竹島の歴史-1




2012年08月11日

竹島の歴史


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 竹島は島根県隠岐郡隠岐の島町に属している。隠岐島からは北西約157Km、韓国の鬱陵島(うつりょうとう)からは約92Kmの位置(北緯37度9分30秒、東経131度55分)に在る。竹島は日本・韓国双方の大陸棚とは繋がっていない孤島であり、島は2つの小島(西島、東島と呼ばれる)と、これを取り囲む数十の岩礁で構成されている。この2つの主島は、いずれも海面から屹立(きつりつ)した峻険な火山島で、幅約150メートルの水道を隔てて東西に相対している。面積は全ての島嶼(とうしょ)を合わせても約0.2平方kmで、日比谷公園ほどの大きさしかない。
 西島は、海抜157メートルで円錐状をしているのに対し、東島はそれよりやや低い。周囲は断崖絶壁をなし、船をよせつけない。ただ東島の南端には、わずかな平地があり、島の頂上にも若干の平坦な地所がある。飲料水は溜まり水に頼るほかなく、全島一本の立木もない。周辺海域は対馬暖流と北からのリマン寒流の接点になっており、魚介藻類の種類、数量ともに極めて豊富。この不毛な無人島の領有権をめぐり、日韓両国は1954年以来、執拗な争いを続けているわけであるが、現在に至るまで竹島問題が解決されない一つの理由に、韓国の世論形勢があるというのも否めない。
 竹島問題を理解するには、先ず鬱陵島の歴史を知らなければならない。鬱陵島は朝鮮半島から115kmの海上にあり、島の大きさは70Km2である。鬱陵島は西暦512年以来、韓国の支配下にある。しかし、李氏朝鮮(1392-1910)は、鬱陵島への渡航を禁じた。これには大きく分けて二つの理由があり、国内的には税金を逃れて島に渡るものが後を絶たなかったことと、対外的には倭寇による襲来から島民を守る為であった。この無人島政策は1438年から1881年まで続けられた。
 17世紀初頭、伯耆国(ほうきこく=現・鳥取県)米子の海運業者だった大谷甚吉(おおやじんきち)が、航海中に暴風に遭い、無人島になった鬱陵島に漂着した。彼は、新島の発見と考え、帰国後、同志の村川市兵衛とはかり、1618年に江戸幕府(1603-1868)から鬱陵島への渡航許可を受ける。鬱陵島はその発見から「竹島」や「磯竹島」と呼ばれるようになった。大谷、村川両家はその後毎年交替で鬱陵島に渡り、アシカ猟やアワビの採取、木材の伐採などを行い、両家の鬱陵島経営は78年間続けられた。当時鬱陵島へ渡るコースは、隠岐島から松島(現在の呼び方で竹島)を中継地にしていた。大谷、村川両家は、この竹島(旧・松島)の経営をも手がけていた。竹島が航路中の寄港地、漁猟地として利用されアシカ猟を行っていた記録も残っている。江戸幕府は松島に対する渡航許可も1656年に出している。(注意:竹島はむかし松島と呼ばれ、鬱陵島は竹島と呼ばれていた。韓国もこの歴史的経緯・事実に対しては異論は出ていない)
 1905年、明治政府は竹島を島根県に編入し国際法的にも日本の領土になった。しかし日本の敗戦後、GHQは竹島を沖縄や小笠原諸島と同様に、日本の行政権から外した。これを口実に1952年1月18日、李承晩(イ・スンマン)韓国初代大統領は海洋主権の宣言ライン、いわゆる「李承晩ライン」を設け、韓国は竹島周辺海域の水産資源を得る事になる。これが日韓の竹島問題の始まりである。
このサイトは、日本、韓国、そして欧米の資料を駆使して、現在韓国の実効支配下にある竹島を歴史的・国際法的な立場から公正に考え、日本政府の竹島領有の正当性を分かりやすく説明するものである。 

松島への渡航許可 in 1656
于山島が竹島ではないことは先に説明しました。それは即ち、韓国が近年におけるまで竹島を知らなかった事を意味する。つまり、韓国は竹島に対して実効支配をしていないのである。最初に竹島を実効支配したのは日本である。いつ竹島を発見したかは定かではないが、幕府は松島(現・竹島)への渡航許可を1656年に出しているので、少なくともそれ以前に竹島(旧・松島)は日本人の経営支配下に入っていたことを意味する。 

隠州視聴合記 in 1667
隠州視聴合記 (松江藩士・斉藤豊仙著 1667年)
隠州在北海中故云隠岐島、従是、南至雲州美穂関三十五里、辰巳至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、俗言磯竹島多竹魚海鹿、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠州、然則日本之乾地、以此州為限矣 

翻訳
(1) 隠州(隠岐島)は北海中(日本海)にある 
(2) これより南、雲州(島根県東部)美穂関まで35里。東南、伯州(鳥取県西部)赤崎浦まで40里。南西、石州の温泉津(ゆのつ)まで58里。北から東には行くべき地なし。
(3) 北西の間、二日一夜の所に松島(現・竹島)があり、また一日程行くと竹島(現・鬱陵島)がある。
(4) 俗に磯竹島という。竹・魚・アザラシが多い。
(5) これら2島は無人島で、高麗を見るように雲州より隠州を見るようである。 
(6) ならば即ち、日本の北西の地、この島をもって境とする。

「この島」の解釈
この隠州視聴合記は隠岐島を中心に、東西南北何があるかが書かれている。 ソウル大学社会学部のシン・ヨンハ教授は、上記の文章から(2)と(4)を抜き、(1)と(3)(5)を結んで、(6)の「この島」を隠岐島のことと解釈した。これでは著者の斉藤が、(2)でわざわざ隠岐島を基点とした意味が無くなってしまう。(1)から(5)を抜かさずに読むと、(6)の「この島」とは鬱陵島を指し、鬱陵島までが日本の領土として書かれているとの解釈が成り立つ。実際(3)(4)(5)(6)を一つの段落として考えると、「この島」とは、明らかに鬱陵島である。何故なら1693年から3年間にもわたって鬱陵島の領有権問題が日本と朝鮮で争われたことを説明する事は出来ない。隠州視聴合記は、鬱陵島問題が起こるずっと以前、1667年に書かれており、徳川幕府が日本漁民に鬱陵島への渡航許可を出して半世紀経過しているのである。
竹島松島之図 in 1724
幕命によって鳥取藩が、大谷、村川両家から鬱陵島周辺海域を聞き調べ作製した図に、竹島松島之図というのがある。この図は1724年に製図されたもであるが、松島の2つの主島(西島と東島)が描かれ、その周りに幾つかの岩礁が書かれている。20世紀に入るまで、韓国ではこのような竹島(旧・松島)の2つの主島が書かれている詳細な地図は存在しない。
改正日本輿地路程全図 in 1779
作者の長久保赤水(1717-1801)は、水戸徳川家の儒官として江戸に出仕した人で、晩年『大日本史』の「地理志」稿本を執筆した地理学者でもある。この「改正日本輿地路程全図」は行基図を越えた画期的な日本図である。輪郭はかなり正確になり、距離や方角も正しく読み取れるようになっている。幕末に至るまで、他の日本図の手本となった。この"日本図"には竹島が描かれている。また、1833年に書かれた『新刻日本輿地路程全図』は改正日本輿地路程全図の系譜図である。
三国通覧図説 in 1785
韓国が、「日本も自ら竹島を朝鮮領と認識していた」として持ち出す資料の一つに、地理学者の林子平(はやししへい・1738-1793)が書いた『三国通覧図説』がある。この書には付属図の『三国輿地路程全図』がある。林は日本の地図だけでなく、朝鮮の資料も参考にしたと思われる。朝鮮半島の直ぐ傍に、島名の書かれていない島があるが、これは明らかに存在しない于山島である。そして日本海の中央に描かれている島は、当時竹島と呼ばれていた鬱陵島のことである。その竹島の直ぐ傍に小さな島が書かれているが、これはチュクドと考えるのが妥当である。林子平はまた『朝鮮八道之図』も描いているが、鬱陵島には「鬱陵島」と「于山国」の2つの名称が記載してある。
華夷一覧図 in 1790年代
木村蒹葭堂(きむらけんかどう・1736 - 1802)が作成した『華夷一覧図』という図は、大清を中心とする東半球図を紹介してる。蒹葭堂はこの図に、隠岐西北にほぼ同じ大きさで「松シマ」と「竹シマ」を描き、日本と同じ朱に彩色した。この地図は、大日本(本州)・四国・九州と蝦夷の四島の外郭を朱で縁取り、松シマ・竹シマの他、オキ(地名なし)・イキ・ツシマ・琉球諸島・伊豆諸島・無人島一名小笠原島・タ(ク)ナシリ・エトロフ等の小島を朱に彩っている。さらに、東北・関東沖とマリア島(マリアナ諸島)東方の島々も朱色。しかし、蝦夷北方の大陸から半島状に延びたカラフト、サカリイン(サハリン)島、及びウルフ(ウルップ)以北の千島列島は彩色されず、蒹葭堂の懐く「日本」の範囲がよく分かる図である。また蒹葭堂から多くの地理情報を得ていた長久保赤水は、『唐土歴代州郡沿革地図』(1790年刊)の「亜細亜小東洋圖」で「松シマ」「竹シマ」をヲキや日本と同じ赤褐色に彩っている。
竹島密貿易事件 in 1836
1836年に、石州浜田の回船問屋・会津屋八右衛門(いまずやはちうえもん)が、幕府が渡海禁止令を出していた竹島(現・鬱陵島)へ渡り、竹や木材を伐採して密貿易をしていた事が知られ、裁判を受け死刑になった事件がある。この裁判の判決文に、「松島へ渡海の名目をもって竹島に渡り」という浜田家老の言葉がある。つまり、竹島事件で問題になったのは朝鮮領の鬱陵島への渡海であり、松島(現・竹島)への渡海については何も問題にされていないのである。
通航一覧 in 1853
『通航一覧』は1853年、徳川幕府によって編纂された近世外交史料集成である。その中に「竹島密貿易事件」の記述があるが、ここに出てくる竹島とは現在の鬱陵島のことである。
皇国総海岸図 in 1855
水戸藩士の酒井喜煕(さかいよしひろ)が幕府所蔵の地図や水運関係者の聞き取り調査から1855年に『皇国総海岸図』を作製。海岸の状況や港の施設、航路の距離・帆走方向を収録し、日本全域を表す総図で松島(現在の竹島)と竹島(現在の鬱陸島)も記載されている。日本領土が黄色に塗られているのに対し、松島と竹島は着色がないが、福岡県沖の御号島(現在の沖ノ島)も無着色であるから、当時は無人島であることを指したものとみられ、朝鮮領という意味ではないと考えられる。また、隠岐周辺の地図では、竹島渡海の港であった福浦(現在の隠岐の島町)付近に「松島竹島ハ亥子ノ間二当ル」と、当時の地図では初めて両島に至る航路の方角を示す表記が見つかり、隠岐島との間で交流があったことをうかがわせる。
重訂万国全図 in 1855
幕臣で幕府天文方の山路諧孝(1777 - 1861)が1855年に著した『重訂万国全図』には「アルゴナウト島即ち竹島」「ダゲレト島即ち松島」の記述があり、これら2島とも日本と同じ色で着色されている。
新刊輿地全図 in 1861
佐藤政養が著した『新刊輿地全図』は幕末を代表するメルカトル図法による世界地図である。原図は1857年のオランダ製の航海用地図で、内容が詳しく正確なうえ、世界の主な都市・山川の一覧がある。佐藤政養は幕末から明治にかけての蘭学者・技術者で、勝海舟の塾で蘭学、測量術を学んだ。隠岐と朝鮮半島の中間に"タケ"と記述してある日本と同じ色で彩色された島がある。
増訂大日本輿地全図 in 1864
逸見豊次郎が1864年に著した『増訂大日本輿地全図』は、非常に大きな図であるが、これに竹島(鬱陵島)と松島(竹島)が記載されている。
竹島雑誌 in 1871
地理学者で探検家であった松浦武四郎(1818 - 1888)は、1871年に『竹島雑誌』を編述。この書は竹島(現在の鬱陵島)はもともと日本領であるとの見地から記述してある。吉田松陰も、安政の大獄で牢屋にぶち込まれた時に、弟子の桂小五郎に国防上竹島は重要拠点と書簡で主張している。
朝鮮全図 in 1873
日本の海軍水路寮は1873年に『朝鮮全図』を作製した。この図には、鬱陵島が蔚島として描かれ、蔚島と朝鮮半島の間に于山島が描かれている。この朝鮮全図には竹島は描かれていない。同年、明治新政府がウィーン万国博で展示した『L'Empire du Japon』には、松島(鬱陵島)と幻の竹島(アルゴノート)が日本領として描かれている。
日本地誌提要 in 1874
1874年に内務省地理寮地誌課の塚本明毅によって編纂された『日本地誌提要』には、日本海に2つの島があることが言及されている。





























最終更新日 2012年08月30日 00時11分39秒
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  • 最終更新:2013-04-25 02:53:54

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