必殺通行人の呟き 竹島について

竹島について



三国史記の于山国 in 512
三国史記
巻四 智證麻于十三年夏六月条
于山国征服、歳以土宜為貢、于山国、在溟州東海島、或名鬱陵島、地方一百里、恃嶮不服、伊喰異斯夫、為何琵羅州軍主、謂于山人愚悍、難以威来、可以計服、乃多造木偶師子、分載戦船、抵其国海岸、誑告曰、汝若不服、則放此猛獣踏殺之、国人恐懼則降


翻訳
13年(512年)夏6月、于山国が服属してきて、年ごとにその地の産物を貢ぎ物として献上した。于山国は溟州(現在の江原道)の真東の海上にある島国で、別名を鬱陵島という。この島は、百里四方ほどで、それまでは交通が困難であることをたのみとして服属しなかった。伊喰の異斯夫が何瑟羅の軍主となった。かれは、于山国の人たちは思慮が浅くて気性が荒々しく、武力だけでは降伏させられないが、計略をもってすれば、服属させることができると考えた。そこで多くの木製の獅子像を作り、戦船にわけてのせた。その国の海岸につくと、偽って次のように言った。「お前たちがもし服属しないならば、この猛獣を放って、踏み殺させるぞ。」

説明
三国史記は韓国最古の文献で1145年に書かれているのだが、512年の条に于山国という国名が出てくる。韓国側は于山国には鬱陵島と于山島の両島が含まれると主張しているが、それは強引な解釈でしかない。仮に于山島が竹島だとして、何故この無人島が人の住める鬱陵島より優先し、于山国という国名になるのであろうか?普通は鬱陵国となるのが当然である。このことから、韓国の解釈には無理があるのである。




三国遺事 in 13世紀
三国遺事
巻一 智哲老王
何琵羅州今溟州東海中、便風二日程、有于陵島今作羽陵、周廻二万六千七百三十歩、島夷恃其水深、橋傲不臣、王命伊喰朴伊宗、将兵討之、宗作木偶師子、載於大艦之上、威之云、不降則放此獣、島夷畏而降賞宗為州伯

翻訳
何琵羅州、今の溟州の東の海の中に、帆船で二日の行程のところに、于陵島があった。今の羽陵島である。周囲は二万六千七百三十歩の大きさ。島に住む野蛮人は水の深さを恃(たの)み、倣岸で新羅に従わなかった。王は朴伊宗に命じて、彼が率いる軍が征伐に向かった。木造の獅子を作り、大きな船に乗せていった。彼らを脅して言った。降伏しないとこの獣を放つぞと。島の野蛮人たちは畏れて、降伏した。王が賞として朴伊宗を州伯の座につけた。

説明
三国遺事は13世紀に書かれた文献であり、三国史記に次いで成立したものである。この三国遺事には、漢字表記は異なるが、発音が全く一緒の、于陵島と、羽陵島が表れている。前者の島名は于山島の于と、鬱陵島の陵が合わさった表記である。また、高麗史に出てくる芋陵島や、蔚陵島も漢字表記は違うが発音は同じである。その他、武陵島と茂陵島も漢字表記は異なるが発音は全く同じである。これらは全て鬱陵島を指す。韓国は、于山島を現在の獨島であると主張しているが、では、太祖実録に出てくる于山国島や、太宗実録に出てくる流山国島はどう説明するのか。于山国島や流山国島という島名には、国という漢字が使われている。竹島は人が住めないので国ではない。三国史記には”于山国は別名で鬱陵島と呼ばれている”とある。つまり、于山国に島が付いただけの于山国島は、鬱陵島を指すのである。従って于山国島の国という字が無くなった于山島も鬱陵島を指すのである。




太宗実録 in 1417
太宗実録
太宗十七年二月壬戌条
安撫使金麟雨、還自于山島、献土産大竹・水牛皮・生苧・綿子・検樸木等物、且率居人三名以来、其島戸凡十五口男女并八十六、麟雨之往還也、再逢颶風、僅得其生

時代確認と対訳
太宗17年は西暦にして1417年である。于山島という島名が韓国の文献に最初に表れるのが、この太宗実録である。金麟雨は島民3名を率いて于山島から本土に還ったときに、大竹、芋、アシカ等を持ち帰っている。また于山島にはおよそ15戸、男女併せて86人が住んでると報告した。

解説
韓国は現在、于山島は獨島であると主張しているが、これは明らかに誤りである。竹島は人の住めない無人島であり、まして86人もの人間が生活出来るような島ではない。この太宗実録に出てくる于山島なる島は大竹や芋を産するとある。つまり人が住めて竹を産するこの于山島とは現在の鬱陵島を指すのである。




高麗史地理志 in 1452
高麗史地理志(巻五八)
鬱陵島
在縣正東海中、新羅時、称于山国、一伝武陵、一伝于陵、地方百里、智證王十二年以降、太祖十三年、其島人、使白吉、土豆献方物、穀宗十一年、王聞鬱陵地廣土肥、旧有州県、可以居民、遣溟州道監倉金柔立、往視、柔立回奏云、島中有大山、従山頂向東行至海、一万余歩、向西行一万三千余歩、向南行一万五千余歩、向北行八千余歩、有村落基址七所、有石仏鐵鐘石塔、多生紫胡蒿木石南草、然多岩石、民不可居、遂寝其議、一云、于山、武陵、本二島、相距不遠、風日清明、則可望見

翻訳
鬱陵島は東海中に在り、新羅時代には于山国と呼ばれていた。この島は時に武陵、或いは于陵とも呼ばれ、智證王十二年以降から太祖十三年まで、島民は農産物を献上した。穀宗十一年に、鬱陵の土地が肥沃であることを聞いた王は、使節を島に派遣した。島の中央には大きな山が在り、そこから東の海へは一万余歩、西には一万三千余歩、南へは一万五千余歩、そして北には八千余歩の大きさであった。島には村落が七ヶ所あり、石仏・鐵鐘・石塔、そして多くの草木が生え、岩が多くある場所では人の居住は不可能であった。一説には、于山・武陵の二島は距離がそれほど離れていない為、空気の澄み切った日には、互いを望み見ることが出来る。

解説
高麗史地理志は于山国、つまり鬱陵島の事が書かれて、文の最初の方では「称于山国、一伝武陵」と一島説を記述しながらも、後半のほうでは「于山、武陵、本二島」と二島説を展開している。韓国は後者の二島説だけに主眼を当ててて、竹島韓国領の証拠としている。しかし記述とは裏腹に、鬱陵島から92Km離れた竹島を肉眼で見ることはほぼ不可能である。(注意:与那国島から台湾までの距離は111kmで、一年に4、5回見えるが、台湾と竹島では面積が違い過ぎるので比較にならない。)




世宗実録 in 1454
世宗実録 地理志 江原道襄陽縣
于山、武陵二島、在縣正東海中、二島相去不遠、風日清明、則可望見、新羅時、称于山国、一云鬱陵島、地方百里、恃険不服、智證王十二年、異斯夫為何琵羅州軍主、謂于山人愚悍、難以威来、可以計服、及多以木造猛獣、分載戦船、抵其国、誑之曰、汝若不服、則即放此獣、国人懼来降、高麗太祖十三年、其島人、使白吉、土豆、献方物、毅宗十三年、審察使金柔立等、回来告、島中有泰山、従山頂向東行至海、一万余歩、向西行、一万三千余歩、向南行、一万五千余歩、向北行、八千余歩、有村落基址七所、或有石仏像、鉄鐘、石塔、多生紫胡蒿本・石南草、我太祖時、聞流民迯人其島者甚多、再命三陟人金麟雨、為安撫使、刷出空其地、麟雨言、土地沃饒、竹大如柱、鼠大如猫、桃核大於升、風物称是

解説
『高麗史地理志』では一島説と二島説が併記されているが、この『世宗実録』では、于山、武陵の二島説として書かれている。しかし二島説を取りながらも、書かれている内容は「高麗史地理志」と同じ鬱陵島のことだけだある。これら「三国史記」から今までの文献を見ると、于山国・于山国島・流山国島・武陵島・于陵島・茂陵島・芋陵島・羽陵島は、全て現在の鬱陵島を指しているのであって、決して竹島のことを指しているのではないことは明白である。




海左全図 in 1822
19世紀前半に作製された朝鮮全土の地図に、海左全図というものがある。この図には鬱陵島の直ぐ東に島が描かれているが、これが現在の独島であると韓国は主張する。しかし、緯度・経度を考慮すると、これは鬱陵島の属島であるチュクドであることが分かる。




文献撮録 in 1800年代
于山島という呼び方以外にも、三峯島という名前で独島が呼ばれていたと韓国は主張する。しかしそれも反論出来る。『世宗実録地理志』や『東国輿地勝覧』に対して、于山島は鬱陵島と同島異名であったとする『文献撮録』の記事がある。それは李朝に仕えた高級官吏の元鄭容(1783-1873年)の著述である。『文献撮録』には欝陵島に関する記事として「欝陵島始末」がある。これは日本側でいう元禄時代の欝陵島をめぐって起こったいわゆる「竹島一件」に関する記述であるが、そのはじめに、以下のような記述がある。
欝陵島。蔚珍の正東の海中に在り。清明なれば則ち峯頭山根歴歴として見る可し。地広く土肥ゆ。其の竹を産するを以って故に竹島と謂う。三峯あるを以って故に三峯島と謂う。于山、羽陵、武陵、磯竹に至るも皆、音訛して然る也。 日本の隠岐州と相近い。

鬱陵島には三つの高い峰がある。それは羅里峯(840m)、聖人峯(984m)、そして弥勒峯(901m)である。三峯島は現在の竹島ではなく鬱陵島のことである。





大東輿地図 in 1861
朝鮮の代表的な地図として、1861年に金正浩の大東輿地図があるが、この地図は鬱陵島のみが描かれていて、竹島に当たる島名の記載は無い。このように朝鮮では、慶尚道の東に在る鬱陵島だけが描かれているものと、鬱陵島と朝鮮半島の間に于山島が誤って書かれているものと、海左全図のようにチュクドが書かれているものと、3つのタイプの地図が存在した。




鬱陵島検察日記 in 1882
1868年、遂に日本は明治維新を成し遂げる。そして鬱陵島が問題となるのは1881年5月22日、江原道監詞が鬱陵島捜討官(朝鮮は1696年以後、3年に一度巡察使を、当時無人島であった鬱陵島に派遣)からの報告を受け、日本人7名が鬱陵島で木材を伐採していると、報告した事から始まっている。この時朝鮮は日本の外務省に抗議し、併せて副護軍の李奎遠を鬱陵島検察使に任命して鬱陵島に派遣する事になった。
李奎遠が鬱陵島に赴くのが1882年4月。そこで李氏朝鮮の第26代国王・高宗(1863 - 1907在位)は、彼に対し、「松竹島、芋山島は鬱陵島の傍らに在り、しかしてその相距たる遠近いかん。また何れの物有りや否や」と下問している。この高宗の質問に対して李奎遠は「芋山島は即ち鬱陵島にて、芋山は古(いにしえ)の国都の名なり」とし、「松竹島は即ち一小島にて、相距たること十里(今の2Kmに相当)、その産するところは即ち檀香と簡竹」と、答えている。『成宗実録』1年8月条に記された「鬱陵島の傍らに小島あり」の小島と同じく、何れも鬱陵島より東に2Km程度離れた現在の鬱陵郡蔚陵邑道洞里竹島のことで、今の竹島とは全く関係が無いのである。『東国輿地勝覧』の于山島鬱陵島条には松島、竹島の文字が無く、松島、竹島、芋山島の三島を鬱陵島と称したのは『東国文献備考』に基づく知識だったからである。

その高宗の不確かな鬱陵島理解に対して李奎遠は、「或いは松島、竹島と称して鬱陵島の東に在りとす。而(しか)してこれ松竹島以外に別して松島、竹島あるに非ず」と答え、松竹島(現道洞里竹島)以外に松島や竹島と言う島は存在しないと、高宗の誤りを正している。この高宗と李奎遠の鬱陵島に対する認識の差は、『東国文献備考』の記述を通じて鬱陵島周辺の地理を認識していた高宗と、実際の鬱陵島の様子を伝聞し、現実的な鬱陵島像を確立していた者との違いといえる。

そしてその違いは1882年6月5日、鬱陵島から戻った鬱陵島検察使・李奎遠の帰還によって一層明確となる。李奎遠はその啓文で、「晴明の日、高きに登りて遠眺すれば、即ち千里を窮(きわ)むべくして、更に一挙の石一撮の土なし」とし、鬱陵島検察日記には「四望して海中にうかぶに一点の島嶼(とうしょ)の見形無し」と記している。これは鬱陵島の最高峰である聖人峰(984m)の頂上に立ち、四方を望見した結果を述べた部分で、そこからは島影らしきものは何も発見できなかった。これは、李奎遠の地理的正確さを改めて実証しただけでなく、1880年代の朝鮮の人々には、現在の竹島がその視野の中に入っていなかった事実を証明するものである。





大韓全図 in 1899
大韓地誌は玄菜(1886 - 1925)という歴史家兼書道家によって編纂された地理書で、大韓帝国の学校でも使われたことがある。本の中で、「鬱島郡の行政地域は東経130度35分から45分までである」としている。竹島はその行政区の外、131度55分に在る。またこの本には大韓全図という付属図がついている(地図には経緯線が書かれているが、経線は中国の北京を基準とする偏東度数を基礎としている)。韓国は、この図に書かれてある于山島こそ現在の獨島であるとしているが、緯度や経度を見れば、この于山島はチュクドであることが分かる。



大韓帝国勅令第41号 in 1900
大韓帝国政府は、1900年4月に禹用鼎に命じて鬱陵島周辺の調査をさせ、6月に報告書を政府に提出した。それを受けて大韓帝国政府は1900年10月25日に勅令第41号を発した。先ずは勅令第41号を載せた官報と、下記の日本語訳を読んで頂きたい。

勅令第四十一号
鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正した件
第一条 鬱陵島を欝島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制に編入し、郡等級は五等にすること

第二条 郡庁は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること

ここに出てくる竹島とはチュクドのことであるが、この勅令には「石島」なるものが突然表れる。韓国はこの石島を現在の竹島(獨島)と主張している。しかし、この韓国主張には根拠が無い。なぜなら同年、1900年に禹用鼎が鬱陵島を調査していて、『鬱島記』という本が現在韓国にあるが、竹島には行っていない。従ってこの勅令に「石島」という名称があっても、それが竹島であるということはあり得ない。 禹用鼎は鬱陵島を一周しただけで、現在の竹島には行っていないことが分かっている。更にこの勅令が発せられた後の文献を見れば、石島が竹島でないことは一目瞭然に分かる。




大韓新地志 in 1907
1907年に発刊した張志淵の『大韓新地志』では「鬱島(1900年に鬱陵島から鬱島に名称変更)の位置を130度45分から35分に至る」と認識していた。竹島の経度は、この鬱島の外にある。したがって先の勅令に挙げられた鬱陵島の属島である「竹島(Chukdo)」も「石島」も当然、東経130度45分から35分に至る間に点在する島嶼であったことを示している。




朝鮮常識問答 in 1946
鬱陵島を極東とする大韓帝国以来のこの領土認識は、日本の植民地支配が終わった後も変わりが無かった。崔南善(チェ・ナムソン:1890 - 1957)の『朝鮮常識問答』(1946年初版)では、朝鮮の地理上の位置を「島嶼を加えれば東経130度56分23秒から124度11分00秒」とし、「極東は慶尚北道鬱陵島竹島(チュクド)」としてる。ところが、同じ『朝鮮常識問答』でも、後年の版で示された領土の東限を見ると、経度は初版の際のままにもかかわらず、地名だけが「慶尚北道鬱陵島独島」と修正されている。



結論
以上各種の文献を見れば、于山島は竹島でないことは明白である。

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TITLE:必殺通行人の呟き:竹島について - livedoor Blog(ブログ)
DATE:2009/02/22 05:20




竹島について、その2

松島への渡航許可 in 1656
于山島が竹島ではないことは先に説明しました。それは即ち、韓国が近年におけるまで竹島を知らなかった事を意味する。つまり、韓国は竹島に対して実効支配をしていないのである。最初に竹島を実効支配したのは日本である。いつ竹島を発見したかは定かではないが、幕府は松島(現・竹島)への渡航許可を1656年に出しているので、少なくともそれ以前に竹島(旧・松島)は日本人の経営支配下に入っていたことを意味する。


隠州視聴合記 in 1667
隠州視聴合記 (松江藩士・斉藤豊仙著 1667年)
隠州在北海中故云隠岐島、従是、南至雲州美穂関三十五里、辰巳至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、俗言磯竹島多竹魚海鹿、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠州、然則日本之乾地、以此州為限矣

翻訳
(1) 隠州(隠岐島)は北海中(日本海)にある
(2) これより南、雲州(島根県東部)美穂関まで35里。東南、伯州(鳥取県西部)赤崎浦まで40里。南西、石州の温泉津(ゆのつ)まで58里。北から東には行くべき地なし。
(3) 北西の間、二日一夜の所に松島(現・竹島)があり、また一日程行くと竹島(現・鬱陵島)がある。
(4) 俗に磯竹島という。竹・魚・アザラシが多い。

(5) これら2島は無人島で、高麗を見るように雲州より隠州を見るようである。
(6) ならば即ち、日本の北西の地、この島をもって境とする。

「この島」の解釈
この隠州視聴合記は隠岐島を中心に、東西南北何があるかが書かれている。 ソウル大学社会学部のシン・ヨンハ教授は、上記の文章から(2)と(4)を抜き、(1)と(3)(5)を結んで、(6)の「この島」を隠岐島のことと解釈した。これでは著者の斉藤が、(2)でわざわざ隠岐島を基点とした意味が無くなってしまう。(1)から(5)を抜かさずに読むと、(6)の「この島」とは鬱陵島を指し、鬱陵島までが日本の領土として書かれているとの解釈が成り立つ。実際(3)(4)(5)(6)を一つの段落として考えると、「この島」とは、明らかに鬱陵島である。
もう一つの解釈として「この島」とは隠岐を指すことも十分考えられる。韓国側は、斉藤豊仙はこの州(隠州)をもって日本の国境と言っていると解釈し、つまりそれは鬱陵島と竹島は韓国領土あると主張する。しかし、これは今日の国境という意味ではなく、日本人が住んでいる行政範囲と解釈するのが適切である。何故なら1693年から3年間にもわたって鬱陵島の領有権問題が日本と朝鮮で争われたことを説明する事は出来ない。隠州視聴合記は、鬱陵島問題が起こるずっと以前、1667年に書かれており、徳川幕府が日本漁民に鬱陵島への渡航許可を出して半世紀経過しているのである。そして竹島と鬱陵島は、日本の準勢力範囲、ないしはEEZのようなものであると推測できる。つまり朝鮮と鬱陵島の間に朝鮮の行政権があり、隠岐と竹島の間に日本の行政権があり、無人島の鬱陵島と竹島は両国の行政権が及ばないが、幕府は両島に渡航許可を出しており、日本の勢力範囲と解釈するのが自然である。


竹島松島之図 in 1724
幕命によって鳥取藩が、大谷、村川両家から鬱陵島周辺海域を聞き調べ作製した図に、竹島松島之図というのがある。この図は1724年に製図されたもであるが、松島の2つの主島(西島と東島)が描かれ、その周りに幾つかの岩礁が書かれている。20世紀に入るまで、韓国ではこのような竹島(旧・松島)の2つの主島が書かれている詳細な地図は存在しない。


改正日本輿地路程全図 in 1779

作者の長久保赤水(1717-1801)は、水戸徳川家の儒官として江戸に出仕した人で、晩年『大日本史』の「地理志」稿本を執筆した地理学者でもある。この「改正日本輿地路程全図」は行基図を越えた画期的な日本図である。輪郭はかなり正確になり、距離や方角も正しく読み取れるようになっている。幕末に至るまで、他の日本図の手本となった。この”日本図”には竹島が描かれている。


三国通覧図説 in 1785

韓国が、「日本も自ら竹島を朝鮮領と認識していた」として持ち出す資料の一つに、地理学者の林子平(はやししへい・1738-1793)が書いた『三国通覧図説』がある。この書には付属図の『三国輿地路程全図』がある。林は日本の地図だけでなく、朝鮮の資料も参考にしたと思われる。朝鮮半島の直ぐ傍に、島名の書かれていない島があるが、これは明らかに存在しない于山島である。そして日本海の中央に描かれている島は、当時竹島と呼ばれていた鬱陵島のことである。その竹島の直ぐ傍に小さな島が書かれているが、これはチュクドと考えるのが妥当である。林子平はまた『朝鮮八道之図』も描いているが、鬱陵島には「鬱陵島」と「于山国」の2つの名称が記載してある。


竹島密貿易事件 in 1836
1836年に、石州浜田の回船問屋・会津屋八右衛門(いまずやはちうえもん)が、幕府が渡海禁止令を出していた竹島(現・鬱陵島)へ渡り、竹や木材を伐採して密貿易をしていた事が知られ、裁判を受け死刑になった事件がある。この裁判の判決文に、「松島へ渡海の名目をもって竹島に渡り」という浜田家老の言葉がある。つまり、竹島事件で問題になったのは朝鮮領の鬱陵島への渡海であり、松島(現・竹島)への渡海については何も問題にされていないのである。

亜細亜東部輿地図 in 1875
日本の陸軍参謀局は1875年に『亜細亜東部輿地図』を作製した。この図には昔竹島(もしくは磯竹島)と呼ばれていた島が松島という島名で書かれ、この松島(鬱陵島)と朝鮮半島の間に存在しない島が竹島という島名で書かれている。その一方、鬱陵島と隠岐の間にあるはずのリアンクール島(現竹島)は描かれていないのが分かる。


内務省の通達 in 1877
左の資料は、内務省が1877年3月20日に出した通達で、鬱陵島とほか一島が朝鮮の領土であることが明記されている。韓国は、ここに載っている、「竹島外一島」の"外一島"を竹島(獨島)であると主張しているが、その論拠となる積極的な証拠は無い。「竹島ほか一島」とは、2年前に陸軍参謀局が調査したアルゴノート島(竹島)とダージュレー島(松島)と考えるのが自然である。

この資料は国立公文書館に所蔵してある日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件で、下記はその文章である。
明治十年三月廿日

別紙内務省伺 日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件右ハ元禄五年 朝鮮人入嶋以来 旧政府該国ト往復之末 遂ニ本邦関係無之相聞候段申立候上ハ 伺之趣御聞置左之通御指令相成可然哉 此段相伺候也
御指令按
伺之趣竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事

資料:竹島(鬱陵島)および外一島の放棄
資料:公文録 内務省之部(磯竹島略図含む)


軍艦「天城」の調査 in 1880
日本政府は、混乱した鬱陵島周辺を調査し確認するため、外務卿の寺島宗則が1880年7月、軍艦「天城」を派遣した。そして当時誤って「松島」と称せられていたのが、古来の鬱陵島であることが確認された結果、その後の刊行にかかる海図では、一貫して鬱陵島に該当する島を「松島」、今日の竹島に該当する島を「リアンコールト岩」と称した。ここに、昔竹島と呼ばれていた鬱陵島が松島となり、松島と呼ばれていた島がリアンコールト岩となるのである。松島が竹島と島名が変更した原因の一つがここにある。もし西欧の誤った地図が日本に逆輸入されなければ、我々は現在も竹島を松島と呼んでいただろう事は想像に難くない。(この調査後、外務省書記官の北澤正誠が竹島考証(上)(中)(下)を著した。


鬱陵島へ渡航上陸禁止 in 1883
1881年、朝鮮は長らく実施していた鬱陵島に対する無人島政策を放棄した。同年朝鮮政府は鬱陵島で日本人が伐木しているのを発見、日本政府へ正式に照会して鬱陵島渡航禁止を要求した。日本政府外務省は、すでに松島開拓問題(1876年)で鬱陵島を朝鮮領と認めていた。そして日本政府は鬱陵島への渡航を禁止し、1883年、同島に在留していた日本人を強制的に連れ戻した。同年、3年前の調査が『水路雑誌』に纏められた。


寰瀛水路誌 in 1886
日本の海軍省は1883年『寰瀛水路誌(かんえいすいろし)』を発刊した。同水路誌は1889年に編纂が中断されるまで発刊。1886年に発刊された『寰瀛水路誌 大日本沿海北西部 第一巻下』に「隠岐全島」の記述があるが、竹島は全く載っていない。


大日本水産会報告 in 1887
1887年に発刊された『大日本水産報告』の第65号では隠岐の漁業活動についての報告がある。冒頭に隠岐の島々の説明がなされているが、竹島に関する言及はない。韓国側はこれをもって竹島は日本領ではないと主張するが、これはあくまでも漁業活動についての報告である。


朝鮮水路誌 in 1894
日本海軍の水路部が刊行した1894年版の『朝鮮水路誌』に、朝鮮領の東限が鬱陵島であることを示す記述がある。同書は第一編から第四編の4つのセクションに分かれており、朝鮮領の東限は第一編、鬱陵島とリアンコールトは第四編に記述がある。韓国側は、朝鮮の南の限界はこの『朝鮮水路誌』では北緯33度15分とされたので、朝鮮の限界は済州島までであり、その南にある韓国領の馬羅島(北緯33度7分)などは含まれないことになる。従って『朝鮮水路誌』をもって竹島は日本領であるという主張は成り立たないという。しかし日本と国境がある東限と、その先には何も無い南限を同列に扱ってはならない。『朝鮮水路誌』は厳然と竹島を韓国領ではないと定めているのである。また、この年に鬱陵島附近を描いた代表的な図を下記に掲示する。
『朝鮮全図』 柴田源三郎によって発行。鬱陵島の直ぐ東側に于山島がある。
『新選 朝鮮国全図』 松島(経緯度を鑑みて鬱陵島)と朝鮮半島の間に竹島(幻のアルゴノート島に相当)が記載されている。
『朝鮮全図』 東京地学協会が編纂。3つの図の中で最も正確に描かれている。この朝鮮全図は鬱陵島までしか描かれていない。



河合利喜太郎著 亜細亜東部輿地図 in 1898
1898年に河合利喜太郎によって『亜細亜東部輿地図』が作成された。これは陸軍参謀局が1875年に作成した『亜細亜東部輿地図』と同じ系譜の図である。松島(鬱陵)と書かれた東側に竹島と書かれているが、経緯度が正確ではないのが分かる。




外務省通商局編纂 通商彙纂 in 1902
1902年10月16日発刊された外務省通商局編纂『通商彙纂』第234号には、同月10日付けの釜山駐在日本領事館の本国への報告書のなかで、「韓国鬱陵島事情」と題して竹島に関する報告をしている。




小藤文次郎著 朝鮮全図 in 1903
20世紀初頭に書かれた朝鮮の図に小藤文次郎が書いた『朝鮮全図』がある。この朝鮮全図には鬱陵島が描かれているが、現在の竹島は描かれていない。




中井養三郎の領土編入願い in 1904
1903年5月、隠岐島に住む中井養三郎が竹島でアシカ漁を始めた。だが、領有権が明確でないために他国とのトラブルなど、不測の事態を招く恐れがあった。間もなく過当競争による乱獲の弊害も出始めた。中井によると、1904年には山口県の岩崎という人物らが鬱陵島の朝鮮人を雇って、竹島でのアシカ漁に参入した。 1907年「竹島及鬱陵島」という本を出版した奥原碧雲(おくはらへきうん 1873-1935)によると、中井は最初竹島は朝鮮領であると考えていたが、隠岐出身で農商務省水産局に勤めていた藤田勘太郎や牧水産局長に面会して、更に海軍水路部で竹島の所属を確かめた。水路部長は中井に対し、竹島の所属は確固たる証拠無く、日韓両国の本土からの距離を考えれば日本の方が近く、加えて日本人は竹島経営に従事しているので、日本領に編入するのが自然であるとの説得を受け、中井は1904年9月29日に竹島の領土編入と貸し下げを内務、外務、農商務省の三省に願い出た。




竹島の島根県編入 in 1905
日本は1905年1月28日の閣議において、江戸時代には松島と呼ばれていた島を正式に竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管する旨を決定し、島根県知事は同年2月22日付の島根県告示第40号をもってその内容を公示した。翌年の1906年4月8日、島根県隠岐島の一行が鬱陵島を訪れ、鬱陵郡の郡守・沈興澤に「竹島が日本領になり、その視察の序(つい)でに鬱陵島を訪れた」と来意を告げた。

現在韓国政府は、1905年の竹島編入は無効であると主張している。韓国の国定教科書、中学校『国史』(下)に掲載された、竹島関連の記述にも韓国の主張を垣間見ることが出来る。

「我が国を侵略しながら日本は獨島を強奪し、間島を清に与えた。獨島は鬱陵島に付属する島として、鬱陵島が三国時代に新羅の領土に編入して以後、我国の領土とされてきた。朝鮮の太宗時代に流民を防止するため、そこに住む人々を本土に連れ戻して、鬱陵島と獨島の管理が疎かになった。その後、粛宗時代に鬱陵島に出掛けた漁民安龍福が、不法に侵犯している日本の漁夫を追い払い、日本に渡って我国の領土であることを確認されることがあった。しかし、日本の漁民は密かに鬱陵島の木材を伐採し、魚を獲るなどしばしば侵犯した。だが、日本は露日戦争中に強制によって、日本の領土に編入してしまった。」(韓国国定教科書・国史より)

果たして本当に韓国政府が言うように、竹島は強奪され、強制によって日本に編入されたのだろうか?竹島編入時期の日本・大韓帝国・ロシアの関係を見てみよう。

中井がアシカ猟を開始 1903年05月
1904年02月06日 日露開戦
1904年02月09日 旅順攻撃 日韓議定書 1904年02月23日調印
1904年05月01日 鴨緑江渡河作戦
1904年08月10日 黄海海戦
1904年08月14日 蔚山沖海戦
1904年08月07日 旅順総攻撃Ⅰ 第1次日韓協約 1904年08月22日調印
1904年08月24日 遼陽会戦
1904年09月19日 旅順総攻撃Ⅱ 中井から政府へ編入願い 1904年09月29日
1904年10月08日 沙河会戦
1904年12月   203高地奪取
1905年01月12日 旅順陥落
1905年02月20日 奉天会戦 竹島の編入 1905年02月22日決定
1905年05月26日 日本海海戦 1905年02月24日の報道
1905年07月30日 樺太全土を制圧
1905年09月05日 ポーツマス条約調印 第2次日韓協約 1905年11月17日調印

年表を見ると、戦争と並行して韓国に対する干渉が強くなっていっているのが分かる。これだけを見ると、確かに竹島の編入は日韓議定書からの連続した侵略過程とも採らえることが出来る。しかしよく考えて頂きたい。その頃(1905年2月22日)の韓国は歴然とした独立国(大韓帝国)である。第2次日韓協約(日韓保護条約)によって、日本が韓国の外交面を担当するようになったのは、1905年11月17日。従って強奪でも強制でもなんでもない。大韓帝国は主張できる立場にあった。また編入はマスコミにもよっても知らされた。更に言うなれば、中井養三郎が竹島でアシカ猟を開始したのは日露戦争よりも前である。竹島の編入に中井養三郎が意図的に加担したとうのは事実無根であることがわかる。
資料:『明治三十七八年海戦史 第四部 巻四』
資料:『通信に関する件』 - 竹島に望楼建設の為の軍艦派遣訓令
資料:『第75号 竹島仮設望楼位置図』
資料:『電線関係作戦班』 - 松島(鬱陵島)と松江の回線試験
資料:『軍艦新高行動日誌』 - 「リヤンコルド岩、韓人之を獨島と称す」の記述あり。
資料:『通商彙纂 第50号』 - 日露戦争中の1905年7月31日、釜山駐在領事館が「鬱陵島現況」の中で竹島を報告
資料:『韓国新地理』 - 日露戦争直後に著された。「ヤンコ島」が韓国江原道鬱陵島の説明中にある。





東亜輿地図 in 1909

竹島編入4年後の1909年に、陸地測量部(現在の国土地理院に相当)が発行した地図『東亜輿地図』には、竹島が島根県に属していることを示している。この東亜輿地図は100万分の1の縮尺で、シベリア東部、日本、中国南部までの東アジア全域を241区域に分けている。竹島が書かれてある図は松江区分のページで、鬱陵島には「韓国江原道」、竹島には「島根県隠岐」と行政区が記載してある。




日本陸軍測地測量部の図 in 1936

1936年に日本の陸軍測地測量部が作成した「地図区域一覧図」という地図があるが、これを基に韓国は、「竹島は朝鮮領として描かれていて、近代に入っても日本政府の竹島に対する認識は朝鮮領であることを自ら示している証拠である」と主張している。
しかし、この「地図区域一覧図」は、軍隊の運用のためその管区を定め、部隊を運用する為の地図である。基本的には管区や運用を行政境界と一致させるとしても、運用上の便宜から例外が出ることは不思議ではない。結論として、竹島が軍の地図区分において朝鮮管区(軍令上の区画)に加えられたとしても、あくまでも「行政区画」上、島根県に属していた事実は変わりない。国家の領域を管轄して、天皇を補弼(ほひつ)したのは内務省であるから、行政区画をもってその帰属を論ずるべきである。韓国は行政上の地図と軍事上の地図を同一視してはならない。 前年の1935年に民間の出版会社が発行した『朝鮮全図』は鬱陵島と竹嶼(ちくしょ)が書かれている。竹島が朝鮮全図にないのは当然である。




結論
現在韓国では、日本の韓国侵略の始まりは竹島の日本編入(1905年)からであると主張しているが、その当時から朝鮮併合の意思があったなら、日本政府は、領土的には何の価値も無い竹島ではなく、人が住める鬱陵島の主権を奪ったはずである。ところが日本政府は江戸幕府と同様に一貫して鬱陵島は朝鮮領とした。 また、下の写真のように、竹島は主に西島と東島から成り、「竹島松島之図」などには島の詳細が描かれているが、その一方で韓国は、20世紀に入るまで正確かつ詳細な竹島の地図を持ち合わせていない。これは実効支配をしたことのある日本と、全く無い韓国との違いを端的に表している。

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TITLE:必殺通行人の呟き:竹島について、その2 - livedoor Blog(ブログ)
DATE:2009/02/22 05:19



竹島について、その3 資料関係

【参考資料】


日本国政府外務省
韓国政府外交部
日韓歴史克服への道 下條正男著
島根県竹島の新研究 田村清三郎著
竹島及鬱陵島 奥原碧雲著
独島/竹島韓国の論理 金・学俊
史的解明 独島 シン・ヨンハ著
尖閣列島と竹島 上地龍典著
FRUS アメリカ国務省
読売新聞、朝日新聞、山陰中央新報、東亜日報、朝鮮日報、CNN

■外務省・外交資料館りゃんこ島領土編入並に貸下願
■国立公文書館
公文類集第7編 - 外務省内達。鬱陵島へ渡航上陸を禁す
公文類集第29編 - 日本の竹島領有宣言の過程
公文録 内務省之部 一 明治十年三月 - 2A-25-公2032
公文録 内務省之部 一 明治十年三月 - 2A-10-公2032 磯竹島略図含む
隠州視聴合記 巻之一 - 1667年、松江藩士・斉藤豊仙著
磯竹島覚書 地理局
朝鮮国全図 - 1882年、鈴木敬作著
竹島考證 上 - 北澤正誠著。
竹島考證 中
竹島考證 下
朝鮮八道之図 - 1785年、林子平著
文鳳堂雑纂
太政類典
天保雑記
朝鮮国交際始末内探書 - 朝鮮事件(自明治元年 至明治三年)
東亜輿地図 - 1909年、陸地測量部作成
明治十六年 公文録 外務省三月四月
明治二十三年 往復簿 一 内閣記録局
亜細亜東部輿地図 - 1875年、陸軍参謀局作製
亜細亜東部輿地図 - 1898年、河合利喜太郎著
警保局長決済書類 昭和22年 - 領土外に対する行政権停止に関する件

■国立国会図書館
朝鮮水路誌 - 1894年作成。リアンコールト列岩の記述あり
水路雑誌 - 1879年、及び1880年に軍艦天城が調査
山陰新聞 - 1905年2月24日の竹島記事
大日本全國略圖
小藤文次郎著 朝鮮全図 - 1903年作成
新撰朝鮮全図
明治二十七年 朝鮮全図
東京地学協会編纂 朝鮮全図 - 1894年作成
朝鮮全図 - 1935年作成
FRUS - 1949年Ⅶ、1950年Ⅵ、1951年Ⅵ part1&part2
東亜日報 - 1949年1月8日付
通商彙纂 第234号 - 1902年10月10日
通商彙纂 第50号 - 1905年7月31日
寰瀛水路誌 大日本沿海北西部 第一巻下 - 1886年3月
寰瀛水路誌 第二巻 - 1883年3月
寰瀛水路誌 第二巻第二版 - 1886年12月
日本水路誌 第四巻 - 1916年12月
日本水路誌 第十巻上 朝鮮東岸及南岸 - 1920年4月
日本水路誌 第十巻下 朝鮮西岸 - 1920年7月


■防衛研究所図書館(資料掲載申請中)
明治三十七八年海戦史 第四部 巻四
通信に関する件
第75号 竹島仮設望楼位置図
電線関係作戦班
軍艦新高行動日誌

■その他
東京水産大学付属図書館(大日本水産会報告)
島根県(竹島の位置地図)
東北大学(改正日本輿地路程全図)
朝日新聞(1953年10月17日、21日、23日付)
韓国海洋警察庁(各竹島上空写真)
韓国海洋水産部(竹島水面上写真)





TITLE:必殺通行人の呟き:竹島について、その3 資料関係 - livedoor Blog(ブログ)
DATE:2009/02/22 05:19

  • 最終更新:2009-03-08 14:39:01

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