱陵島についての次のような記述があります。

図1:朝鮮国交際始末内探書(1869)

“竹島と松島が朝鮮の附属になった経緯について
松島は竹島(現在の鬱陵島)の隣の島で、松島に関するこれまでの記録がない。竹島に関しては、元禄期(1688-1704)に暫らくの間、朝鮮から人が居留していたが、現在は以前と同じく無人島となっている。その島は竹や竹より太い葭(アシ・ヨシ)が生えている。人参なども自生しており、また海産物も豊富であると聞いている。”

この文献で、松島が”陵島(竹島)の隣島”であり、今までの記録がないと記されていることにお気づきでしょうか。言い換えれば、韓国側が日本側の担当官に対して「松島は鬱陵島の隣の島だ」と言ったことになります。この日本側の文献は于山島について何の言及もありませんが、この于山島は、それ以前の韓国側の地図や文献では確かに記述されていたものです。このことから、1870年までには、”松島”と言う名称が”于山島”に取って代わったか、鬱陵島の隣接島の名称として代用されるようになったと思われます。このことは、1882年の高宗と鬱陵島検察へ出かける準備をしていた李奎遠の間で交わされた会話の内容とも呼応します。以下がその内容です。

“高宗19年(1882)4月7日条より

高宗は李奎遠を前に呼び、出発の祝辞を述べました。

王曰く「近頃、鬱陵島に他の国の者が絶えず往来して島を占有する、という被害がでている。松竹島と于山島は鬱陵島の傍にあるはずだが、互いの距離はその産物についての詳細が分かっていない。君は特別にこの検察使に選ばれたわけであるから、しっかりと仕事をせよ。民を住まわせる村を作るかもしれないから、詳細な地図と記録をとるように。」

李奎遠曰く「于山島は鬱陵島のことです。つまり于山とは、彼の国の昔の首都の名前です。松竹島は島から30里ほど沖の小さな島です。産物は、檀香と簡竹です。」

王曰く「芋山島(于山島)あるいは松竹島と呼ばれるものは、輿地勝覽に記述がある。それはまた、松島、竹島とも呼ばれ、于山島と3つあわせて鬱陵島と呼ばれる島を成している。全てについてその事情を検察せよ。そもそも三陟と越松の土候が鬱陵島の調査を行っていたが、皆いい加減で島の外周しか検察していない。こうしたことが外国人による弊害を招いたのだ。」

李奎遠曰く「深く分け入って検察を行います。その島は鬱陵島の東にあり、時に松島とも竹島とも呼ばれています。しかし、そこにあるのは、松竹島で、松島と竹島と言う別々の島があるわけではありません。」

王曰く「それは前任の検察使から聞いたのか?」

李奎遠曰く「いいえ前任者とはまだ話をしておりません。しかし、これが前任者の話の要旨であると聞き及んでいます。」”

高宗が鬱陵島には二つの隣接島、”于山島”と”松竹島”がある,と言っているのに対し、李奎遠は鬱陵島には”松竹島”と言う隣接島一島があるのみ、と言っていることにお気づきでしょうか。于山島については二人とも意見を異にしていますが、”松竹島”が鬱陵島の隣接島であることには合意しています。またしても、このことは于山島と言う名称が”松竹島”と言う、高宗と李の二人ともが”松島”とも”竹島”とも呼ばれるといった、その名称に取って代わられる過程にあったことを示唆しています。

韓国の地図においてはそれまでは、鬱陵島のそばに一つの島があり、”于山島””松竹島””松島””竹島”と言った名称は全て、その島の名前を各々指していました。しかしながら、李奎遠が1882年に鬱陵島を検察した時、竹島と島項と言う二つの島がある事を発見します。そのことは、1882年の李による次の地図に表れています。

地図8:鬱陵島外圖(1882) 北東部拡大図

上掲の地図は竹島(Jukdo)を鬱陵島の隣接島である現在の竹嶼の位置に、島項(Dohang)を現在の観音島の位置に描いています。この地図が韓国の古地図において唯一鬱陵島の二つの隣接島を名称を記して記載したただ一つの物になります。他の地図は全て、おそらく観音島を島、と言うよりは岬として見なしていたのだと思われます。実際、Dohang (島項)と言う名称は、”島の首”と言う意味で、項島となっていない事から、この名前を付けた人物は観音島を島ではない、と認識していたことが伺えます。韓国人は島を意味するときはいつも島と言う漢字を語頭ではなく語尾に付けます。この”島の首”と言う名称は、命名者が100メートルしかない鬱陵島の岬である、と考えていたために名づけられた、と思われるのです。李奎遠は、高宗が鬱陵島には二つの隣接島がある、と主張していたことから、この島項を一つの島として呼ぶ事にしたのかもしれません。

彼の検察日記によると、鬱陵島の住民がそうした名前の島について聴いたことがある、と言っているにも関わらず、李は”于山島”と”松竹島”と言う名前の島を見つけることが出来ませんでした。しかしながら、住民たちは、それらの島が何処にあるのか、誰も分かりませんでした。その事はまた、”于山島”と”松竹島”と言う名称が竹嶼の別名に過ぎない事を示唆しています。1882年に、竹島(Jukdo)と言う名称が当時の鬱陵島の住民に最もよく使用された名称になぜかなったようです。しかし、1899年の大韓帝国の地理の教科書に、再度于山島と言う名称が鬱陵島の隣接島として使用されていることから、韓国人によるこの島の名称は必ずしも安定していなかったようです。

地図9:大韓全図(1899)

鬱陵島の東沖に描かれた小さな島が于山と記載されていることにお気づきでしょうか。その島は現在の鬱陵島東沖2.2キロメートルに位置する竹嶼とほぼ同じ位置に描かれています。この地図には経度まで記載されており、于山島が鬱陵島の隣接島である事を明らかに示しています。

1899年、韓国政府は鬱陵島を検察するために担当官を派遣します。同年9月23日の皇城新聞には、この視察についての記事が載っています。以下に当該記事の最初の数行を載せます。

図2:皇城新聞記事(1899)

“蔚珍の東方沖の海中に、鬱陵と言う名の島がある。その島には6つの隣接した小さな島嶼があり、それらのうち于山島竹島がもっとも主要な島である。大韓地誌には、鬱陵島は昔の于山国ことで面積は100里ある、と載っている。3つの峰がそびえている。”

「鬱陵島には6つの付属島があり、于山島竹島がもっとも主要な島である」と言っている事に注目して下さい。私は、ここでいう于山島竹島は、一つの島を二つの名前で表しているのだと考えています。言い換えれば、新聞記事は鬱陵島の最も主要な隣接島は”于山島”と”竹島(Jukdo)”と言う、以前の地図で同じ島を示すのに使われていた、この二つの名前で呼ばれていたと言っていると思うのです。

ところで、記事の赤で囲んだ部分は次のように言っています。

“過去には、角(つの)の無い牛に似た“海獣”が過去に生息し、可之(ガジ)と呼ばれた。”

“角(つの)の無い牛に似た海獣”は、アシカのことで、記事では鬱陵島に”以前は生息してた”とあります。つまり、1899年にはもう鬱陵島にはアシカが生息していなかったことになります。この事は、鬱陵島の主要な島であると記述のある于山島が Liancourt Rocks (竹島/Dokdo)ではないという更なる証拠である、と言えるでしょう。 Liancourt Rocks には1899年にはまだアシカが生息しており、1950年代までは確認されているからです。

1899年のこの記事中の于山島竹島が同一の島に対する二つの名称である、と考えるもう一つの理由は、大韓帝国勅令第41号にあります。この勅令では、鬱陵島とその隣接する島が江原道の管轄である事を定めていますが、前年に鬱陵島の最も主要な隣接島であると書かれた于山島を、なぜか隣接島の中に含めていません。またしても、于山島が鬱陵島の隣接島である竹嶼の単なる別名であることを示唆しているのです。次に揚げるのは、1900年の大韓帝国勅令第41号の最初の二つの条項です。

“勅令第41号 鬱陵島は鬱島と改称し、島監は郡守と改正する。

第一条 鬱陵島は鬱島と改称し、江原道の附属とする。島監は郡守と改正し、五等の官吏として官僚制度に編入する。

第二条 郡役所は台霞洞に置き、鬱陵島全土と竹島石島を管轄する事とする。”

勅令で「郡役所が鬱陵島全土と竹島石島を管轄する」とされていることに注目して下さい。わずか前年に鬱陵島の最も主要な島であると新聞に書かれたはずの于山島について、何も記述がありません。このことは、1899年の新聞記事は于山島竹島と言う言葉を二つの名前を持つ一つの島として使用したのであり、高宗は1900年の勅令において”于山島”を捨てて”竹島”を選んだ,と言う事を示唆しているのです。

ここで1900年の勅令では、1899年の新聞記事にあった他の5島についてどう取り扱っているのか、と言う疑問がわきます。私は、石島と言う言葉を包括的な用語として採用する事にしたのだと思います。つまり、勅令では「郡役所は鬱陵島、竹島、そして周囲の岩で出来た小島を管轄する事とする。」と言っているのだと思うのです。石島は韓国語でも石の島、と言う意味です。この事は、石島とういう名称が鬱陵島を描いたどの地図にも出てこなかったのか、説明していると思います。

結論

1690年代の安龍福の事件は朝鮮時代の人々の鬱陵島に対する関心をよび起こし、日本側に鬱陵島を朝鮮領土として認めさせる事を勝ち得たといえます。この事件はまた、それまでの地図に描かれていたように于山島が鬱陵島の西側でなく、東沖に浮かぶ隣接島である事を決定付けた、とも言えます。

安龍福の言う于山島がLiancourt Rocksであるか竹嶼であるかに関わらず、朝鮮政府は于山島をLiancourt Rocksであると認識していたことは一度もありませんでした。安の事件以降の韓国側の地図は殆ど全て、于山島を鬱陵島の2.2km東沖にある竹嶼として描いています。安が行った「于山島は倭(日本)人の言うところの松島だ」という主張によって得られた唯一の結果は、それ以降韓国人が次第に鬱陵島の隣接島である竹嶼を”松島”として呼びはじめた事です。

1882年までには、鬱陵島の隣接島である竹嶼は、”于山島””松竹島””松島””竹島”と言った様々な名称で呼ばれていたようです。1899年までに、それらの名称は于山島”と”竹島”の二つに絞られ、1900年には大韓帝国政府は”竹島”と言う名称のみを使用する事で落ち着いたようです。1900年の勅令に出てくる”石島”は、鬱陵島の周囲にある石で出来た小島を表す包括的な呼称であると思われます。

韓国にはLiancourt Rocks (竹島/Dokdo)を正確に描いた地図は一つもありません。この島である可能性のある文献の記述にしても、曖昧で不正確です。唯一確実なのは、于山島はLiancourt Rocks (竹島/Dokdo)ではない、と言うことだけです。

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TITLE:Lies, Half-truths, & Dokdo Video, Part 8 | Occidentalism
DATE:2009/01/03 18:59

  • 最終更新:2009-03-06 14:31:01

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