木庵先生#11

竹島問題#11【安龍福の証言、証言の分析、朝鮮人の精神構造】  

安龍福の証言(朝鮮政府に対して)


  私どもが鬱陵島に到着しますと、倭船が多くおりました。そこで私が「鬱陵島は朝鮮領だ。何故、倭人は我が領土を侵犯するのか。おまえ等縛ってしまうぞ」と、舳先に進んで大喝してやりますと、倭人どもが言いますのには、「我々はもともと松島に住んでおり、たまたま漁採のために来ただけでちょうど今、松島に帰ろうといているところだ」と答えました。そこで私は「松島は干山島だ。これも我が朝鮮の地だ。どうして住むことができよう」と言ってやりました。
  遂にその翌晩、舟を曳いて干山島に入りますと、倭人達は釜を列ねて魚膏を煮ている最中でした。そこで私は杖で撞き破り、大声で叱り付けてやりますと、倭人達はそそくさと辺りの物をまとめて船に載せ、帆を挙げて去っていきました。そこで追いかけたのですが、途中、狂風に遭って隠岐島に漂着しました。
  隠岐島では島主が入来の目的を尋ねますので、先に私がこの地に来た時、鬱陵、干山等の島を朝鮮側の境界とする関白(将軍のこと)の書付があったはずだが、それが徹底しないようで、今また、我が朝鮮の境界を犯すものがいる。これはどうしたことなのか。鳥取藩に取次ぐよう求めたが、返答が無かった。そこで憤慨した私は直ちに鳥取藩に向かい、「鬱陵干山両島監税」と仮称して、人を通じて鳥取藩に告げますと、鳥取藩では人馬を送ってむかえてくれました。
  私は駕籠に乗り、他の者は馬に乗って鳥取藩まで往きました。鳥取藩では藩主と対座し、諸人は中階に控えておりました。鳥取藩主は「何故、参ったのか」と聞きますので、「先に両島の事に関しては、書付を出したことは明白ではないか。だがその書付は対馬藩の藩主が奪い取り、朝鮮政府と江戸幕府の間にあって偽りの使臣をよこすのは、「言語道断」である。私としては関白(将軍)に上疏し、対馬藩の罪状を明白にしたいと思うと言いますと、鳥取藩主が許すと申しますので、ついに李仁成に書かせました。
  すると対馬藩主の父親が遣って来まして、懇ろに鳥取藩主に語りますには、「若しこの疏文が幕府に渡れば、我が子は必ず重い罪を得て死ぬことになる。どうか幕府には提出しないで欲しい」と言いますので、幕府には上申せず、その代わり前日、隠岐島に渡っていた15人は、捕らえられて処罰されました。
  そこで鳥取藩主が安龍福に言いますには、「隠岐島と干山島はすでに朝鮮領となったのであるから、再び越境する者や対馬藩が無理な要求をしてくれば、国書を作成し、通訳官を送ってよこせば重く罰してやろう」と申しまして、帰国に際しては食糧と護衛の使者をつけて下さると言ってくれたのですが、差障りがあると申しまして、お断りいたしました。
安龍福の証言の分析
  この証言の内、歴史的事実と言えるのは、安龍福が「鬱陵干山両島監税を僭称」したことと、「安龍福が駕籠に乗り、他の者が馬で鳥取の城下」に入ったことだけで、それ以外は、すべて偽証である。安龍福が鳥取藩に密航する5ヶ月前に元禄9年1月18日、すでに幕府は鬱陵島への渡海を禁じており、鬱陵島で鳥取藩の漁民達と遭遇することも、漁民達が処罰された事実はなかったからだ。さらに安龍福は「倭船が多くいた」と証言していた。だが鬱陵島に渡海する際、鳥取藩から大谷家に発給された往来手形では、一隻の船に船頭以下21人の乗船が認められていただけである。それに安龍福は、鬱陵島で遭遇した日本の漁民が「我々はもともと松島(竹島)に住んで」いると証言していた。だが竹島では飲料水の確保も難しく、人の定住は困難である。安龍福は、松島(竹島)がどんな島かも知らずに、松島を朝鮮領の干山島と思い込んでいたのである。事実、安龍福は「舟を曳いて入った」とする干山島の描写でも、その無知ぶりを示している。干山島では「釜を列ねて魚膏を煮ていた」と供述しているが、大谷家と村川家が海驢(あしか)から膏を採取していたのは鬱陵島である。
  岩礁に過ぎない竹島には、燃料となる薪がなく、釜を並べて魚膏を煮ることができる場所や舟を曳いて進める浜辺もない。干山島にも渡ったことのない安龍福は、松島を知らないまま「松島は干山島だ。これも我が朝鮮の地だ」、と偽りの証言をしたのである。
偽証もここまでくると、どう解釈してよいのだろうか
  安龍福の偽証は、それだけにとどまらなかった。 
  安龍福は、鳥取藩では藩主と対座し、そこに対馬藩主が父親が息子の命乞いをした藩主宗義倫は、その前年の元禄8年9月24日、24歳の若狭で疫没していた。安龍福が鳥取藩に密航した時は、宗義倫の父親である宗義真が藩主の後見役となり、参勤交代で江戸にいた。いずれも安龍福とは、接点が無かったのである。
  今日、韓国では、『粛宗実録』に抄録された安龍福の証言を歴史の事実とし、竹島の龍有権を主張する際には、安龍福が証言した「松島は干山島だ。これも我が朝鮮の地だ」が根拠となっているが、それには何ら信憑性が無かったのである。


韓国人の精神構造(木庵が考える)(前半)


<安龍福の偽証を歴史の根拠として、今も信じきっている韓国人の精神構造とは何なのだろうか。その分析をする前に、#8で書いた、安龍福が鬱陵島で密漁をしていたのを大谷家の船によって鳥取藩に連れてこられ、その後鳥取藩によって厚遇された記述をもう一度転載する。
  「 安龍福(アン・ヨンポク)の鳥取藩での体験【元禄6年(1694年)】
  安龍福等を載せた大谷家の船は22日、福浦を出港すると、途中、島前に立ち寄り、4月27日の午後2時頃、米子に帰港した。大谷家は、安龍福と朴於屯(パク・オドゥン)の二人を大谷九右衛門宅に留め、鳥取藩に急報した。鳥取藩は早飛脚をとばして江戸幕府に指示を仰いだ。江戸幕府はこの時、「朝鮮人には以来竹島(鬱陵島)に渡海しないよう申し含め」、安龍福と朴於屯を「長崎に送還するよう」鳥取藩に命じた。
  『池田家御櫓日記』によると、その間の安龍福は「気晴らしがしたい」などと言って騒ぎ、支給する酒は「昼夜に三升より上は無用」とされていた。岡島正義の『竹島考』では安龍福の性格を「猛悍強暴」と伝えており、長崎に送還される際、いったん鳥取城下に移された時も、「狼藉の挙動」が予想されたため婦女の外出が禁止されていた。安龍福と朴於屯を護送し、長崎には6月晦日に到達している。長崎までの20余日間、安龍福と朴於屯の二人は駕籠に乗り、医者や料理人を含めて、90名が隋行した。」
  文章を短くまとめるために省略した次の記述も加えておく。
  「道中での安龍福らは『所々でご馳走を仰せ付けられ』、「膳部一汁七・八菜程宛」の待遇を受けていた」
  安龍福は長崎での対馬藩での取調べ前は、鳥取藩によって「いたれりつくし」のもてなしをされている。ここのところが大事である。日本人ならよくしてもらえれば感謝する気持ちがある。ところが、朝鮮の漁民であった安龍福にとって、相手によくしてもらった時、相手の弱さを感じとるのである。この卑しい心はどうも、人間のある部分の本質としてあるようである。木庵はアパート経営をしだしてから、それを強く思うようになった。テナントのためと思い同情すると、それは木庵の弱さだと思い、よりエスカレートして甘えてくる。ある場合は同情によって得たものを既得権としてもちだし、よりひどい無茶(権利)を主張してくる。木庵の場合はそのようなことははじめから覚悟しているので、テナントの不合理な要求をある程度受け入れ、最終的に家主の権限は侵されないようにしているが(アメリカではテナントの権利がこれまでもあるかと思うところがあるが、最終的にはオーナーの方が法律的に強い立場にある)。日本人には「鶴の恩返し」という民話を深く感じる国民性を持っている。この恩を感じるという美徳をもつ日本人の精神構造は世界の中では希な存在であるようだ。特に朝鮮のことを考えると、「悲しいかな、いつも中国の属国として扱われ、国としての確固とした理念がない歴史を辿ってきた民族の中で、大衆が生き残るためには、奇麗事ではなく、己だけが大事であるという利己主義が蔓延している。そのような国民風土の中で育った、特にあつかましくも逞しい人間の代表が安龍福であった」、と木庵は思うのである。木庵>(字数の関係でこの後は#12へと続く)


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  • 最終更新:2010-05-27 02:10:13

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