新藤メルマ

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竹島領有権問題について


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【竹島の概要】

 竹島は、隠岐諸島の北西約157㎞、北緯37度14分、東経131度52分に位置し、現在は島根県隠岐の島町に属す。
 高さ157mの西島と、それよりやや低く小さい東島、及び数十の岩礁からなり、総面積は23万㎡で日比谷公園とほぼ同じ、東京ドーム約5つ分。
島根県松江市から北北東方向に約70㎞で隠岐諸島、隠岐諸島から北西方向に約157㎞、松江市から直線距離で約220㎞の位置に竹島が存在する。さらに西北西方向約92㎞に、韓国領である鬱陵島(うつりょうとう、ウルルンド)があり、韓国東沿岸の蔚珍(ウルチン)までは約140㎞である。
飲料水が乏しく居住するには困難が伴うが、周辺海域一帯は南からの対馬暖流と北からのリマン寒流の接点になっており、魚介藻類の種類・数量ともに豊富な好漁場として知られる。
 島根県は竹島の県編入100周年を機に、2005年3月「竹島の日」条例を制定。啓発事業の一環として竹島の領有権問題の現状を把握するため、「竹島問題研究会」を発足させ、歴史・国際法の観点からの検証を重ねた上で、2006年度末に最終報告が提出される予定。

(注)島根県条例第36号(公布日/平成17年3月25日)
「竹島の日を定める条例」
(趣旨)
第1条 県民、市町村及び県が一体となって、竹島の領土権の早期確立を目指した運動を推進し、竹島問題についての国民世論の啓発を図るため、竹島の日を定める。
(竹島の日)
第2条 竹島の日は、2月22日とする。
(県の責務)
第3条 県は、竹島の日の趣旨にふさわしい取組を推進するため、必要な施策を講ずるよう努めるものとする。
附則
この条例は、公布の日から施行する。


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【紛争の発端――韓国の「海洋主権宣言」】

 日本政府は1905(明治38)年1月28日の閣議において島名を「竹島」とし、本邦所属・島根県隠岐島司の所管と決定し、島根県知事が2月22日この旨公示した。
今日の竹島をめぐる問題は、第二次大戦後独立を回復した韓国が、1951(昭和26)年9月に対日平和条約が調印され日本の主権回復が確実となった際、同条約が発効する1952(昭和27)年4月28日直前の1月18日、「大韓民国隣接海洋の主権に関する李承晩大統領の宣言」を行い、竹島を含む水域に一方的な主権宣言を行い、いわゆる「李承晩ライン」を設定たことに端を発している(「李ライン」は日韓基本条約が締結された1965年6月22日まで継続。ライン設定前後から拿捕された日本漁船328隻、抑留された船員3929人、死傷者44人)。
 その後両国は「口上書」の応酬により互いの主張を繰り返す。1965(昭和40)年日韓国交正常化交渉が妥結し、「日韓基本関係条約」に調印がなされ、竹島問題については「日韓両国の紛争の平和的処理に関する交換公文」を取り交わしたが、竹島問題は解決しなかった。
1994年に発効した国連海洋法条約に関する議論を契機として、排他的経済水域(EEZ)の基点をめぐり同問題が再燃。それまでも竹島における不法占拠の状態を強化してきた韓国は1996年、竹島に接岸施設の建設を開始。
日韓両政府は1996年3月の日韓首脳会談(橋本総理+金泳三大統領)の際、両国首脳間で、EEZの境界画定や漁業交渉を領有権問題と切り離して促進することとした。その後EEZの境界画定の交渉を行ったが、双方の立場の隔たりが大きく、合意が早期に得られる見通しがなかったことから、漁業問題の早急かつ実際的な解決のため漁業協定のみを締結(99年1月発効)。同協定の附属書Ⅰにて、EEZの早急な境界画定のため誠意をもって交渉を継続することで合意している。
竹島及びその領海は暫定水域とされた区画には位置しているが、日韓漁業協定の適用水域はEEZのみであって、双方の領海は含まれないため、竹島の領海も暫定水域として扱ってはいない。
わが国漁船は竹島に近づくことができず、竹島領海内での操業もできない状況にある。
 日本国内で同問題の風化傾向を危惧した島根県議会が、2005年議員提案による「竹島の日条例」を制定したことに、韓国側は強く反発。盧武鉉大統領は直属の機関(「東北アジア平和のための正しい歴史定立企画団」)を発足させ、広報活動を活発化。2005年6月に英文による「独島・六世紀以来韓国の領土」を発表。世界にその主張の正統性を広くアピールしている。


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【竹島の名称】

 現在の鳥取・島根周辺の住民は、昔から現在の鬱陵島を「竹島」(あるいは「磯竹島」)、現在の竹島を「松島」と呼び習わしていた。この名称が文献に登場するのは1618年、米子の商人であった大谷(おおや)家が鳥取藩主を通じて、江戸幕府にアワビ・ワカメなどを採取するための渡海許可を願い出た際の記録「竹島渡海由来記抜書控」である。ここで言われ、幕府が渡海許可を出した「竹島」は、現在の鬱陵島のことであった。大谷家は翌年「松島渡海願」を出してこれも受理されており、この「松島」が現在の竹島であった。
 ちなみに韓国側は竹島(独島・トクト)について、古来より「于山島」「三峯島」「佳池島」「席島」など様々な名称で呼ばれてきたとしており、特に512年に新羅に合併された「于山国」は現在の鬱陵島と竹島(独島)の二島で構成された島国のことだと主張しているが、文献に照らし常識的に判断すれば「于山国」は現在の鬱陵島一島のみを指すと考えられ、竹島(独島)について新羅の時代から領有していたという確たる証拠とは言い難い。
 1787年にフランス人ラ・ペルーズが日本海上を航海中、発見した島に「ダジュレー」と命名。また1789年にはイギリス人コルネットが同じように発見した島に「アルゴノート」と命名。それぞれに記録されていた緯度経度が相違していたため、以後欧州では別々の島が二つあるかのように記載されることとなった(実際はこの二つは同じ鬱陵島)。
この誤った知識を持ち、なおかつ「松島」と「竹島」が存在していることを知っていたオランダ商館の医師シーボルトは、1840年刊行の「日本図」において「ダジュレー島」に「松島」、「アルゴノート島」に「竹島」と添え書きした。このために以降「鬱陵島=松島」となり、「松島」と「竹島」の名称が混乱することとなった。また、さらに別の外国船が諸島群を発見し、フランス船が「リャンクール列岩」イギリス船が「ホーネット諸島」などと命名したため、以降更に「ダジュレー島」「アルゴノート島」「リャンクール列岩」「ホーネット諸島」の名称が混在するようになった(実際は「リャンクール」「ホーネット」は同じ竹島)。これを受けて、日本でも竹島を「リャンコ島」などと呼称するようになった。
1880年、軍艦「天城」が測量を実施し、鬱陵島を公式に「松島」であると整理し、竹島は「リヤンクール」あるいは「リヤンコールト」とした。しかし民間では引きつづき鬱陵島を「竹島」と呼んでおり、名称の混乱は続いた。
1904年、アシカの乱獲等を防ぐため、隠岐島の中井氏が明治政府に竹島の領土編入と貸し下げを依願し、政府は翌1905年1月の閣議決定および2月の島根県告示により、竹島を島根県に編入した。これは従前より日本人が漁業等を行っており、中井氏の漁業会社が既に竹島に小屋を構えていること、等をもって、日本政府が近代国家として竹島を領有する意思を再確認したものであり、内務省訓令第八七号をもって同島を「竹島」と正式に命名、島根県隠岐島司の所管とした。ここにおいて現在の「竹島」の名称が固定された。
以上の経緯から分かるように、この一連の名称の混乱と、測量技術の不足による外国の地図の不正確さが、韓国側の不当な主張を許すことのないよう、日本政府として史実に基づいた確固たる一貫した説明が必要である。


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【いわゆる「竹島一件」について】

1618年以来、米子の大谷(おおや)家と村上家が交互に鬱陵島において漁や採取を行っていたが、その年村上家が鬱陵島に近づいた時、何者かが漁をしている痕跡を発見し、朝鮮の漁民と遭遇。村上家は、日本領土である鬱陵島に二度と来ないよう申し渡したが、翌1693年に今度は大谷家が安龍福(アン・ヨンボク)と朴於屯(パク・オトン)と名乗る二名を含む朝鮮人が漁をしているのを発見し、鳥取藩に訴えるため両名を証人として米子に連れ帰り、両名は鳥取城下に移送された。
 鳥取藩から裁定を求められた江戸幕府は、この二名に鬱陵島渡航を厳禁した上、長崎へ移送。当時朝鮮外交を所管していた対馬藩がこれを引き継ぎ、鬱陵島への渡海禁止の周知徹底を朝鮮王朝に強く求め、同王朝も二名を罪人として厳罰に処すこととした。
 鬱陵島の領有自体に関しては、対馬藩主の病没というアクシデントもあり、1695年新藩主の参勤交代を機に、鬱陵島を朝鮮領として認めることによる交渉打ち切りを幕府に打診。これを受けて幕府は翌1696年、鳥取藩に鬱陵島への渡海禁止令を発し、対馬藩には鬱陵島の朝鮮領を認める趣旨を伝達した。ここまでは全て当時の「竹島」、すなわち現在の鬱陵島のことである。
 1696年、安龍福は隠岐島を経由して現在の鳥取県赤碕に来航、移送先の鳥取藩において「鬱陵于山両島監税」なる官職を僭称し、当時の「松島」(安の主張によれば「于山島」)すなわち現在の竹島も朝鮮領であることを鳥取藩に認めさせる目的で来訪した旨主張した。鳥取藩はこれを追放したが、朝鮮に帰国後の取り調べにおいて安は「松島は于山島のことであり朝鮮領だということを鳥取藩主に認めさせた」と供述した。
 しかしその供述は史実に照らして以下の如くに虚偽が多く、信用性に欠けるものと言わざるをえない。曰く、
・「隠岐島へ上陸前に鬱陵島へ寄り、多くの日本人を発見して『ここは朝鮮領である』と叱責した」 
→ 1696年頭に江戸幕府は鬱陵島渡海を禁じているので、多くの日本人に遭遇したはずはない
・「鳥取藩主と対面した」
→ 1696年、鳥取藩主は参勤交代で江戸に上っており、その後帰鳥したものの、事実上対面できたはずがない
・「対馬藩主が鬱陵島と竹島を朝鮮領とした将軍家の書き付けを奪った」
→ 対馬藩主も交代直後で江戸に上っており、対面できたはずがない

 韓国では現在、この安龍福を「独島を守った安龍福将軍」として英雄視し、竹島を韓国領とする主張の有力な根拠としているが、安はもともと朝鮮王朝が採っていた「空島政策」(鬱陵島に居住することを禁止する政策)を侵した罪人(結局死罪は免れ流刑された)であり、罪を免れるため行った裏付けに欠ける証言をもって「于山島=独島(トクト)=朝鮮領」とするのは根拠薄弱。


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【20世紀以降の事実に関する韓国側の主張とその問題点】

韓国側は、
① 1905年の日本による領土編入措置は、無主地に対する先占であるとする一方的な国内措置であるが、竹島は無主地ではなく韓国領であったのであり、無効である。
② 島根県告示という形をとった日本の領有意思の表明は秘密裡に行なわれ、韓国側に通報がなく、無効である。
③ 韓国政府がたとえこの事実を知っていたとしても、1904年の日韓議定書・第一次日韓協約により日本に対して異議を唱える立場になかった。
④ 日本による編入措置以降の行為は韓国侵略行為の一環として行なわれたのであり、国際法に基づく継続した領域支配の行為とは認められない。
⑤ 日本がポツダム宣言を受諾したことにより「日本国は暴力及び貪慾により日本国が略取したる他の一切の地域より駆逐されるべし」としたカイロ宣言の履行義務を負ったのであり、これにより竹島は日本から分離されることが決定された。
⑥ 1946年1月29日付連合国最高司令官覚書により竹島は政治行政上日本から分離される地域に含められ、同年6月22日、漁船の操業区域を限定するため設定されたマッカーサーラインにおいても竹島は日本漁船の操業区域外に置かれている。
と主張している。

これに対し日本側は、
① 竹島が韓国領であったとする証拠は無く、日本が実際に日本領土と考え、そのように扱ってきたことに他国がいかなる争いをも提起していない。
② 竹島の島根県への編入については通告する義務はないのみならず、島根県告示は正式に公示されたものであり、当時の新聞にも報道されている。
③ 韓国は当時日本に対して抗議を行い得なかった立場にはなく(1904年に任命された大韓帝国政府の外交顧問は日本人ではなく米国人だった)、またそのことによって編入措置自体が無効となるものではない。
④ 竹島は日本によって平穏かつ公然と経営されていたのであり、日本が「暴力および貪欲により略取した地域」ではない。竹島の島根県への編入措置は、日本政府が近代国家として竹島を領有する意思を再確認したもので、それ以前に日本が竹島を領有していなかったことや、ましてや他国が竹島を領有していたことを示すものでは全くない。
⑤ 1946年1月29日付連合国最高司令官覚書(SCAPIN〔スキャピン〕677号)やマッカーサーラインを設定した覚書(同1033号)は、いずれもその中においてこれが占領下の暫定措置であり、いずれの条項も日本の領土帰属の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない旨を明確にしている。さらに、1951年に韓国政府から米国政府に対し、日本が全ての権利・権原及び請求権を放棄する地域に竹島を明記するよう要請したが、米国政府は「竹島は朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から島根県隠岐庁の管轄下にあり、この島はかつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見なせない」旨回答している。
との反論がありえ、以上のほとんどの点については外務省ホームページでも明らかにしている。


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【留意点】

 韓国側は、本問題をむしろ日本の植民地支配の象徴のようにアピールしているが、そもそも竹島が韓国領でなければ、植民地支配で奪取されるはずもないのであって、問題の本質は19世紀以前の領有権の有無に尽きるのであり、植民地支配とは無関係である。


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  • 最終更新:2012-10-23 00:00:55

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