竹島外一島(たけしまほかいっとう)

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竹島外一島
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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竹島外一島(たけしまほかいっとう)

この項目では、日本と韓国の間で領有権争いがある竹島について、その争点の一つとされる「竹島外一島」の意味する島について記述する。
1877年(明治10年)に発せられた太政官指令「竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事」や太政類典の「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」とした一文が日韓の竹島における領有権の解釈から問題になっている。鬱陵島は江戸時代までの日本で竹島と呼ばれていたため、韓国はこの一文の「竹島」が鬱陵島で「外一島」が現在の竹島と解釈し、日本で発せられたこの指令は現在の竹島を朝鮮領と認めている証拠であるとしている。しかし当時の日本の地図は島名が輻輳し鬱陵島が松島となっているため、日本ではこの「竹島外一島」は鬱陵島と現在の竹島を意味しないと主張している。

目次 [目次を表示する]
1 「朝鮮国交際始末内探書」
2 太政官指令の「竹島外一島」
2.1 朝鮮国交際始末内探書
2.2  太政官指令 
2.3 太政類典第二編
3 外部リンク
..........

「朝鮮国交際始末内探書」
明治政府は、朝鮮に人を派遣し江戸時代に日本から渡航し開発していた竹島(鬱陵島)について詳細に調査している。 その内容が1870年の「朝鮮国交際始末内探書」に記載されており、その中に「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」とした文がある。現在の竹島は江戸時代まで松島と呼ばれていたため、韓国ではこれを現在の竹島(独島)が自国領だとする根拠の一つとしている。この時、日本が朝鮮の文献を調べた結果、竹島と松島が朝鮮附属になっているとしているが、当時の朝鮮の文献では于山島が松島で朝鮮領となっており、多くの朝鮮の古地図ではその于山島の位置はほぼ鬱陵島北東近傍の現在の竹嶼を指している。また日本には松島(現在の竹島)の資料が数点存在しているにもかかわらず「朝鮮国交際始末内探書」には「松島ハ竹島ノ隣島ニシテ松島ノ儀ニ付是迄掲載セシ書留モ無之」と記されていることや、松島が竹島(鬱陵島)の隣島であるとしていることから、日本ではこの松島は現在の竹嶼を指しているとしている。

太政官指令の「竹島外一島」
1877年、明治政府は元禄時代に朝鮮と交渉し日本からの渡航を禁止したこと(竹島一件)などから、太政官指令により「竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事」と決定した。太政類典第二編には「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」としてその過程が纏められている。

竹島一件では、竹島(鬱陵島)への渡航を禁止する旨を朝鮮に伝え、松島(現在の竹島)については記載していないが、明治政府が纏めた太政類典の中には、隠岐の北西120里(約480km)に周囲およそ10里(約40km)の竹島があって、次の一島がその同一路線にあり、隠岐より80里(約320km)周囲30町(約3270m)の松島があるとしている。この距離は当時島根県が提出した「磯竹島略図」の記載距離と同じであり、本文に書かれている「竹島」の状況や位置関係の比からすると「竹島外一島」は現在の「鬱陵島と竹島」を示していると言えるが、本文の距離と実際の距離は下表のように大きく食い違う。原因は「磯竹島略図」が測量に基づくものではなく享保年間の大谷家の絵図を縮写したもので、当時のおよその距離をそのまま転記したからである。

距離の比較
(太政官指令の地名が江戸時代までの呼称を使っていたとする場合) 記述 朝鮮~竹島 竹島~松島 松島~隠岐 竹島周回
記述 五十里 四十里 八十里 十里
里→km 200km 160km 320km 40km
実際の距離 140km 92km 160km 56.6km
里を海里と解釈した場合 93km 74km 148km 19km

この頃の日本の地図は、日本の本土を近代的測量により正確に描いているが、その多くの地図は鬱陵島を「松島」として描き、鬱陵島の北西の実在しない位置に「竹島やアルゴノート島」として描いている。この二島は遠方にあるため、ヨーロッパの探検家が間違って測量した地図を参考にして描いたのではないかとされている。太政官指令の発せられた3年後の1880年、日本の軍艦「天城」の調査で島の名称が誤っていることに気付いたが、引き続き鬱陵島を松島として地図に記載する。後に島名を変更し、1905年に現在の竹島を島根県へ正式に編入している。

従って、1877年の太政官指令の「竹島外一島」は、島根県が提出した「磯竹島略図」の内容をそのまま記載しているため、鬱陵島と現在の竹島を意味している事になるが、当時は鬱陵島を「松島」として認識しており、この指令によりすぐに当時の政府が鬱陵島と現在の竹島の領有を放棄したとは言えない。この頃は近代的測量により正確な位置が出せたが、これらの島が遠方であったため過去の文献やその頃の誤った地図資料等で判断するしかなく、当時の担当者が「朝鮮国交際始末内探書」の調査内容を元に島根県の提出した「磯竹島略図」の距離から、これを「竹島外一島」として本邦関係無しや版図外としたと見られる。島根県の竹島研究所の研究では、軍艦「天城」の調査後も日本では引き続き鬱陵島を松島としているため、実在しない位置に描かれていた「竹島」の名を朝鮮で于山島と呼ばれていた現在の竹嶼に当てはめたとし、この時実際に版図外としたのは鬱陵島だけであるとしている。


韓国では、明治政府が太政官指令により「竹島外一島」を本邦関係無しや版図外としたことから、現在の竹島を韓国領であるとする有力な根拠としているが、大韓帝国では1908年に高宗の命により編纂された『増補文献備考』まで、鬱陵島の近傍に描かれた于山島が松島であるとしており、この時までに大韓帝国製作の地図には現在の竹島は一切記入されていない。また、日本が島根県に編入する1905年までに朝鮮人が支配した事実もない。 (太政官指令が出される1877年までの朝鮮での鬱陵島付近の認識は于山島を参照のこと)

 韓国に帰化した世宗大学校の保坂祐二助教授は、太政類典にある距離の里を海里(1海里=1852m)として計算すると、鬱陵島と現在の竹島は実際の距離に近くなるとして、当時の日本の地図の記載間違いなどは日本の歪曲的解釈として、1905年の竹島の島根県編入は日本の軍国主義による侵略の始まりと位置付けている。しかし、これらの距離は享保年間に書かれた大谷家の絵図に記載されたものをそのまま記述しており、海里が使用されるずっと以前の距離であるため海里ではない。


1、「朝鮮国交際始末内探書」当時の「松島」

イ、朝鮮人の言う于山島と、朝鮮人の言う「倭人が言う松島」

「朝鮮国交際始末内探書」当時では、韓国が主張する「松島=于山島」の意味での松島は現在、竹嶼と呼ばれる島を意味することは『日省録』、『青邱図』、『承政院日記』、『啓 草本』などから明らかである。

『日省録』の1793年の記述や『万機要覧』(1808年)の軍政編には『東国文献備考』(1770年)からの引用と思われる記述があるが、『日省録』では、その後、1807年5月12日の項に鬱陵島を調査した役人の記録があり「北有于山島周回為二三里許」(北に于山島があって周囲は二三里をなしている)と報告している。これは、于山島が鬱陵島の北にあって周囲が約800m-1200m(朝鮮の1里は約0.4km)であることを意味し、つまりは今日の「竹嶼」であって、「朝鮮人の言う『倭人の言う松島』」(于山島)は「日本人(倭人)の言う松島」とは違っていることは明らかである。つまりは朝鮮政府では19世紀初頭において既に于山島(「朝鮮人の言う『倭人の言う松島』」)は今日、「竹嶼」と呼ぶ島であると比定していた。それ以降では、「朝鮮人の言う『倭人の言う松島』」は今日の「竹嶼」を意味し、徳川末期(1840年)頃までの「日本人(倭人)が言う松島」とは異なることになっていた。それは『青邱図』、『承政院日記』、『啓草本』などから明らかである。

【政治的背景】

  朝鮮半島では、大院君派と閔姫派の激しい内紛劇が展開されたが、既に閔姫派が実権を握り前年に日朝修好条規が締結され、第一次修信使が派遣された。日朝修好条規の発端である江華島事件が砲艦外交であったかなかったかの議論は別にして閔姫派の実権も、このような日朝関係も、その後閔姫暗殺事件、露館播遷まで続いた。 よって、1880年の軍艦天城による実地測量までに日朝関係を変えるような特別な事情が朝鮮側に発生したとはとうてい考えられない。


ロ、日本人の言う「松島」

・1840年頃以前では今日の竹島を意味する。

・1840年頃以降では「鬱陵島」のことを意味していた。

2、太政官指令時の外一島について

「外一島」について、それを「松島のことだから、今日の竹島のことだ。」と主張する韓国側の論理展開にしても、「その場合の松島とはダジュレー島のことであって、つまりは鬱陵島のこと。」という日本側で多く見られる主張においても、どちらも蓋然性にもとづくものである。

そういった蓋然性を根拠にした論理展開が「独自研究」や「中立性」を欠いた主張でなく、ここの項目で許されるとするなら、「外一島」とは、「磯竹島略図」での「磯竹島」の北東方向に近接して描かれている島には名前がつけられているから、かの図面は明らかに「島」として認識している以上、「島根県提出の資料をそのまま」受けても外交問題の次元として捉えるなら、「朝鮮国交際始末内探書」からの流れ、外交の一貫性から言って、この太政官指令が発令された時点としては、「『外一島』とは竹嶼のことだ」という論理展開だけが蓋然性がないという主張には飛躍があって中立性はないと言える。

【政治的背景】

 太政官指令が出される時点において、征韓論の旗頭とされていた西郷隆盛が起こした西南戦争はほぼ終局に向かっており、それ以後、1880年の軍艦天城による鬱陵島海域の測量調査まで、明治政府の対朝鮮外交方針が変わるような事件は起きていない。軍艦天城は内外からの情報通り、アルゴノード島(海図上で竹島)が架空島であることを確認したので竹島を「竹嶼」に比定するという報告を残したとされる。(既に、測量に向かう前から手はずどうりであったという蓋然性も否定できない。) とにかく、太政官指令(1877年)から軍艦天城の検証まで3年の間に明治政府の外交方針が大きく変わるような事件は起きていない。 (尚、西郷隆盛の主張を「征韓論」とする歴史観には反対意見は多い。つまり「西郷隆盛は征韓論でなく遣韓論だ。」という歴史観にもとづく意見も多い。)

しかるに、結果として明治政府は結局、軍艦天城によって海図上での鬱陵島(松島)と竹嶼(竹島)に関する呼称の変更をしただけである。つまり、このことは、明治政府が当初から鬱陵島と竹嶼だけを朝鮮領とする予定であったことを明白に意味している。ただ、それまでは海図上と実地との違いが確認されていなかった為、更には『日本辺界略図』(シーボルト『NIPPON』)のように松島と竹島が南北、逆に描かれていた図もあったことから念入りに実地検証が済むまでは、拙速な判断による二重の比定ミスによる混乱の拡大を避ける為に、特定せず、一見、曖昧に見えても実は調査未了という不確定要素が残されている時点では、後でフレキシブルな対応が可能なように、フリ-ハンドを保った慎重な記法をとった、とする意見もある。

「竹島が(内外からの情報どうり)架空島だった場合にはどうするか?」あるいは「松島が架空島であると確認されたらどうするか?」等等は当然に、天城の調査以前に明治政府において想定して対策は決まっていたと思える。そのために「外一島」としたのである。1850年-1870年にかけて英国艦船は日本列島近海を何度も測量しており、アルゴノード島は架空島ということは明治政府にも伝えられており、そのことは既に明治初期では、海事界での常識になっていた。よって明治政府としては、松島(現竹島)と竹島(鬱陵島)は(どっちが東西かではなく)どっちが北でどっちが南かという問題でも確認作業も重用になっていたともいえるのである。

以上、1,2からの結論

太政官指令での時点としては「外一島」とは、とりあえず鬱陵島の北東約2.2kmにある今日の「竹嶼」のこととされていた。

(後、1880年には軍艦天城が実地で測量した結果、内外からの情報どおり、海図上での竹島は松島より北で更に鬱陵島の実際の位置より西に大きくずれていて架空島になっていて、松島が鬱陵島であることが確認されたから天城測量後としては竹島を竹嶼に比定して、それまでの大日本国沿海略図などでの陳腐化を一掃し海図改正を公式にした。『日本辺界略図』(シーボルト『NIPPON』)のように松島が竹島の北にあって松島が架空島であることが確認された場合には松島を竹嶼に比定する改正をしたであろうと思われる。調査結果が、そのどちらになっても矛盾しない指令となるように前島密は「外一島」という概念の用語を使ったのである。)




朝鮮国交際始末内探書
原 文
 一 竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末

此儀ハ松島ハ竹島ノ隣島ニシテ松島ノ儀ニ付是迄掲載セシ書留モ無之竹島ノ儀ニ付テハ元禄度後ハ暫クノ間朝鮮ヨリ居留ノ為差遣シ置候処当時ハ以前ノ如ク無人ト相成竹木又ハ竹ヨリ太キ葭ヲ産シ人參等自然ニ生シ其餘漁産モ相應ニ有之趣相聞ヘ候事

現代文
 竹島と松島が朝鮮附属になった事情

この件について、松島は竹島の隣島で松島の件はこれまで掲載する書留もない。竹島の件については、元禄の頃後しばらくの間朝鮮より居留のための人を送っていたが、当時は以前のごとく無人となり、竹木又は竹より太い葭を産し、人参等も自然に生じ、そのため魚も相応に採れるので、趣いたと聞いているとのこと。

 太政官指令 
1877年3月20日に内務省が出した通達(国立公文書館所蔵)

原 文
明治十年三月廿日

別紙内務省伺日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件右ハ元禄五年朝鮮人入嶋以来旧政府該国ト往復之末遂ニ本邦関係無之相聞候段申立候上ハ伺之趣御聞置左之通御指令相成可然哉此段相伺候也

御指令按

伺之趣竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事

現代文
明治10年(1887年)3月20日

別紙にて内務省が伺った日本海内竹島外一島地籍編纂の件、右は元禄五年(1692年)、朝鮮人入島以来、旧政府の当該国と往復の末、最終的に本邦と関係無との報告があった件を申立てましたところ、伺いの趣旨を検討し、左の通り御指令になったとこの件について伺っております。


御指令案

お伺いの件、竹島外一島の件は本邦関係無しとして良いと考える事。

太政類典第二編
原 文
「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」
 (略)
「磯竹島一ニ竹島ト称ス隠岐国ノ乾往一百二十里許ニ在リ周回凡十里許山峻嶮ニシテ平地少シ川三條アリ又瀑布アリ・・・(鬱陵島の状況)・・・次ニ一島アリ松島ト呼フ周回三十町許竹島ト同一線路ニアリ隠岐ヲ距ル八十里許樹竹稀ナリ亦魚獣ヲ産ス・・・」

現代文
「日本海の竹島と他一島を版図外と定める」
 (略)
「磯竹島を竹島と呼ぶ。隠岐国の北西120里にあり、周回およそ10里、山は峻険で平地は少し、川は3本あり又瀑布がある。・・・次ぎに一島ある。松島と呼ぶ。周回30町、竹島と同一路線にあって隠岐から80里ある。木や竹は稀で又魚や獣が獲れる。・・・」

外部リンク
太政官指令が出される1877年までの地図
1877年大日本図(文部省出版 宮元三平著)架空の竹島が描かれ、現在の竹島は描かれていない。
磯竹島略図(太政官指令のある『公文録』に所収された地図。島根県が提出した享保年間の大谷家の地図を縮写したもの。)
1875年亜細亜東部輿地図
1870年橋本玉蘭の大日本四神全図
1867年勝海舟の大日本沿海略図
1856年ペリー提督の地図
1855年山路諧孝の重訂萬國全圖
1855年ハイネの地図
1840年シーボルトの地図
精密性が要求される独島研究(中央日報)
カテゴリ: 編集半保護中の記事 | 日本の領有権問題 | 韓国の国際関係

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2009年1月1日 14:51 (日時は個人設定で未設定ならばUTC) GMT 版
【竹島外一島】変更履歴


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TITLE:竹島外一島 - フレッシュアイペディア
DATE:2009/01/15 19:44

  • 最終更新:2009-03-06 16:38:03

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