通信使が驚いた日本(その1)雨森芳洲

2009/01/03 06:45


『海游録』の描写を抜粋してご説明する前に、この時の通信使の概要を述べましょう。


『海游録』は、3年前に徳川吉宗が8代将軍に襲位したことを賀して、1719年に来日した通信使の記録です。この時の朝鮮通信使は正使、副使以下475人でした。4月にソウルを出発し、10月に江戸に入って国書を将軍吉宗に奉呈し、朝鮮国王あての回答書を受け取って翌年1月にソウルで国王に復命しました。


この通信使の案内役として対馬から江戸までの往復に同行した人物に、雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)がいます。彼は木下順庵門下の秀才で、22歳の時に対馬藩お抱えの儒者となり、朝鮮との外交に当っていました。儒教はもとより、漢詩文にも朝鮮語にも通じていましたから、申維翰にとって、また通信使一行にとって最も頼りになる日本人でした。


『海游録』の中に芳洲は頻繁に登場してきます。ある時は申維翰と激論に及んだかと思うと、次の日は一転して和やかに漢詩を交歓し、また、ある時は通信使一行の相談に乗ったりもしていたことが生き生きと描かれています。


1990年に来日した廬泰愚大統領が、宮中晩餐会におけるスピーチで「270年前、朝鮮との外交にたずさわった雨森芳洲は誠意と信義の外交を信条としたと伝えられます。」と彼の日韓交流に果たした役割を讃えました。それまで一般にはあまりその名が知られていませんでしたが、このスピーチが切っ掛けで、我が国でも注目が集り出しました。


昨年の夏に、滋賀県伊香郡高月町の雨森芳洲庵に行って来ましたが、展示物など一見に値しますよ。



次回から、『海游録』に描かれている内容に入って行きます。

  • 最終更新:2009-02-10 16:33:26

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