木庵先生#09

竹島問題#9(安龍福の虚言癖) 

鬱陵島争界


 鬱陵島から安龍福と朴於屯を連れ帰った事件は、やがて対馬藩と朝鮮政府との間に、熾烈な領土争いを展開させる契機となった。鳥取藩からの急報に接した江戸幕府は安龍福等を朝鮮に送還され、越境侵犯の事実を朝鮮側に抗議するよう。対馬藩に命じたからである。 ‘
  その経緯について日本側の色々な記録に詳細に書かれている。江戸幕府によって編纂された『通航一覧』、対馬藩で編纂された『対馬記事』や『朝鮮通交大紀』などの記述はその例であるが、ここでは、対馬藩が安龍福と朴於屯の二人を朝鮮に送還する際、使臣として彼らと朝鮮まで同行した多田与左衛門が携えた対馬藩藩主宗義倫の朝鮮政府に宛てた国書を紹介する。
「このころ、帰国の漁民が我が国の竹島(鬱陵島)に渡り、密かに漁栽をしている。ここは朝鮮の魚民が来るべき場所ではない。それ故、地方の者が詳しく説明し、二度とやって来ないように厳しく伝え、朝鮮の漁民たちを島から立ち退かせた。
  ところが今春になり、国禁を犯して漁民四拾余人が竹島に来て、漁労活動をしている。そこで漁民二人を拘留し、越境の証拠として鳥取藩に訴え出た。鳥取藩では事情を調査し、江戸幕府に報告した、幕府は我が対馬藩に二人の漁民を送り、朝鮮本土に送還し、今後、決して竹島には漁船を入れないよう、朝鮮側に対処を求めよとのことであった。我が藩としては幕府からの命を受け、これを貴国に報知するものである。」
  この国書は対馬藩が長崎奉行所内で取り調べたものが元になっている。取り締まりの結果は「朝鮮人口上書」として、対馬藩から長崎奉行所に提出されている。その中で安龍福は鬱陵島に渡った目的を次のように供述している。
  朝鮮国慶尚道の内、釜山浦の安ヨクホキ(安龍福)、蔚山の朴トラヒ(朴於屯)は、竹嶋(鬱陵島)で「鮑、和布かせぎ」をするため、・・・鬱陵島に向かった。竹嶋に渡ったのは、常々竹嶋には鮑、和布が大分あると聞いていたからで、今回、鮑捕りに来た島は、朝鮮では「ムルグセム」(武陵島)と呼ぶ島である。
  安龍福は鬱陵島に渡った目的を、「鮑、和布かせぎ」と供述していたのである。この安龍福の証言は、鬱陵島で大谷家の船頭等に遭遇した際、「官命によって鮑採りに来た」と語った内容とも違っていた。安龍福の虚言癖は、その後も周辺の人々を翻弄することになる。
安龍福の虚言癖
  朝鮮に送還され、朝鮮政府の事情聴衆を受けた際も、安龍福は虚言癖の証言をしている。
「租二十五石。銀子九両三銭等の物を載持して魚を買わんとす。蔚珍より三(阝+歩)に向かう際、風に漂い所謂竹島に到泊す」
  安龍福は、魚を買うため蔚珍より三(阝+歩)に向かった際、風に流され、不可抗力で鬱陵島に漂着した、と証言したのである。
  その時々で証言の内容を変える安龍福の性癖は、後世を惑わす元凶となってしまう。
だが、安龍福が送還された当時、安龍福の性癖は表面化することはなかった。それは、朝鮮政府が協調的な外交姿勢をとっていたからである。
  朝鮮側が協調的な姿勢を見せたのは、穏健派が政権の座にいたことと関係する。長く空島政策を採られた鬱陵島は、朝鮮では「放棄された島」であった。朝鮮政府としては、領土問題で日本側と争う意思はなかった。しかし鬱陵島は朝鮮の島であることを、対馬藩の意見を受け入れながら、返書には次の一文を入れている。
「幣邦の海禁至って厳。東濱の海漁の民を制して、外洋に出ずるを得ざらしむ。幣邦の鬱陵島といえども、亦遼遠の故を以て、切に任意の往来を許さず。況やその外をや」
  この返書の中の「幣邦の鬱陵島」(幣邦之鬱陵島)と書かれていることが、使臣多田与左衛門にとって返書の受け取りを拒否する理由であった。鬱陵島は竹島の朝鮮側の呼称であり、「幣邦之鬱陵島」と記されると、日本側が無理やり朝鮮から鬱陵島を奪おうとしたことになる。それでは朝鮮側に越境侵犯の抗議を命じた江戸幕府の立場が悪くなる。だが多田与左衛門は、朝鮮側の通訳官の勧めに従い、返書を受け取ることにした。朝鮮側の通訳官はその時、「鬱陵島には三つの島がある。一つを鬱陵島とし、他の一つを竹島とすれば、朝鮮側も日本側も名目が立つ」、それに朝鮮は空島政策を採っており、朝鮮漁民の渡海を厳禁すれば日本漁民とは接触せず、衝突も起こらない。多田与左衛門は通訳官の意見を容れ、元禄7年2月22日、返書を持ち帰ることにした。
   返書に対する対馬藩の重臣たちの意見も、「幣邦之鬱陵島」の文字を削るように求めることにした。
  しかし対馬藩で「幣邦之鬱陵島」の文字を巡って議論がなされていた間に、朝鮮では政変がおこり、穏健派が失脚して、新たに台頭したのは、強硬派であった。そして、強硬派が強硬な外交姿勢に転じたのは、朴於屯の家族が蔚山郡庁に「漁のため鬱陵島に渡ったが、日本人がいて、二人を連れ去った」と、証言したことからである。この朴於屯の家族の訴えにより、安龍福と朴於屯が捕まったのは、日本の竹嶋ではなく朝鮮領の鬱陵島であったことが明白となり、彼らは、対馬藩が主張するように、日本を侵犯した罪人ではなく、日本の漁民によって拉致された被害者であったからだ。ここで朝鮮政府は、対馬藩との外交交渉で優位に立つことができたのである。‘
  事実、その後の対馬藩は、朝鮮側との交渉では苦境に立たされることになる。朝鮮側は、対馬藩が越境を主張する竹嶋は、朝鮮領の鬱陵島であったこと、領海侵犯の罪人とされた安龍福と朴於屯は逆に被害者であったとし、それらはいずれも対馬藩の陰謀から生まれたとものとして難詰したのである。使臣の多田与左衛門は必死に反論した。対馬藩は江戸幕府の指示を受け、朝鮮側との交渉に臨んでいた。
  そこで、多田与左衛門は4項目なる質問状を朝鮮側に送り、反撃を加えた。この多田与左衛門の質問状に対して、朝鮮側から回答が届いたのは、元禄8年6月12日、帰国のため釜山沖合いの絶影島に停泊していた時であった。だが朝鮮側からの回答は、多田与左衛門が求めていたのとは違っていた。そして、多田与左衛門は即日、書簡を朝側に送って、帰国してしまった。
  朝鮮側では多田与左衛門の書状が最後通牒と映り、「文禄の役の再来」として恐れた。だが、それは朝鮮側の杞憂に終わった。多田与左衛門が朝鮮に渡っていた間に、藩主の宗義倫が24歳の若さで死去し、藩論が変更していたからである。対馬藩では若き藩主の死を契機とし、竹島が朝鮮の鬱陵島である以上、領有権を主張するべきではない、と判断するようになっていたからである。そこで対馬藩では、家督を継いだ新藩主が参勤交代で上京するのを機に、新藩主の後見人となった宗義智が幕府に対し、竹島の領有権をめぐる朝鮮政府との交渉を中断するよう建議したのである。
  この時、江戸幕府が下した判断は、「朝鮮側から奪ったものではないから、これを返すと言うのはおかしい、こちらで渡海を禁ずればよい」とするものであった。この鬱陵島への渡海禁止措置は、元禄9年(1696年)1月18日付の文書で鳥取藩にも伝えれている。朝鮮政府と対馬藩の間で争われた鬱陵島争界は、こうして、一段がついたのである。



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  • 最終更新:2010-05-27 02:06:44

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