通信使が驚いた日本(その10)読書層

2009/02/05 12:31



申維翰は、日本で中国や朝鮮の本が多数出版されていることに驚いています。


「国中の書籍は我が国からのものが百を数え、南京から海商が持って来るものが千を数える。古今の異書、百家の文集にして書肆(書店)で刊行されたものは、我が国に比べて十倍どころではない。」


「(大坂の書店では)古今百家の文籍を貯え、またそれを復刻して販売し、貨に転じてこれを蓄える。中国の書、我が朝の諸賢の選集もあらざるはない。」


このような出版物の多さは、当然ながら書籍に対する需要の多さを物語っています。読書する人たちは、日本の識字率向上と町人の学問熱の高まりによって急拡大しつつありました。


日本の識字率は、室町時代からあった寺子屋が戦乱の収まった江戸時代に急増したため、18世紀初頭で世界最高水準に達していました。


また、町人の学問熱は、元禄町人文化の中で急速に高まります。この学問熱に押されるようにして、申維翰の来日する6年前(1713年)には三宅石庵が大坂安土町に町人向けの儒学塾「多松堂」を既に作っておりました。その後、大坂町衆が吉宗に嘆願して、幕府から土地を永代拝領し諸役免除の特権を得るや、1726年大坂尼崎町に町人による町人のための儒学校である「懐徳堂」を開校します。また、前述しましたとおり、1729年には、石田梅岩によって京都に心学塾が開かれます。


なお、日本の寺子屋では「読み・書き・算盤」という実生活に必要なものを教授していたので、子供達も興味を持って学び、識字率向上に寄与していました。一方、朝鮮中期以降に普及した庶民の初等教化機関である「書堂」や中等教化機関である「書院」では、官僚OB達が先生になり儒教経典を教科書に使い、素読、書道に加えて、詩作、経典解釈が教授されていました。このように教育内容が実生活と遊離した「高級なもの」であっただけに、脱落する者や寄り付かない者が多く、識字率向上に日本ほどの効果は挙がっていなかったのです。


朝鮮の機密文書さえ大坂の書店に並んでいたことを申維翰は嘆いています。

  • 最終更新:2009-02-10 16:17:00

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