独島妄言 1945年以前 COM


韓国人の「独島」妄言は戦後になってから0 1945年以降


終戦前は、安龍福は、史実通り、鬱陵島を守った人物として認識されている。
現在の竹島を守った人物としては認識されていない。
これが、終戦後は、安龍福が なぜか現在の竹島を守った人物として歪曲され始める。その理由は、1694 年以降の朝鮮の地誌等の「于山倭所謂松島」の記述を援用していると思われるが、
また、鬱 陵島北東部竹嶼の記録を、元竹島の記録と偽って韓国領有権主張に使い始めた経緯がここで分かる。このことは,Boussole rock(竹嶼)を、韓国のいくつかのサイトで、「独島」と歪曲説明していることに顕著に表れているし、このページのメインテーマである韓国側 の主張を見て行けば一目瞭然である。
また、「于 山(国)」は鬱陵島の古い旧名の事で 、于山島は竹嶼である事を朝 鮮人も認識していたが、
これを戦後、于山島は元竹島であるとの説明を開始する。

1920.03.18. 独立新聞 俄領實記(六) 「鬱島? 奪還?? 安龍福」

1922.08.01. 独立新聞 獨立? 同胞? 一體負責(一怒) 「七日痛哭?? 楚國? 回??? 安龍福? 一個通譯?? 倭國? 赴?? 鬱?島? 還完??? 個人??? 能爲??? 安定? 客地?? 夢囈? ??? 自盡??? ??? ?月? ?? 遷延? ?? 各其 固有? 義務? ?行????」
1922.8.1 独立新聞
獨立は同胞の一体負責

1922.8.1 独立新聞
獨立は同胞の一体負責(怪しい翻訳)

   我が満天下の韓国同胞よ、試みに問う。独立を喪失したのは誰であり、回復するのは誰であるか。喪失も各人の負責であり回復も各人の負責であるならば、堂 々たる我が任務を尽くすことが・・・・・・・(中略)・・・・・申包胥は秦廷に七日痛哭して楚國を回?し、安龍福は一個通譯として倭國へ赴き鬱?島を還完 したごとく、個人において爲す能うならば、安定した客地において夢のみ抱き自ら盡くそうとせず、?月を再び遷延することなく各其固有の義務を?行しようで はないか。
翻訳:茶阿弥氏




1922.「大韓民国」地図 (現竹島は、独立運動の地図で韓国に含まれない)

1926.05.01  李允宰「怪傑 安龍福 鬱陵島の外交紛争」



1926.06.01
李 允宰「快挙を安龍福(結束) (鬱陵島(ウルルンド)の外交紛争)

1928.09.01-9.12 東亜日報 島嶼巡視 鬱陵島方面(一~十一) 
1. 鬱陵島方面(一) 夢寐? ???? 于山國發見? 歡喜, ???? ??? ??? ?, 朝鮮? 極東 ??[寫](李吉用).

島嶼巡礼
1928年9月1日~9月12日 東亜日報連載 

鬱陵島方面(一) 1928.9.1

   夢に見た于山国発見の歓喜
  古き朝鮮の威厳を伝えるところ
  朝鮮の極東○○

  ・古い名前は于山国、今は鬱陵島
   ・噴火口が取り巻き、火山の島であることは明らか
  ・近来にまれな風浪、士官寝室の一夜
  ・怒涛を分けて進む、四方滄海に浮く
   ・茫々たる絶海○○、鬱島発見の歓喜


(本文の冒頭部分)
  時間にして一千四百余年の歴史を有し、空間としては朝鮮の 極東経度の限界となるところが、古い名前では于山国であり今は鬱陵島と呼ぶ、周囲百四十余里の小さくも大きくもない島だ。
翻訳:茶阿弥氏@dokdo or takeshima


2.鬱陵島方面(二) 猛獸毒蟲 ???? 彌勒山? 聖人峰, ??? ??? ?? ???? 鬱陵島? ??

島嶼巡礼  鬱陵島方面(二)

東亜日報 1928.9.2

猛 獣毒虫さえも寄せ付けない彌勒山と聖人峰
カクセと命の草を食べて生き抜いた話
鬱陵島に初めての一歩

・胸裏に 東海の朝陽、眼下に絶海の孤島
・島としては宗家格、気高万丈の鬱陵島
・なつかしい汽笛の音、島民には召集号令のよう
・聖人 峰に感化されたか猛獣独虫も見えず
・宝庫に凶年○○、「カクセ」で島民延命
翻訳:茶阿弥氏@dokdo or takeshima


3.鬱陵島方面(三) 新羅時最初領土 ??? 無人絶島 ???? ??? ?? 于山國?? 鬱島??

島嶼巡礼  鬱陵島方面(三)

東亜日報 1928.9.3

新 羅時に最初の領土、時には無人絶島
鬱陵島の悠久の来歴、于山国から鬱島まで

・朝鮮領土としての始まりは新羅智証王の時の征服
・異斯夫将軍の奇計、驚神泣鬼の征服談
・木獅子を乗せた戦艦を見て剽悍な島民も屈服
・女真国の侵略に百余年間無人島
・ 仁宗の時に監倉使視察、移民計画再び中断


翻訳:茶阿弥氏@dokdo or takeshima


4.鬱陵島方面(四) 飜覆無常? 領土權 國際問題?? 演出 ?? ???? ?? ???? 崎嶇? ?? 運命
1928年9月4日 東亜日報

変転無常の領土権、国際問題まで演出
しばしば海賊 の根拠地となり○○○○
奇遇な島の運命

女真国の侵略以後は海賊たちの根拠地
  女真国の侵略を受 けて無人島になったまま、鬱陵島は百余年間海賊の根拠地となっていたが、高麗・高宗王(年代ははっきりしないが、およそ百五十年後だ)の時に、当時 ○○○○○○○○崔忠献が、土地が肥沃で樹木が鬱蒼としていることを聞き、溟州方面から移民を多数集めて渡航したが、風波に遭って船がひどく破損し多数の 死傷者を出して後は意志を継続することができず、断念することとなった。

金丸賊を処置し流民数十名帰還
  このよ うになり、海賊の根拠地が根を張るようになったところ、李○太宗祖の時代に至り(今を去る五百二十八年前から十八年間)多数の流民が移住し、政府では三陟 郡守金麟雨を按撫使に任じ、海賊も○○○○○○、国際問題を避けようと流民たちを連れて来たことがあったが、その後、世宗二十年(今を去る四百九十一年 前)に金丸賊がこの島を根拠地として辺境を侵略したので、月松萬戸(=現蔚珍郡平海)、金○を送って金丸賊を処置し、流民七十余名を連れ帰ったので、この 島は再び無人島となってしまった。

じわじわと日本漁民の侵入
  その後は、国において月松萬戸と三陟営長を交互に 派遣し、この島に○○を送り、海賊も処置し流民も禁止することとなり、成宗二年(今を去る四百五十八年前)に東海中に三峯島があるということを聞いて臣下 朴元宗に視察させたところ、風浪が激しく三峯島という島は見つけることができず、大きな鰒魚と大竹を持って帰ったが、これはつまり鬱陵島を指すもので、そ の当時まで無人島であることはもちろん、竹が多いために竹島と呼ぶのもこのためであることが知られるようになった。このように移民を禁止している間に、日 本の漁民が少しずつ侵入してきた。

朝鮮・日本・明国の密貿易港、国際問題を惹起
  このことから、問題が当然のごとく生じたのが、今を去る三百十四年前、宣祖の子光 海君七年に、この島が朝鮮のものなのか日本のものなのかという問題だ。対馬守宗義智は江戸幕府(当時の日本政府)の命を受けて朝鮮に来て、「この島は日本 の国防上から、あるいは経済上から、日本と朝鮮と明国の共同の密貿易港」であることを主張し、○○日本山陰地方(この島から東に約七百里を経た日本海沿 岸)の人々の荒稼ぎの場となっていった。

幕府の我田引水、万不当と拒絶
  当時、朝鮮政府においては、東莱府使朴 慶業に命じて「日本が言う磯竹島は即ち鬱陵島であり、この島は我が禮記(=歴史)に明らかであり、今は人は住めないようになっているとしても我が国の島で あるのは明らかで、国防上とか三国の密貿易港とか、一体何の千不当、万不当なたわごとか。日本と朝鮮との通路は玄海(釜山下関間)だけで、それ以外に異な る海路で朝鮮の地に船を○○ならば敵船とみなすこととする。」という回答を江戸幕府に行い、以来七十余年間、決着を見ることができずにいたが、その間にも 日本漁民は厳然と鬱陵島の伐木と漁獲を続けた。

安龍福の拘留で再び国際問題化
  それから七十八年後、粛宗十九年 (今を去る二百三十六年前)に再び波乱が起き始めた。日本語に堪能で船のあやつりがうまいことで有名な東莱の軍卒安龍福の一行が漁に出て風浪に遭い鬱陵島 に漂着したところ、この島にいた日本人たちが、人の土地に密漁者が入って来たとして五浪島に拘禁した。安龍福は、あきれて、五浪島島主に、自分たちの土地 で自分たちの魚を採るのが何で密漁であり間違いだと言うのか。鬱陵島から朝鮮までは船で一日だ。日本へは船で五日だからこの島は我が国の島ではないかと反 抗したので、安龍福を伯耆州太守(=現敦賀方面)に護送したという。


翻訳:茶阿弥氏@dokdo or takeshima


5.鬱陵島方面(五) 所屬抗爭 近五百年 朝鮮領土? 歸着, ?? ?? ??? ??? ?? 變遷 ?? 鬱陵島

島嶼巡礼
鬱陵島方面(5) 第七隊 李吉用

所 属抗争百年に近く 朝鮮領土に帰着
朝鮮、日本、明 三国の間で変遷多き鬱陵島

1928年9月5日  東亜日報

(翻訳未完)

太守の驕策も水泡に
長崎から対馬護送
  「自分の国の土地で魚を採って何が悪いか」と抗拒した安龍福を護送することになった伯耆州太守は金を贈り厚遇したが、安龍福はこれを全て拒絶し、鬱陵島 ○○○○○○○だと○○○○○のような抗議をした。太守はどうすることもできず、幕府にこの件を報告した後、その命によって、鬱陵島との関係を良く知って いる対馬宗家と親交のある長崎に護送したが、そこに行ってもやはりしきりに反抗するので、再び対馬島に護送した。

最後の脅威にも決 死の反駁
   この島からあちらへ、あちらからこの島へと行き来した安龍福に、対馬島太守は「鬱陵島は日本の領土だと幕府の指示があるのに、おまえは何を言うのか」と 最後には脅迫したが、安は○○○不当な主張に反駁し、さらに○○道理がなく、太守平義信は朝鮮の礼曹(外交担当部署)に公文を送り、朝鮮漁民安・朴(朴は 同行していた人物)2名が来ることのできない竹島(当時、日本では鬱陵島を竹島と呼んだ)に40余名を伴って密漁○○したこと○拘禁した後、いくら説諭し ても聞かないので処置せよと言った。

抗争80余年 朝鮮領土に帰着
  鬱陵島を間に置いて78年続いてきた領土問 題を再び繰り返して、以来数年間、互いに自分のものだとしたが、粛宗22年(今から133年前)に至り、鬱陵島は朝鮮の領土ということを日本側においても 承認し、直ちにこの島の移民渡航を禁止したが、80年をおいて公然と扱われた鬱陵島は再び○住人を探すこととなった。その後からは注意を払って取締りを し、政府では三年ごとに○○○○張漢相を始めこの島に日本人がいるかいないかの調査として使臣を送ることとなったが、この島は四度めの無人島の運命となっ た。

開拓令が出る際に再び所属問題惹起
  そうこうするうちに180余年を経て、開国192年(46年前)に観察 使李圭遠がこの島を視察して帰還し、この島は山岳のみで平野がないが多少は耕作が可能で、また海産物が少ないではないので、この島の○○○を開き百姓を住 まわせるのが良いと   報告してきた。しかし、いつの間にか再び 日本人が入って来て伐木と漁撈をむやみにする者が多く、三度めの所属問題が起きたが、 金玉均らの熱烈な主張により問題なく韓国政府の所属が確認され、日本人の渡航を改めて禁止し、45年前に鬱陵島開拓令が発布された。

風 霜千有余年 新展開の鬱陵島
   東海滄浪の寂しい島として歴史に書かれたことだけ見ても、人が住めども海賊が○○するや無人島になってしまい、海賊を○○すれば日本人が入って来て、海 賊の根拠地から無人島へ、無人島から国際問題へ、このような風霜を何度も繰り返して来た鬱陵島の最近は、およそ45年前からを始めとする新しい営みの島 だ。開拓令が発布され移民を許可した甲申の年に、江原道蔚珍郡、慶北慶州郡、長○郡、慈仁郡、慶山郡、清道郡、永川郡、慶南蔚山郡、彦陽郡、密陽郡などか ら続々集まっている。

大きな主人を探したが小さな主人も問題
  人々が安心して住むようになってから、この島に始 めは島長を置き、28年前に江原道鬱陵郡と名付け、隆煕元年に慶尚南道管轄と改めたが、日韓合併以後にこの管轄を慶尚北道に移管して今日に至るが、大きな 主人を求めたこの島の運命は、その次に小さな主人が何回も代わり、○○○○○奇遇な身の上を強く感じた
翻訳:茶阿弥氏


6.鬱陵島方面(六) 絶壁?? 森林鬱蒼 宛然? 洋上仙境, ??? ??? ??? ???? 可頭峰? 海上觀[寫]

島嶼巡礼
鬱陵島方面(六)
絶壁ごとに森林鬱蒼、あたかも洋上の仙境
森また森、至るところ衝岩絶壁
可頭峰の海上観

東亜日報 1928.09.06

碧波寄せる白砂場、風霜を経た老香木
  鬱陵島 の身の上は千余年にわたり変遷多く、波乱が重なるほど伝説も多く、風霜を経た話○○○○○○○○人々が生活を始めたのはわずかに四十五年前からのことだ。 昔からこの島に住んだという者はなく、このような伝説を○○○○○○○○。○○○○○○もの言わぬ青山流水と奇岩怪石あるのみで、衝岩絶壁に○○○○数百 年の香木が当代の風霜を声もなく伝えるのみだ。洋々たる東海のきれいな水が白沙場○○溶解した奇岩の○○○○○○銀波金波○○○数百年を経た香木が ○○○○○○さながら洋上の仙境だ。

いたるところ森林鬱蒼、鳥類の海上楽園
 ○○○○○○四方里七十二、七千三百 余町歩に森林が鬱蒼として手入れをする者もなく、あたかも彼らの楽園のように半空に飛び、○○陸地では見ることのできない奇妙な鳥たちを
この島の ○○○○始めたのは私がこの島に八月二十二日○○○○○○○○発動船に身を預け、下は百余尋の海水、○○○○○五百尺から千余尺近い○○この島を ○○○○○これはまず、この島の生まれたさまを○○○○○○○○○○。水雷岩を右に見て可頭峰○○○○高さ○百四十尺の断崖が海岸に立っている。

可 頭峰○○○○、通九味の石屏風
 この峰に登れば清明な日には朝鮮の江原道はもちろん日本の地が見えるということで、日本人が国見峯と好き 勝手に名前を付けた。絶壁に樹木が生い茂り、また滝が水泡となって落ち、海へ注ぐ。
  波騒ぐ白沙場へ水祭○○○○○○○○○通九味○○○○秘伝 の薬草○○○○○○○○○○○○○○この島に○○○○○○○○○九種類の味を○○○として、この浦の名を通九味と呼ぶという。数百尺にもなろうかという高 い岩がこの浦を屏風のよう取り巻いている。



唯一の史的資料、観察使一行の刻字
  この村の岩に文字が刻まれているが、それは観察使李圭遠が開国四百九十二年春、この島に開拓 令発布の準備として視察に来たときに刻んで行ったものだ。これを見れば、そのときまではこの浦にだけ出入りをしていたものと推察される。
  石に は「観察使」と横に彫られ、その下に「李圭遠」と縦に彫られており、多少離れて随員として「高宗八、徐相植、劉○祐、沈宜○、朴(以下未詳)」など、今で も辛うじて文字が見えるのは以上の五名で、さらにその下に営吏として「孫永泰」と彫られている。

開拓当初に移住した八旬老 人の伝言
  通九味から少し○○○○○○○石門洞を望んで発動船で南面の事務所がある南陽洞に○○○既に日が高い。
  ここには 開拓令○○○四十五年当初に最初に移民として来た四家族中の一つの家があるが、その人は、七十四歳になる老人とは言うもののむしろ百歳生きても足りないほ ど○○○元気な金鐘洙老人だ。彼は全羅南道康津の人で、開国四百八十九年、英国東洋艦隊の大砲の音が全南三島に騒乱を及ぼすときに難を避けてこの島に来た と言い、無人島から現在に至るまで子息孫子が生まれたことの外には話しとして伝えるものはないという。鬱陵島の伝説は、この老人のこの言葉がそのままそう であると言える。
翻訳:茶阿弥氏@dokdo or takeshima

7.鬱陵島方面(七) ? 火田 ?? ?? 豊作傳?? 別天地, ???? ???? ??? ? 海上? ?? 石 窟岩[寫]

島嶼巡礼 鬱陵島方面(七)

古い火田の跡に豊作伝える別天地
海金剛を○○○○○○
海上にそびえる石窟岩
東亜日報 1928.9.7

海抜二千余尺上に古い火田の跡
 この島の伝説をど うしても聞きたくてわざわざ八十歳に近い老人を訪ねたが、別にこれというほどの話も聞くことはできず、南陽洞からは海抜二千余尺になる「黄土坎」の峠を越 えて四十余里にかけて至るところ森林で、川の水が流れる音のみで、陸地の音とは異なる○○○音があちこちに聞こえ、半島の土を恋しくさせる。二千余尺の高 さの峰に至るまで、傾斜が多少急でないところにはトウモロコシとキビが植えられていて、これは○○火田の跡だという。
○○○○○○○○四十余里を進めば再び海辺に至るが、そこが台霞洞だ。

海中小魚が招いた小学校の珍事実
 大体にお いて鬱陵島の建物は大雑把に言えば日本の山陰地方のものと似ており、壁も広く、○○も広く、煙突も広い。木が○○○○○○、全部が広く○○○○○、風が強 いので○○を高くすることができず、○○○○○大きな石で押さえている。○○を見れば○○○○○不安な気分が家を見るたびに起こってくる。
  台 霞洞には日本人尋常小学校が一つあり、生徒は72人で、朝鮮の児童が68人、日本の児童は残り4人だけだ。半島では見ることのできない変わった現象で、そ の理由は、この村の前の海で「イカ」という魚が多く採れる年に数十戸の日本人が移住したときに小学校を建てたが、何年も経たず「イカ」が採れなくなったの で皆故郷に帰ってしまったためだという。「イカ」というのは水中の小さな魚なのだが、その魚がこの学校を作り、その魚が彼らを○○したことになる。



白髪老人の顕夢、城隍堂の物語
 今、島庁がある道洞が○○○○以前にはここがこの島の○○○○○○○○、ここは水田も相当にあり、 村が○○○○広がっている。ここに城隍堂があるが、鬱陵島の建物として伝説を残すのはおそらくこの堂があるだけだ。約七十年前、江原道の月松萬戸(今の平 海)南冥が国の命を受けこの島を視察○○○○○○○○○○○○「自分はこの島の○○で、○○○○○○女妓と通引(下人)をこの島に置いていくべし、さもな ければ大きな災いを受けるであろう」と言って服を隠したことがあったが、尋常ではない○○○○○○、ともかく予定どおりに○○帆船を帰途についた。どうし たことか風浪が甚だしく船を到底操ることができなくなり、○○○○○○○○再び船を○○○○○、無人絶島に○○二人を解き放して再び船を○○○○したとこ ろ、果たして順風に当たり、その船は無事に帰りついたが、前記の二人は○○○○○○毎日二人で泣いてばかりいたが、○○○○手首を○○死んだといい、その 後、人々がその場所に城隍堂を建てて○○○○○○と伝えられる。


待風坎の伝説と海堀の絶勝仙境
 そこから 再び船に乗って島を巡り始めると、待風坎に沿って北面へと船は向かう。待風坎というのは、妙に香木洞○○○半月形に曲がった所で、以前に全羅道から薬草を 採ろうと○○船に糧食を大量に積んでこの島に来て、薬草も採り、森林も鬱蒼としているので思うままに伐木し新しく木船を○○○風が治まるのを待って出発し たというので待風坎と呼ぶのだという。見上げれば絶壁、○○○見れば奇岩怪石ばかりのこの島の海岸は決して海金剛○○ない。船が岩窟を過ぎ千七百余尺の高 さの錐山(錐のように○○が○○)に沿って進むとまた海堀があり○○○○○○には香木が香気を漂わせているのがこの島とこの場所の風景を○○○○○○描き 出すこともできず言葉で伝えることもできない絶勝の風景だ。船は○○○このような断崖美を巡って進む。


翻訳:茶阿弥氏@dokdo or takeshima


8.鬱陵島方面(八) 「避難處 ??? ?? 藥草東山」????? ??? ?? ?? 俗人 ? ? 海上天國[寫]
9.鬱陵島方面(九) 白旗? 請水軍號 原始的 物物交換, ???? ??? ????? 悲壯? 露艦? 最後
10.鬱陵島方面(十) 俗人足跡稀少?? 各種學者?究地, ??? ???? ??? ??? 冠冒峰? ?? ??[寫]
11.鬱陵島方面(十一) 常綠? 于山國? ? 安否 ?? ??, ??? ??? ??? ???? 寒心? 島民生活[寫]

1933.07.01.壽春山人「三寸舌? 鬱陵島 奪還? 海上? 快人勇士 安龍福」

1934? 02 01 翠雲生 「雪禍 鬱陵島秘史」


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これが、終戦後は、暗流服がなぜか現在の竹島を守った人物として歪曲され 始める。
また、鬱陵島北東部竹嶼の記録を、元竹島の記録と偽って韓国領有権主張に使い始めた経緯がここで分かる。



  • 最終更新:2012-10-15 18:48:36

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