木庵先生#07

竹島問題#7(安龍福とは何者なのか)
 

安龍福とは何者なのか


鬱陵島は韓国領、竹島は日本領


 「安龍福とは何者なのか」を述べる前に、鬱陵島は間違いなく朝鮮領であることを確認しておく(竹島は日本領)。しかし、鬱陵島を日本領であるような誤解を受ける記述がある。それは松江藩の斎藤豊仙が著した『隠州視聴合記』の中にある。そこには鬱陵島、竹島のことが次のように記されている。
「隠州は北海に在り・・・戌亥の間、行くこと二日一夜にして松島有り。又一日の程にして竹島(註釈:俗に磯竹島=現在の鬱陵島)。此の二島、無人の地。高麗-を見ること雲州より隠岐を望むが如し。然らば即ち日本の乾の地、此ノ州を以って限りと為す。」
 斎藤豊仙は、現在の鬱陵島(磯竹島)と竹島(松島)を日本の西北限の領土と認識していたのである。しかし、鬱陵島は朝鮮の領土であった。朝鮮時代の15世紀に編纂された『東国與地勝覧』では、鬱陵島は江原道蔚珍県に属すことが明記されている。にもかかわらず斎藤豊仙はなぜ日本領と認識していたのであろうか。
  その訳は、朝鮮政府が朝鮮国民を鬱陵島に定住させなかったためである。鬱陵島の島民が倭寇に扮して朝鮮対岸を襲ったことがあった。そのため、自国民の居住を禁止した。韓国側ではこれを「空島政策」と呼んでいる。
 無人状態の鬱陵島に日本人が渡り、定期的な漁労活動をするようになったのは江戸時代になってからである。廻船問屋の大谷甚吉が新潟から米子に向かう途中、遭難して鬱陵島に漂着し、そこが資源豊かな無人島であることを発見したことが端緒であった。
 その後、米子の大谷家と村川家が江戸幕府から渡海が許され、それ以後、両家が輪番で鬱陵島に出漁することになった。その際、大谷甚吉は「領土を広げたとして褒められ」葵紋の船印と将軍へのお目通りを許されるようになった。以来、将軍とのお目通りは恒例となり、その際は、鬱陵島で得た乾し鮑(あわび)等が献上されることになった。
 大谷家と村川家が鬱陵島に渡るため米子の港を出港するのは、毎年2月頃であった。4月から7月にかけ、海驢(あしか)の繁殖期にあわせて出漁していた。鬱陵島に渡る船は二百石積みの帆船で、米子を出帆した。
 鬱陵島は天和年間から米子から毎年3月から7月にかけて、漁場として使っていた、だが、鬱陵島は空島政策が取られ、朝鮮から渡るものがいなくても朝鮮の領土であった。朝鮮と日本との間に摩擦が生じ、帰属問題に発展するのは時間の問題であった。


鬱陵島渡海と朝鮮漁民との遭遇【元禄5年(1693年)】


  鳥取藩米子の大谷、村川両家による鬱陵島での漁猟は、寛文6年に遭難した以後も、朝鮮の漁民たちと遭遇することなく続いていた。ところが元禄5年(1693年)3月の鬱陵島の様子は違っていた。この年は村川市兵衛の年番であった。3月27日、浜田浦(現在の道洞―鬱陵島の中にある)に向かって船を漕いでいくと、そこには異国船二隻が見えた。一隻は居船で、もう一隻は浮舟であった。浮舟には30人ほどが乗りこみ、こちらの方に近づいてきたが、船は大坂浦(現在の苧洞―道洞の隣)の方へ行ってしまった。浜田浦の浜には二人の異国人がおり、小船で近づいてきた。そこで船に呼びかけ、こちらの船に無理に乗り移らせ、「どこの国から来たのか」と尋ねると、「我らは朝鮮国の内、カワテンカワグ(江原道か?)の者」と答えた。
  村川家の船頭らは、「元来この竹島(鬱陵島)は、大日本国の将軍様から拝領し、長年にわたって渡海している島である。それがお前たちのような毛唐人がみだりに渡来して、われわれの漁業を妨げるのは前代未聞、許されることではない。一刻も早く立ち去りなさい」と、強く責めたてたところ、朝鮮側からは次のような返答があった。
「これより北に一つの小島がある。わが国王から我等に命令あり、三年に一度、その島に渡って鰒(あわび)を採って来いとのことで、それは恒例となっている。今春も海を渡ろうと二月二十一日、仲間の船数十艘とともに朝鮮を出帆したが、途中で大風に遭い、そのうちの五艘の五十三人が三月二十三日、やっとのことでこの島に漂着した。海岸をよく見ると鰒がたくさん見えたので、これ幸いと今に至るまで滞舶して、漁業をしている。それに遭難した際、船が少々破損したので修理をしているところだ。修理が済めば急いで帰航するつもりだ。あなた達も早く着岸したらどうだ」
 そうは言っても、相手側は村川側の2倍以上はいる。不審に思いつつも、上陸した。あちこち調べたところ、去年の秋、小屋に保管していた猟船8艘と漁猟の道具などが紛失していた。
「猟船や漁具はどうしたのだ」と朝鮮側に詰問すると、
「我等の仲間が浦々に乗り回し、漁猟に使っている。まあいいじゃないか上陸しなさいよ」と。穏やかに応対するので、ますます真意を計りかねた。
  村川家の漁師たちは、二人の朝鮮人を上陸させると、朝鮮の漁民が作った串鰒少しと笠一蓋、網頭巾一筒。味噌麺一魂を朝鮮人と遭遇した証とし、その日の午後4時、鬱陵島を離れた。
大谷家が安龍福と、朴於屯を日本に連れて帰る【元禄6年(1694年)】
   翌年元禄6年(1694年)は大谷家が出漁の番であった。3月16日大谷家の船は鬱陵島に向けて隠岐島の福浦から出帆した。この年も朝鮮の漁民が来ている可能性があると考え、島に上陸して調べると、すでに鮑や若布がたくさん干されていて、破れた草履が脱ぎ捨ててあった。そして、10人ほどの朝鮮の漁民が漁をしているのを発見した。その中の日本語が出来る者が言うには、「自分は朝鮮国慶尚道東菜県の者で、名はアンピシャ、都市は四十二歳。もう一人は蔚山の人で、トラヘと言い、年齢は三十四歳だ」という。
「上官から鮑捕りを命じられたが、どこの島とも指示を受けなかったので、昨年この島に漂着した者が、おびただしい鮑と若布を持ち帰っているので、この島に渡ることにした。三月二十七日に釜山港を出帆し、その夜に着船した」と言う。
  では「他に一緒に来た船はあるか」、と尋ねると、「三隻の船に分乗して、都合四十二人が着帆した。四十二人の内、四人は去年も渡海した者だ」と言う。
  去年渡海した者がいたということを聞き、大谷家の船頭達は深刻にならざるを得なかった。昨年、鬱陵島に渡った朝鮮人に対し、鬱陵島に渡らないよう厳しく注意しておいたと聞いたが、また渡海し、邪魔をしているからだ。このまま放置しておけば、鬱陵島は奪われてしまうと思い、二人を日本に連れて帰ることにした。この二人が韓国の歴史教科書にも登場する安龍福と、朴於屯である。
安龍福が見たという「頗る大きな」島とは
  その後、安龍福と、朴於屯は米子に連れて行かれた。だが鬱陵島から隠岐島に渡る途中、二人は異なる体験をした。船酔いが酷い朴於屯は、船倉で横になっていたが、安龍福だけは、「一夜を経て、翌日(十九日)の晩食後」、鬱陵島より「頗る大きな」島を目撃していたからである。安龍福は「頗る大きな」島がよほど気になったらしく、朝鮮側に送還されると、その島の存在を頻りに主張したと言う。
  安龍福等を取り調べた備辺司(国境問題等を管轄する役所)がまとめた『辺例集要』によると、そのとき、調査官は「大きな島」の存在を何度も安龍福に確認し、朴於屯にも問い質していた。だが朴於屯は「さらに他島なし」と答え、「頗る大きな」島の存在を否定した。
  安龍福が「頗る大きな」島に固執したのには理由があった。後述するように、鬱陵島に初めて渡った安龍福は、滞留中に二度、鬱陵島の北東に「大きな島」を目撃し、そこまでの距離を「一日の道程」とみていたからである。島の名前は一緒に渡った者に聞くと、干山島であるという。
安龍福密航(鳥取藩を訴えるため)(元禄9年5月)
  元禄9年5月、安龍福等一行が、願いの義があるとして、隠岐島に密航してきた。隠岐島に着岸した安龍福は、松江藩の役人に鳥取藩に訴訟(鬱陵島と干山島を朝鮮領であるという訴え)のためやってきたと伝えた。そして6月、鳥取藩の赤碕灘にその姿を現した(松江藩での様子は後に書く)。安龍福が密航までしてこのような唐突な行動に出るに至る伏線は、安龍福と、朴於屯が米子に連れて行かれた以後の、鳥取藩での体験の中にあった。


安龍福の鳥取藩での体験【元禄6年(1694年)】

#8に続く


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  • 最終更新:2010-05-26 20:17:26

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