日本と韓国の思想(その3)秀吉とサヤカ

2008/12/16 13:00


1587年に九州を平定して日本統一を成し遂げた豊臣秀吉は、次に明を征服するとして、その通路である朝鮮に出兵します。1592年に日本軍16万人が釜山に上陸し、ソウル、ピョンヤンを征服し、朝鮮全土に壊滅的な打撃を与えましたが、李舜臣(イスンシン)の指揮する朝鮮水軍や明の援軍に敗れ、翌年撤退します。


しかし、1596年に講和のために来日した明の使者に対して、秀吉は、朝鮮の南部4道(慶尚道、全羅道、忠清道、京畿道)、つまり何と、今の大韓民国全土にあたる版図を日本に割譲することが講和の条件だと言い放ちます。


当然、和平は成立せず、その翌年に再び秀吉は14万人の軍勢を朝鮮に上陸させました。今度も李舜臣の水軍に敗れ、秀吉の死(1598年)と共に日本軍は全面撤退します。


なお、この征旅失敗については「降倭」(朝鮮軍に投降した日本兵)の朝鮮への加担が、その一因に挙げられます。「降倭」の代表的な例が、日本名を「サヤカ」という武将です。彼は戦わずして投降し、朝鮮軍に鉄砲の最新技術を教えて日本軍と戦い、後には、朝鮮北部に攻め込んだ女真(満州族)を撃退するなどの功績を挙げ、国王から金という姓を賜り、二品の高官に叙せられました。


「サヤカ」とは奇妙な日本名ですが、秀吉に滅ぼされた戦国期最強の鉄砲軍団であった紀州の雑賀(サイカ)衆だったのではないかという説が有力です。彼(金忠善)の子孫はサヤカを祀りつつ、現在でも大邱の南の友鹿洞(ウロットン)という村に集まって暮らしています。


何故、サヤカは戦いもせずに、敵に投降したのでしょう。この謎は、次回に書きましょう。

  • 最終更新:2009-02-10 16:44:32

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