通信使が驚いた日本(その9)職人魂

2009/02/02 06:30



申維翰は、日本家屋の寸法が標準化されていることに驚いて、次のように書いています。


「(日本家屋の)規格は一国内がみな同じで、少しの差もない。障子と畳はその一つが欠けることがあっても他所からこれを補って、みな符合する。国中で用いられる尺度の精なることが知られる。」


日本の漆器の品質についても感心しています。


「余は倭人が用いるところの器皿百物を見たが、みな、黒漆が鑑(かがみ)の如く、宮室、船板、駕籠などにもすべて漆を施す。漆の光沢は照耀として、わが国で見るそれとは全く異なる。」


通信使の表向きの使命は両国間の国書交換と友好親善です。しかし、朝鮮国王から与えられた裏の使命には、日本の実情を視察して、朝鮮を再侵略する恐れがないかどうかを探ることがあったと思われます。その意味で申維翰は、「尺度が精」で「(朝鮮と)全く異なる」日本の技術力に、秀吉軍の鉄砲の精度も想い起こされて、本能的な恐怖を感じたかも知れません。


通信使が来日した当時は、まだ石田梅岩が京都に心学塾を開いておりません。10年後の1729年に梅岩の心学塾ができ、その後、弟子達によって日本全国に塾が置かれ、商人や職人の勤労哲学を定着させてゆきました。それは、今日の日本人の「ものづくり精神」にも大きな影響をもたらしています。


梅岩は、「見るべき人が製品を見れば、作者の精神修養の程度が全部お見通しである」と些細な点もゆるがせにしない職人魂を称揚しています。通信使の記録から、梅岩以前にも日本では職人技が尊ばれていたことが偲ばれますね。そのころから多くの儒者が、世襲制の日本の現実を踏まえて「家業に専念することが天命である」と唱えていましたからその影響も少しはあったかもしれません。日本の職人達は、「天職観」を持って働いていたと言えるでしょう。


朝鮮の職人についてはどうだったのでしょう。安宇植氏は「続・アリラン峠の旅人たち」のあとがきで、次のような編集者のことばを紹介してくれています。

「(職人達は)韓国の歴史に一度として胸を張って登場することのなかった人びとです。規範文化(儒教文化)の背後で賤しめられ、虐待されながら暮らさねばならなかったその人たちの表情こそ、今日の韓半島に住んでいる私達自身の隠れたそれであることを明らかにしてくれます。」

朝鮮の職人達は、「天職」と考えることができず、「恨(ハン)」の思いが心身を締め付けていました。


日本の出版事情も申維翰を驚かせました。

  • 最終更新:2009-02-10 16:18:42

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード