通信使が驚いた日本(その5)貨幣

2009/01/17 06:45




前述したとおり、朝鮮時代の官僚組織は商業を軽視する朱子学思想一色に染められており、貨幣鋳造を国家の大事と考える官僚なんておりません(貨幣政策の軽視)。そのために、貨幣の流通量は朝鮮時代を通じて低水準に推移し、このことが、経済発展の大きな障害となりました。


朱子学思想とは無関係ですが、金銀銅の産出量が極めて少なかったことも、貨幣が普及しなかった原因です。名君と謳われ、ハングル文字を創り現実主義政治家としても知られる世宗王は、15世紀中葉に「朝鮮通宝」という銅貨を鋳造しました。しかし、銅の不足などから、あまり普及しませんでした。


申維翰は、日本の貴金属資源の状況に関心が深かったようで、日本人からの伝聞情報を、次にように書き残しています。


「陸奥州からは黄金が出るが、金山は海中にあるという・・・。石見、佐渡、但馬などの州では銀を産し、備中、播磨では銅を産す。」


奥州藤原氏の中尊寺金色堂や「金売り吉次」の話などからも、陸奥州の金は有名ですが当時はほとんど掘り尽くされていました。むしろ佐渡の金山は1989年まで掘っていましたから、当時は現役のバリバリでした。佐渡には金山も銀山もありますが、申維翰には銀山のことのみを語って、金山のことは秘匿したのかも知れません。朝鮮に近いから怖かったのかなあ。


『海游録』が書かれる少し前の17世紀後半に、朝鮮では銅貨「常平通宝」が鋳造されますが、金銀などを使用した高額貨幣の流通はほとんどなく、銅貨も末端の庶民までは行き渡りませんでした。銀貨は銀不足のために国内で作るまでに至らず、「天銀」という清国から輸入した銀貨と、「倭銀」という日本から輸入した銀貨が朝鮮国内で流通していました。


そのため、『海游録』の書かれた18世紀初頭でも、銅貨と併せて綿織物や米が通貨の役割を果たしていたのです。


19世紀に入って、やっと、朝鮮にも「朝鮮最高の大商人」と称えられる大商人が現れます。それがイム・サンオク(林尚沃、1779~1855)で、清国との高麗人参貿易で巨財を成した商人です。彼は、世のため人のために商売を行った理想の商人として、最近でも韓国の実業家やサラリーマンの尊敬を集めています。彼の人生も朱子学支配の下で、苦難に満ちたものでしたが、それを描いた「商道(サンド)」というテレビドラマは日本でも放映されたのでご覧になった方も多いことでしょう。DVDも売られています。http://www.koretame.com/sando/


次に、当時の日朝貿易の様子をお伝えします。

  • 最終更新:2009-02-10 16:25:30

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード