木庵先生#10

竹島問題#10(M1さんが撮られた看板) 
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<M1さんから、「独島は韓国領」の看板の位置と、写真が送れれてきた。木庵>
木庵先生

今日、用事がありまして Hacienda Heights(木庵註:このあたりは、韓国人、台湾人、中国人が多く住んでいる。韓国系のスーパーやレストランがもあり、コリアンタウンあたりより、こちらの方が高級地)に行きましたら、途中偶然例の「独島は韓国領」の看板が目に入りました。一度引き返して、再度走りなおして運転しながら携帯で写真撮りました。

看板に Diamond Family Spa とありまして、その場所でsapを経営しているのだと思います。


Google mapを添付しますのでクリックしてみて下さい。

Irvine(木庵註:エンジェルスの球場があるアナハイムの近く)からですと I-57 Northから 60 West (LA方面)に乗り換えて暫く走った右側に見えます。

結構、目立ちますね。

M1

対馬藩の陰謀説(朝鮮政府が信じた)


  鬱陵島への渡海禁止措置の事実が朝鮮政府に伝わったのは、『粛宗実録』によると粛宗24年(1697年)正月のことであった。伝えたのは新藩主の就任を祝うため、朝鮮から対馬に派遣されていた二人の通訳官であった。
  二人の通訳官は、江戸幕府が鬱陵島への渡海を禁じたのは、対馬藩の建議によって実現した事実を伝えたが、朝鮮政府は通訳官達の復命を信じなかった。むしろ朝鮮政府の理解は、事実とは全く逆であった。対馬藩の建議で鬱陵島問題が解決したとする報告を、朝鮮政府は江戸幕府に無断で鬱陵島を奪おうとした対馬藩の陰謀が暴かれ、その失敗を揉み消すための詭弁と受け止めたのである。この時、朝鮮政府が詭弁と判断したのには理由があった。
  通訳官たちによってなされた復命は、韓国の歴史教科書で「日本に渡って、鬱陵島と独島を韓国領とした」と記述される安龍福の密航事件の後だったからである。ではその安龍福は、日本に密航し、どのような証言を残したのだろうか。

安龍福の帰還とその証言


  元禄9年5月、安龍福等一行11名が、「願いの儀」があるとして、隠岐島に密航してきた。隠岐島に密航した安龍福は、松江藩の役人に鳥取藩に訴訟のためやってきたと伝えている。その後、鳥取藩の赤碕灘にその姿を現している。
  後年、安龍福が証言したところによると、日本に渡った目的は、鬱陵島と干山島が朝鮮領であることを鳥取藩に訴えるためであったという。だが、その5ヶ月ほど前の1月18日、江戸幕府は、鳥取藩に対し、鬱陵島への渡海を禁じていた。それはその前年、参勤交代の際に、対馬藩が幕府に鬱陵島は朝鮮領であることを申し出ていたからである。
  ところが現行の韓国の歴史教科書では、この鬱陵島への渡海禁止の背景を、次のように記述している。
  鬱陵島で漁労活動をしていた安龍福が、鬱陵島を「往来する日本の漁民たちを追い払い、日本に渡って獨島が我が国の領土であることを確認した」という内容である。ここで大事なことは、対馬藩と朝鮮政府が領土問題で争ったのは鬱陵島だけで、獨島(竹島)は問題にもされていない。ところが安龍福の証言によって、獨島も朝鮮領ということになってしまったのである。安龍福は朝鮮に帰還後、朝鮮側の取調べに対して、「鳥取藩が認めた」と証言している。
  6月2日に、赤碕に出現した時、安龍福の船には「朝鬱両島監税将臣安同知騎」と「朝鮮国王安同知乗舟」と記された船印がはためいていた。「朝鬱両島監税将臣」などとあることから見て、安龍福は自ら朝鮮の使臣であることを僭称(せんしょう)し、密航してきたことが分る。もちろん朝鮮には「朝鬱両島監税将」などという官職は存在していない。

  この「朝鬱両島」とは何を指しているのか。日本側の文献では明確ではないが、『粛宗実録』では、安龍福が、「鬱陵干山両島監税」と仮称したと証言している。鳥取藩に密航してきた安龍福は、朝鮮の鬱陵島と干山島の租税徴収官とでも言いたかったのだろう。だが、鬱陵島と干山島には徴税を対象となる人々は居住しておらず、偽りの官職であったことは明らかである。

  鳥取藩は、安龍福に翻弄されることになる。
  鳥取藩に対する幕府の裁定は、安龍福等を対馬藩に引き渡すか、訴訟を受けずに送還せよというもので、時を同じくして対馬藩から通詞が鳥取藩に向けて派遣された。
  江戸幕府が編纂した『通航一覧』によると、「朝鮮人十一人因幡州に来り、事を東武に以ってせしに、鈞命して是を逐回され」たとしており、「因府年表」には、「賀露灘にてこの船追い返しに相成」った、と記録されている。
  鳥取藩に密航してきた安龍福は、結局、鳥取藩主と交渉することも、鬱陵島と干山島を朝鮮領にすることもないまま、追い返されていた。安龍福の「願いの偽」は、聞き届けられることはなかった。
  安龍福等が朝鮮に戻ったのは、8月下旬、安龍福等は襄陽県の県境に着船し、地方官の沈枰に「船に乗って鬱陵島に往き、日本の鳥取藩に転入して倭人と訴訟事件を起こした後、襄陽県に帰還した」と告げていた。沈枰はそれを中央政府に報告すると、中央からは安龍福等を京師(現在のソウル)に送還するよう命じれれ、中央政府の備邊司で取り調べが行われた。
  だが朝鮮に戻った安龍福の供述は、衝撃的なものであった。安龍福は「鳥取藩主が鬱陵島と干山島は朝鮮領であると認めた」と偽りの証言をしたからだ。
  そのときの安龍福の証言は、『粛宗実録』の粛宗22年(1696年)9月戌寅条に収載されており、ほぼその全容を窺う事が出来る。かなり長文となるが、安龍福の証言の重要な部分を#11で引用する。
  『粛宗実録』に収録された安龍福の証言は、その後、朝鮮時代を通じて歴史の事実とされ続けただけでなく、今日、韓国側が竹島の領有権を主張する歴史認識の原点になっている。
写真の説明:M1さんが撮られた「独島は韓国の領土」とアナウンスされた看板。このあたりは知っている。木庵のアパートから車で約30分ぐらいかかるところにある。


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  • 最終更新:2010-05-27 10:38:34

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