日本と韓国の思想(その6)国書

2008/12/24 06:45


家康から先に講和の国書を朝鮮に送って欲しいと、朝鮮から対馬藩に要請がありましたが、先に国書を送るのは、通常、戦争に敗北した側です。しかし、この場合、日朝のどちらが敗者か、明確ではありません。


この事態に慌てたのは対馬藩です。対馬では米が収穫できず、室町時代から、倭寇を取り締る代わりに、朝鮮から米を支給されていたのでした。

倭寇とは、室町時代に朝鮮半島を襲った日本の海賊ですが、実際には、中国人や高麗人も倭寇を名乗って襲撃していました。


そのため、「日朝のどちらが先に国書を出すか」という問題がこじれて講和が遅れたりしたら、対馬の経済が成り立たなくなってしまいます。

そもそも、江戸の封建制と言うのは、幕府が諸藩を財政支援するということがなく、諸藩の独立採算が前提でした。


対馬藩は、悩みぬいた揚句の果てに、何と、幕府に無断で偽の国書を作り、それを朝鮮国王に奉呈してしまいました。それで済むわけがありません。翌1607年に第1回朝鮮通信使(この時の正式名称は「回答兼刷還使」、刷還とは捕虜を連れ戻すという意味)が朝鮮国王からの回答書を携えて来日するのです。


まさか「回答書」をそのまま、幕府に提出させることはできません。対馬藩は辻褄の合うように、その朝鮮国王の回答書を改ざん(書き改め)するのです。そして、江戸に向かう道中でこっそり本物と差し替えるという、冷や汗ものの綱渡りを演じ、ともかくも講和の成立にこぎつけることができました。


この国書偽造・改ざんの一件は、後に、表沙汰となります。

  • 最終更新:2009-02-10 16:41:03

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