木庵先生#04

竹島問題#4(読者の声と「李承晩ライン」宣言の背景) 


<読者の声>

木庵先生
お早うございます。
いつもメイルありがとうございます。
木庵先生の広範囲の知識、意見を拝見し、しばしばクスッと同感しています。
竹島の広告の件は日刊「サン」で知りました。
私は現在住んでいるところが、いつか、いや近い将来リトルソウルタワーと改名されるのでは、と思っております。
I より

<日刊「サン」とは、ロスのスーパーやホテルなどで手に入る無料スポーツ紙である。Iさんが住んでおられるところは、リトル東京タワーという年輩の方専用のアパートである。8階ほどの高さのビルディングで、相当数の日系人が住める住宅であった。ところが近頃韓国人がどんどん入居してくるという。日系人がこのアパート建設に尽力したが、アメリカ連邦政府(?)の管轄であるので、韓国人であっても入居の権利はある。韓国人にとって、コリアンタウンがあり、そのあたりだと、韓国系店舗があり、便利だと思うのだが、リトル東京が韓国人の進出により、リトル東京も居住地として選んでいるというわけである。木庵>
沖縄での基地反対の報道はされていますが、本当に県民全体の思いなんだろうかと感じています。マスコミに惑わされるのが国民の弱さなんですね。基地があって守られてきた国の国民は、危機感も殆どなくなり、竹島の問題も、殆ど放映されていません。基地を無くするのなら、国の防衛力を高めてからですよね。

この写真が一番好きな写真です(^-^)v。
2010/4/27(火) 午後 0:48


kayomiさん、日本のマスメディアは偏向しています。それより、事実を正しく伝える気持ちがないようです。大手の新聞(特に朝日)を読むのは教養人のしるしであるという時代は終わったと思います。今は読まない、もしくは読んでも書かれていることを信じないというのが、教養人の条件でしょう。竹島問題はやはりあまり報道されませんか。<基地を無くするのなら、国の防衛力を高めてからですよね>。尤もな意見だと思います。木庵
2010/4/27(火) 午後 5:17 [ 木庵 ]


「訓令第677号」=「マッカーサーライン」


  連合国軍総司令部の「訓令第677号」が具体的に示されたのが、1946年6月22日付けの連合国軍最高司令部指令「第1033号」である。そこでは「日本の船舶及び乗組員は北緯37度15分、東経131度53分にある竹島の12浬以内への接近が禁じられ」ていた。だが当時、日本船舶が外洋を航行できなかったのは、何も竹島周辺に限ったことではなかった。占領された当初、日本の船舶は外洋での運航が一切禁止されていたからだ、しかし戦後の食糧難の時代、近海の魚介類は貴重な蛋白資源であった。日本の漁民たちと日本政府の要請によって1945年9月27日、まず第一回目の海上操業区域の指定がなされ、日本近海での漁労が許可された。このとき、操業区域の制限の境界線は、朝鮮半島と日本の間にも引かれた。その境界線はマッカーサーの名に因んで「マッカーサーライン」と呼ばれ、竹島は「マッカーサーライン」によっても朝鮮側に含まれていた。
  「マッカーサーライン」はその後、「サンフランシスコ講和条約」が発行する直前まで効力を持ち、1952年4月25日になってようやく廃止された。


「李承晩ライン」宣言の背景 

  マッカーサーライン」の廃止は、韓国側にとって深刻な事態であった。韓国と日本の間に境界線がなくなれば、戦前のように朝鮮半島の近海で操業する日本漁船が増え、韓国漁民は大打撃を受けることが予想された。ここに韓国政府が漁業資源の確保を謳って「李承晩ライン」を宣言し、公海上に海洋主権を主張することになった理由がある。
  この「李承晩ライン」の中には、1905年以来、日本の領土となっていた竹島も含まれていた。


サンフランシスコ講和条約に至るまでの韓国側の思惑

   韓国政府は「なぜ『李承晩ライン』の中に竹島を含めたのだろうか」。それには、日本が国際社会に復帰するための「サンフランシスコ講和条約」が成立する過程で、竹島が日本領に復帰していたからである。
  1947年3月20日付の「サンフランシスコ講和条約」の第一次草案や、1947年8月5日付けの第二次草案でも、「日本の主権は、本州・北海道・九州・四国の諸島と今後決定される周囲の小島に限定され」、竹島は朝鮮の領土として確認されていた。それは第三次から第五次までの草案でも同じであった。
  その間、朝鮮半島では鬱陵島と竹島(独島)に対する学術調査が実施され、1947年8月16日には韓国山岳会主催による第一次学術調査団が竹島(独島)に派遣された。
   一方、日本政府は、「サンフランシスコ講和条約」の草案で竹島が朝鮮領とされていることに危惧を抱いた。そこで日本政府が、竹島は日本領であると主張したことから、改めて草案が検討されることになった。
   その結果、第六次草案では朝鮮領から竹島の名が消え、代わりに朝鮮半島の南端にある巨文島が加えられた。朝鮮領に帰属する地域を明記した「サンフランシスコ講和条約」の第二条A項では、「済州島・巨文島・鬱陵島」と変更された。
   この時、駐米韓国大使の梁裕燦は、竹島を朝鮮領とするようにアメリカ政府に働きかけたが、その試みは失敗に終わった。竹島はその時点で、日本領に帰属することが決まった。


駐米韓国大使の梁裕燦の動き

  日韓の国交正常化交渉の際、第五次の韓国側代表を務めた愈(―「心」、「前」の、右下は「く」が二つ重なる形)鎮午は朝鮮動乱で避難中の韓国の著名な歴史学者崔南善を訪ね、対馬島の韓国の領有権を主張できるかと尋ねた。ところが崔南善は首を横に振ったという。その代わり済州島の南方に、波浪と言う島があることを言った。鎮午は、領土が拡大できると考え、これを李承晩に報告したという。
   その結果、韓国政府は波浪島の領有権を主張し、対馬島の領有権も主張することになった。そこで駐米韓国大使の梁裕燦は、対馬島を朝鮮領とするようにアメリカ側に働きかけることにしたという。しかし波浪島の存在は確認されず、対馬島の領有権に対する韓国政府の主張も、取り上げられることはなかった。



  竹島の領有権を主張する韓国政府の根拠は、崔南善の見解によるものであった。#5では、崔南善が示す歴史的根拠について書く。



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  • 最終更新:2010-05-26 18:44:00

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