通信使が驚いた日本(その2)商工業の発達


2009/01/07 06:45


通信使一行は対馬、下関から瀬戸内海を通って、9月に大坂に入りました。申維翰はその繁盛ぶりに驚き、次のように書き記しています。


「百工の技巧や商品を仲買する客が国中にあまねく、また海島の諸蛮(南蛮人など)と交通して、その繁華、富庶(豊かな民)、奇観は、天下第一というべきであろう。すなわち、古伝(この場合は『漢書』西域伝)に記すところの罽賓(ゲイヒン)国(物産に恵まれた中央アジアの国名)や波斯(ペルシャ)国も、必ずこれを過ぐることはないはずである。」


申維翰は何故、このように驚いたのでしょうか。


日本では鎌倉末期から近江商人の活動が活発化していましたが、室町時代の後半には堺の商人も台頭します。秀吉が大坂の城下町を整備し、徳川政権が更に大阪の繁華を誘導したこともご存知の通りです。その後、元禄期(1688~1704年)を経て、商業資本が繁栄を謳歌し、貨幣も潤沢に流通するようになっていました。


それにひきかえ朝鮮の経済は、はるかに遅れていました。


朝鮮経済が遅れていた原因は国家体制にあったといってよいでしょう。14世紀末に李氏朝鮮が成立して朱子学が国教となり、科挙で選抜された朱子学の優等生が官僚となったのです。そして彼ら官僚が朱子学理念で国家を運営する体制となりましたが、朱子学自身が商工業に対する軽視の傾向を強く持っていました。


特に商業は「末業」と蔑称され、商業の発展を抑えるのが朱子学者の役割と思われていたくらいです。今の北朝鮮で、頭の固い労働党員の官僚が資本家を指導することに似ているといっても良いでしょう。そんなことはあり得ませんが、もしそうしたところで、商品経済が発達する可能性は全くありませんよね。当時の李氏朝鮮でも商人には自由がなく虐待あるのみですから、経済が発達する訳がありませんでした。


李氏朝鮮で経済が発展しなかった背景に、朱子学から派生した上記以外の要因や、貨幣の問題もあります。

  • 最終更新:2009-02-10 16:10:32

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