通信使が驚いた日本(その8)贅沢と礼

2009/01/28 06:45



大坂の富豪の屋敷を見て申維翰は、腰を抜かさんばかりにビックリしました。


「(富貴人の邸宅は広大な庭園と連結した建物がからなっている。庭には鏡のような池があり、怪石、名花が段をなしている。雨が降っても滑らないように庭に石を敷き、夜でも歩けるように行灯を灯している。邸宅の中は錦の帳、紅い毛氈などが美しく、入ればどこから出てよいか迷うほど広大だ。・・・以上要約)工巧のみを尊び、礼法は全く明らかでない。平民富豪もまた、王侯と奢(贅沢)を競い得る。その等級なきこと、かくの如きである。」


18世紀初頭当時の大坂商人の豊かさは、確かに相当なものでした。上記のような贅沢は、淀屋の闕所(けっしょ)事件(後述)の名残のようにも思えます。


淀屋の話を少しします。淀屋の初代は岡本常安という材木屋で、秀吉に取り入って淀川の築堤工事を請け負い、大金を手にしたのが始まりでした。それなのに、大坂の冬の陣、夏の陣になると、今度は家康のために茶臼山本陣、岡山本陣を構築して献上したという先の見える商人でした。その後、代々、幕府や諸藩の信用を得て、中之島の開発、運河の開削、魚市場の開設、米の海上輸送などを請け負って、5代目の辰五郎の時には巨富を手にしていました。


淀屋の辰五郎は、西国33藩の大名に金を貸し付け、取立て、豪奢を極める生活ぶりでした。「大書院、小書院は全て金張り・金ぶすま。広大な庭園を見るために障子は総ガラス張り。天井も総ガラス張りで天井裏に水を貯め、金魚を放つ。」このように当時の資料に書いてあります。総金張りの書院もすごいですが、ガラスも当時は大変な貴重品でしたから、恐ろしい生活ぶりです。


町人として目に余る驕りだとして、1705年に幕府はお家断絶とした上、淀屋を大坂所払いとした(淀屋の闕所)のですが、これには当時の時代背景もあります。当時は、新興商人である天王寺屋、鍵屋などが両替商として財を蓄え始めていました。それどころか、更に強大な、鴻池、住友といった総合金融・商工業資本が台頭して大坂と全国の経済界をリードし始めていました。淀屋のような江戸初期の官業下請け的商人は過去の遺物に過ぎず、幕府としても、商人への見せしめとして潰すには格好な、少しも惜しくない存在と化していたのです。


話を元に戻しましょう。


朝鮮では、儒教の「礼」に基づく秩序が国の末端まで浸透しており、士農工商の階層ごとに身分相応の家屋の規模と規格が決まっていました。身分不相応な住居に住まうことは、秩序を破壊する「等級なきこと」と見なされていたのです。商工業者を蔑視する朝鮮朱子学の権化である申維翰の目には、大坂商人の贅沢が「行き過ぎはあっても、経済活力の一種の発露」と温かく見るはずもありません。只々、苦々しく、「道に外れた国」とさえ思ったことでありましょう。


日本の技術についても申維翰は驚いています。

  • 最終更新:2009-02-10 16:20:20

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