(4)明治政府は領有権をいったん放棄していた!

【奪われた竹島】(4)明治政府は領有権をいったん放棄していた!
亀戸惣太2008/12/10

 明治新政府は1877年、地籍編纂の過程で太政官指令を出し、竹島の領有権を放棄した事実があった。この点では韓国側の「日本は独島(竹島)の領有権を放棄したではないか」との指摘は明らかに正しい。日本外務省がこれに対する見解を示さないのは、「日本側に不利」と考えて認めたくないからだ。


 韓国側が日本の竹島領有権を否定する有力な根拠の一つに「日本はかつて独島(竹島)の領有権を2度にわたって放棄したではないか」という主張がある。ほとんどの日本国民には初耳である。そんな事実が実際にあったのだろうか。詳しく検討してみよう。

 朝鮮は15~19世紀、沿岸部の漁村などを襲って略奪行為を働く日本人の海賊・和冦に悩まされ、対策として鬱陵島に「空島政策」を敷いていた。居住者をすべて本土へ強制的に移住させ、以後、島に人が住むのを禁じる。襲撃する対象がなくなった倭寇を寄りつかなくさせる作戦だ。鬱陵島は事実上、朝鮮の施政権が及ばない「無人島」状態が続いていた。

 そこに江戸幕府から「渡海免許」を受けた出雲の漁業者が進出し、鬱陵島を足場に周辺海域で漁労をしていたことは前回記事で述べた。1692(元禄5)年、大谷家が出漁すると、多数の「密漁」朝鮮人と遭遇し、争いとなった。のちに「竹島一件」と呼ばれた漁業権紛争ないし領有権争いの発端である。この当時の「竹島」は、前回述べたように鬱陵島のことを指す。「一件」は現代でいえば「事件」「問題」程の意味だ。

 翌年、大谷家は再び朝鮮人「密漁者」と遭遇し、安龍福ら2名を日本に連行した。取り調べた後に安を帰国させたさい、朝鮮側に鬱陵島への渡航を禁止させるよう求めた。しかし、鬱陵島の領有権を主張する朝鮮側と幕府の間で交渉が難航した。「無用の小島をめぐって隣国との友好を失うのは得策ではない」。4年後の1696年1月、幕府は鬱陵島への日本人の渡航を禁じる決定を出した。事実上、朝鮮側の鬱陵島領有権を承認したことになる。

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明治10年に明治政府が「竹島外一島」を放棄した資料(「公文録」第二十五巻・明治十年三月・内務省伺、国立公文書館蔵)

 韓国の独島学会などの資料によると、韓国側はこの「竹島一件」の結果、「日本は鬱陵島と独島を朝鮮の領土であるとあらためて確認した」と受け取っている。韓国側には「独島は鬱陵島の付属島嶼」という理解が支配的だ。鬱陵島を放棄したのだから、その付属島嶼の独島も「自動的に」放棄したことになる、という考えだ。

 しかし、実際には両島の距離は約92kmも離れており、地理学的概念からは「付属島嶼」とは認め難い。従って、「自動的に放棄」説は「付属島嶼」が否定される以上、根拠とはならない。韓国側も「竹島一件」では、日本が松島(現在の竹島)を放棄したという直接的な文献は提示できない。日本政府はもちろん、「竹島放棄ではない」という見解だ。

 この「竹島一件」を韓国側の言う最初の竹島放棄とすると、2度目の放棄は、1877(明治10)年のことである。当時、地籍の整理・編纂を進めていた明治新政府の内務省は、竹島(鬱陵島)の帰属を確定させようとした。島根県の意見は、「どちらに属するか不明確だから、このさい日本領としたらどうか」というものだった。そのさいに、旧幕府時代に大谷家などが作成した「竹島(鬱陵島)松島(現在の竹島)之図」の写しなどの資料も添えて提出している。

 しかし、内務省は島根県意見を直ちには採用せず、さらに現在の内閣にあたる最高行政機関の太政官に指令を求めた。太政官は77年3月29日、「竹島外一島は本邦と関係ないと心得ること」という趣旨の指令(回答)を出した。「竹島」はもちろん鬱陵島のことだが、では、「外一島」はどの島を指すのか。韓国側は「現在の独島(竹島)のことだ」と主張するが、日本外務省はなぜか、この重要資料についての見解を示していない。

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日本の地理認識が混乱している例を表した地図。「アルゴナウト島」(アルゴノート島=竹島)が実際にはありえない位置に記載され、「タゲレー島」(ダジュレー島=松島)は現在の鬱陵島のほぼ正しい位置にある。江戸幕府天文方・山路諧孝による「重訂萬國全圖」(1871年)所載(筑波大学附属図書館ウェブサイトから)

 江戸時代中期の1787年、フランス人が鬱陵島を「発見」して「ダジュレー島」と命名した。2年後にイギリス人も「再発見」し、今度は「アルゴノート島」と命名してしまった。英仏間で測量に誤差があり別位置となったことから、ヨーロッパの地図では鬱陵島が「ダジュレー島」「アルゴノート島」として2島あることになってしまった。この影響を受けた地図が日本に持ち込まれ、複製されて島名の誤解に拍車をかけた。

 島根県の「竹島問題研究所」は、こうした事情を受け、明治政府が太政官回答で領土放棄した「竹島」と「外一島」は「ダジュレー島」と「アルゴノート島」を指し、つまり鬱陵島の別名を混同したのだ、としている。しかし、これはあまりにも「牽強付会の説」というべきだろう。島根県が竹島・松島の関係図の写しを内務省に提出していることからみても、太政官が「鬱陵2島」説の誤った認識を持っていたとは考えられないからだ。

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1877年の太政官指令に添えられた「竹島外一島地籍編纂方伺」の「磯竹島略図」(「公文録」より)。「磯竹島」は鬱陵島のこと。「松島」は2つの岩礁から成り、現在の竹島を表す 太政官が内務省に指令した77年の文書には「磯竹島略図」という地図が添えられていた。それには「磯竹島」と、それよりはるかに小さい「松島」が描かれており、松島から見て磯竹島は「乾四十里(北西160km)」に当たる、と説明されている。

 磯竹島が竹島(鬱陵島)の別名なのは議論の余地がなく、また松島は位置関係や2つに分かれる島の形からいって、現在の竹島に当たるのも疑いない。両島の間の距離に矛盾があるが、正確な測量が行われていない時代には「誤差の範囲」と考えられるだろう。この付図の目的から考えても、「外一島」とは現在の竹島を指しているのは間違いない。日本政府が「鬱陵島と竹島は日本領土でない」と認めた明白な証拠と言える。

 結論から言って、韓国側の言う「日本は独島(竹島)を2度放棄した」は「1勝1敗」ということになる。1692年の「竹島一件」で放棄したのは鬱陵島のみで竹島は含まれなかった。しかし、1877年の太政官指令では鬱陵島と同時に竹島も放棄していたのだ。外務省が太政官指令に対する見解を示さないのは、日本側に不利な事実を認めたくないためと考えられる。

 それでは、1877年以降、竹島は朝鮮領土となったのか。太政官指令は単なる内政上の書類で、当時の朝鮮政府とは無関係に行われた。竹島を積極的に朝鮮領土として認めたものではない。利用する者のない公海上の無人島として放置されたものと考えることができる。「無主の島」だったが、20数年後、漁労上の必要から日本国民が実効支配するようになった。そこで、1905(明治38)年に改めて日本領土として編入した、という論理は成り立つのである。

 逆に、この20数年間に朝鮮側が竹島を実効支配した事実があり、それを主張していたら、竹島は「独島」として今日も明らかな韓国領土となっていただろう。このちっぽけな岩礁にだれが価値を見出し有効利用したか、それを近代法的な手続きで処理していたかどうかが、分かれ目となったのである。

(つづく)

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日本が呼び名を混同していた鬱陵島周辺の関係図(外務省ウェブサイトから=クリックで拡大します)



  • 最終更新:2010-06-13 15:26:51

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