(2)日本海のアシカ漁が発端、島根県に編入

【奪われた竹島】(2)日本海のアシカ漁が発端、島根県に編入
亀戸惣太2008/11/24

 1905年1月、日本政府は竹島を日本領に編入する閣議決定をする。当時盛んだった日本海のアシカ漁の中間基地として将来有望という漁民の請願を受け入れた形をとった。日露戦争さ中、旅順陥落と奉天会戦との間のことだった。日本による事実上の軍事占領下、韓国がまだかろうじて主権を保っていた時期だ。


 1903年(明治36)、日本海でアシカ漁を営んでいた島根県周吉郡西郷町の漁師・中井養三郎はある決心をした。「りゃんこ島(竹島)を拠点にしよう。きっとうまくいく」。「りゃんこ島」は竹島の当時の俗称だ。中井は隠岐島の漁港と韓国領の鬱陵島周辺の漁場とを往復する途中、たまたま立ち寄ったりゃんこ島には、おびただしい数のアシカが生息していた。漁の中継地として格好の島だった。

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竹島でアシカ漁を営む日本人。昭和初期の撮影(島根県提供) アシカはアシカ科の海獣で、アザラシ科・セイウチ科と共にアシカ亜目(鰭脚類)を構成する。日本海のアシカは現在では「絶滅」状態だが、当時のアシカ漁は盛んで過当競争の時代だった。良質の脂肪は鯨油と同様に灯火用や食用など幅広い用途があり需要が多かった。脂の搾り粕は膠の原料となり、皮革は牛革の代用として、肉粉は肥料として利用することが出来た。

 竹島には「リアンクール岩礁」という洋名もある。1849年にフランスの捕鯨船リアンクール号が現在の竹島を「発見」したことから命名された。中井らは竹島を「りゃんこ島」と呼んだが、「リアンクール」を日本式に訛って発音した表記のようだ。この島、あるいは岩礁の名称はなかなか確定せず、日韓間で長年にわたって変遷、混同されてきた。それが古文書・古地図の解釈を困難にさせ、今日に至る両国の紛争のタネともなっている。

 中井はりゃんこ島に小屋を建てて漁具類を保管し、夏期を中心に配下の漁師を住まわせた。捕獲したアシカの利用法の開発や販路開拓にも努力した。竹島に着目してアシカ漁を企業化した「先覚者」とみることもできる。周囲は「絶海の孤島に施設を設けるなど危険が多く無謀だ」と中井の企てを嘲笑したという。

 中井の最大の気がかりは、りゃんこ島が日本のものか韓国の領土か、はっきりしないことだった。万一、韓国領ということになったら、せっかく島に資本投下しても、追い立てを食ってゼロになってしまう。中井は1904年9月29日付で内務、外務、農商務の3省に「りゃんこ島領土編入並ニ貸下願」と題する請願書を提出した。この島はアシカ漁の基地として将来有望だから日本領土であることを明確にすべきだ、その上で自分に10年間独占的に貸し下げてほしい、とする内容だった。


竹島の島根県編入を表明した1905年の島根県告示 中井は請願書の中で、りゃんこ島を次のように説明している(意訳)。


 「島は中央に海峡をはさむ2つの岩礁からなり、周囲15町(約1.6㎞)ある。島を大小数十の岩礁が点々と取り囲んでいる。島の2つの岩礁は高くそびえ立つ断崖絶壁で、頂上に雑草が少し生えている他は1本の樹木もない。

 海辺の湾曲したところは砂と小石の浜になっていて、建物を構えられそうなのは一方の岩礁の海峡に面した1ヵ所しかない。この岩礁の中腹のへこんだ場所には茶褐色の水がたまっている。

 もう一方の岩礁は、やや塩分を含むものの澄んだ水が断崖から滴っている。船は中央部の海峡を中心に、風向きにより左右に避けて停泊すれば安全である」

 政府は、竹島が過去に他国によって占領された事実がないこと、日本国民である中井が1903年から竹島に漁舎を建て漁具と漁夫を移していたこと、の2点を重視し、「国際法上無住の地を占領した事実」に当たると判断した。1905年1月28日、政府は竹島を日本領土に編入し島根県に所属させる閣議決定をした。この閣議決定は、現在の日本政府が竹島の領有権を主張する最大の根拠の一つとなっている。

 島根県は閣議決定から約1ヵ月後の2月22日、「竹島を島根県所属、隠岐島司所管とする」ことを告示した。閣議決定と島根県告示を通じ、請願者の中井が表記した「りゃんこ島」の俗称は捨てられ、この島の名称が初めて「竹島」と正式に確定した。2005年に島根県が「竹島の日」を制定し韓国から大きな反発を受けたが、それはこの告示から100周年に当たることを記念するものだった。

 竹島の編入当時、日本はロシアと存亡を賭けた大戦争の真っ最中だった。1905年1月初めに旅順のロシア要塞をようやく攻略したが、陸戦の勝敗を決めた奉天の大会戦は閣議決定の翌々3月のことだ。日本は開戦と同時に韓国に出兵し、事実上の軍事占領下に置いていた。9月に日露間でポーツマス講和条約が結ばれ勝利が確定すると、日本は11月に韓国に第2次日韓協約を強要し、締結した。これにより韓国は外交権を奪われて日本の保護国に転落する。竹島の日本領編入は、微妙ではあるが、まだ韓国が曲がりなりにも主権を保持できていた時期のこととなる。

 ところで、中井が「(竹島が)どちらの領土かはっきりしないから安心して漁ができない」と政府に明確化を求めたのには歴史的な理由があった。明治政府による編入以前、竹島は日韓両国にとって非常にあいまいで希薄な存在感を持つ島だった。

(つづく)

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竹島の島根県編入を表明した1905年の島根県告示


主な参考資料:
・「りやんこ島領土編入並ニ貸下願」
・明治38年1月28日閣議決定書類
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  • 最終更新:2010-06-13 15:45:57

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