木庵先生#03

竹島問題#3(読者の声と、歴史的背景)


<読者の人から、新しい観点からのコメントを頂いた。木庵は韓国は国際司法での決着は逃げているものと思っていた。そうではない、準備をしているとは。この観点も頭においておかなければならない。木庵>
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国際司法に提訴した時に国際世論が韓国に好意的になるように、韓国はいまから準備しているわけで、世論が一方的にならないうちに日本は国際世論に訴える必要性を感じます。
韓国カルチャーセンターでも世界を回って運動しているグループの訴えがあり、観客からの我々は何が出来るかとの質問に対し、彼らの答えは独島は韓国の物であるという事をみんなに知らせて欲しいと言うものでした。味方を増やすという事です。
TS拝
<また違った読者から看板位置を教えてもらった。木庵>
19445 E.Walnuts Dr., N.,City of Industry, CA 91789 (看板位置)

<看板掲載主が経営するスパの名前、そしてそこのウエッブサイトまで教えてくれた読者の人がいた。情報化時代そのものである。韓国が世界に「竹島は韓国のものある」と宣伝するなら、我々もそれを超える宣伝活動をしなければならない。木庵>

看板掲載主・アレックス・ジョー氏のスパはDiamond family spaと言い、こちらがウェブサイトです。

<世界への宣伝活動をする前に、竹島の歴史的な帰属について、しっかり勉強しなければならない。「『竹島』その歴史と領土問題」。著者:下條正男。発行:竹島・歩法領土返還要求運動島根県民会議。2005年(平成17年)3月19日発行」を主な資料とする。とても失礼なことだが、日本のどなたかからこの本は送ってもらったのだが、細かく読んでいなかった。今頃になってしっかり読み、その内容をブログで書く気持ちになったのは、ロスでの「独島は韓国の領土である」の看板が立ち、「ここまで来たか」という危機感というか、「もうこれ以上、放ってはおけない」という、日本人の血が騒ぎ始めたためである。木庵>

竹島問題


  竹島は島根県松江から220km、韓国の東海岸の都市、蔚珍から215kmにある絶海の孤島である。日本では島根県隠岐の島町に属し、韓国では慶尚’北道鬱陵郡の行政管轄下に置かれている。竹島の韓国側での呼称は、独島である。
  竹島が日韓の係争問題に発展したのは、1952年、1月18日、当時の韓国大統領李承晩が、公海上に「李承晩ライン」を宣言し、その中に竹島を含めたためである。明治38年(1905年)1月28日、明治政府は閣議決定で、竹島を日本領に編入させた。そのとき、「他国ニ於イテ之ヲ占領シタリト認ムベキ形跡」がないことを確認し、「国際法上占領ノ事実アルモノト認メ」て、島根県の隠岐の島司の所管となった。
  ところが日本が大東亜戦争に負け、昭和21年1月。GHQは暫定的な措置として、日本と朝鮮領とを区別するため、「訓令第677号」を発布し、その中で竹島(独島)は朝鮮領に含められた。これは韓国にとって、重大な意味があった。
   昭和29年(1954年)10月28日付け韓国政府の覚書の中で。「独島は日本の侵略の犠牲となった、最初の韓国領土」としている。韓国側の歴史認識では、日露戦争の最中の明治38年(1905年)1月、日本政府が竹島を島根県に編入した事実を、日本による侵略的な領土編入としているのである。しかしその竹島は、今も韓国の海岸警備隊によって、占拠されたままである。「李承晩ライン」をきっかけに浮上した竹島問題は、昭和29年9月、韓国の国会決議によって。ついに韓国側による武力占拠にまで発展した。
  竹島は東島と西島、それに30あまりの岩礁からなる小さな島は、日韓関係にとって大きな障害となるに至った。日韓双方は昭和27年以来、半世紀以上も争ったまま、解決の糸口すら見出せないでいる。
  そればかりか日本側が竹島問題に言及すると、韓国側では日本の「領土的野心」や「軍国主義の復活」とみなし、日韓双方はそのつど感情的な対立を繰り返してきた。

  そのため日本の一部には、竹島の領有権をめぐって日韓が争う意味はどこにあるのか、竹島を共有して、仲良くすればよいといった意見もある。さらには韓国側の主張に同調し、竹島の島根県編入は、日本により侵略行為であったという研究者たちもいる。

  だが、韓国側の竹島(独島)問題に対する関心の持ち方は、日本側とは違っている。韓国の人々にとっての竹島問題は、かつて日本に奪われたとする民族的感情を傷つける自尊心の問題と捉えているからだ。日本側が竹島に関連した発言をすると、韓国側では「妄言」として猛烈に反発するのは、そこに理由がある。この日韓の姿勢の違いこそが、日韓相互の歩み寄りをますます難しいものとしてきた元凶なのである。


国交正常化交渉の場でも(1952年より)   


「李承晩ライン」の宣言に続いて、1952年2月から始まった日韓の国交正常化交渉の場でも、竹島問題がからみ日韓の感情的対立が露呈した。交渉に行き詰った韓国側の金鍾泌氏は「竹島を爆破してしまえ」と発言するほど、竹島問題が正常化交渉の障害となった。


日韓基本条約(竹島問題は棚上げにされたまま)

  
 戦後の日韓関係にとって、竹島問題は、確実に善隣関係を損ねてきた。そしてその状況は、今も変わっていない。日韓の正常化交渉の結果、1965年6月に「日韓基本条約」が締結された。しかし、竹島問題は棚上げにされたままである。


竹島の武力占拠(韓国側による)

    
棚上げされているはずであるが、韓国側は強硬姿勢をとり続けた。1954年以来、竹島を武力占拠していただけでなく、灯台の設置や切手の発行、近年では接岸施設の建設や有人灯台の設置などに努めるなどをとっている。それに加えて、#1、#2でも述べたように、海外での「独島は韓国領」であるという宣伝活動を個人の名義(裏には政府が絡んでいるのかもしれない。政府が絡む必要はないだろう。というのは、竹島問題は国民感情であるから)でおこなっている。

日本人の反応

   
これほど竹島は韓国の国民感情にまでなっているのに、日本ではどこか冷ややかな反応というか、無関心の人が多い。それも歴史的背景にまで関心を寄せる人が少ない。勿論、韓国の人も歴史的関心など持っているわけではない。だから、韓国人が感情的に「独島はわが領土」と叫んでいるのに対して、日本人の反応は感情論の反発だけで、冷静に歴史的事実から反論できる人は少ない。
  また、日本国家として、当然韓国側の「妄言」、「侵略主義の復活」という日本への非難に対して、毅然とした態度で対処していかなければいけないが、悲しいかな現状の日本政府の対応の仕方は満足するものではない。これは日本が敗戦の後いまだに国家としての未成熟な状態が続いている証拠である。

竹島が日韓の係争の地となった発端

  竹島が日韓の係争の地となったのは、1952年1月18日、韓国政府が公海上に「李承晩ライン」を宣言して、竹島をその中に含めたからである。
 大東亜大戦で敗戦国となった日本は、アメリカの占領統治を受けるようになり、1945年9月6日にはアメリカの対日政策が発表された。その中で「日本の主権は本州・北海道・九州・四国の四大島に限られ」ていた。竹島はその時、日本の主権の及ぶ範囲の中には含まれていなかったのである。
さらに1946年1月29日に公布された連合国軍総司令部の「訓令第677号」では、鬱陵島や済州島とともに竹島は朝鮮領と明記され、日本領から除外された。




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  • 最終更新:2010-05-26 18:03:49

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