(7)「侵略に自衛権発動も」政府は答弁したが……

【奪われた竹島】(7)「侵略に自衛権発動も」政府は答弁したが……
亀戸惣太2009/01/19

 1952年に「李ライン」が宣言されると、竹島周辺海域は韓国海軍の「制海権」下に置かれ、日本漁船の拿捕が相次いだ。日本の巡視艇と韓国軍艦がにらみ合い、一触即発の危機も何度か起きた。65年に日韓基本条約と漁業協定が結ばれたが、竹島は棚上げされたままで、解決の見通しも立たなくなった。

 「本朝来情勢緊迫ス」――。日本が戦後のアメリカ軍占領下から脱してようやく独立主権国家となった直後の1953年(昭和28)、韓国との間で竹島をめぐり「戦闘寸前」状態に至ったことがある。

 9月8日午前8時25分、水産庁の監視船・第1成洋丸は日本海の北緯33度、東経127度の済州島東方海域から「情勢緊迫」と打電してきた。通報を受けた水産庁は東シナ海にいた別の監視船を急派。最初の通報から1時間後の午前9時30分、この監視船が今度は「韓国軍艦10隻ヲ認ム」と打電してきた。

 韓国軍艦は「李承晩ライン内の日本漁船は、たとえ武力を使ってでも退去せしめる」と警告。日本側は「韓国の一方的決定は絶対承服できない」と回答した――。日韓の国交正常化交渉は並行して行われていたが、「現場」はこのような一触即発の状況だった。日本側は直接交渉に望みをかけ、巡視船で日本漁船の保護を続けながらしのいだ。

 「李ライン侵犯」による日本船舶が拿捕された件数は、52年11月時点で149隻、乗組員1,613人。最終的には3,000人以上が抑留され、同海域の漁業者に与えた被害額は当時の金額で70億円とも100億円ともいわれた。抑留者の1日の食事は「新聞紙1枚を買う値段」(5円)に過ぎなかったという。

 「日本海海戦をやれば、こちらが負けだよ」。52年の韓国の「李承晩ライン」宣言以来、日本の保安庁高官からこんな自嘲も出るほど緊迫した情勢となっていた。

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「大邦丸事件」で「フリゲート艦の出動もあり得る」と情勢緊迫を報じる当時の新聞

「負け」の理由は単純に彼我の「戦力差」だった。新憲法下、本来は戦力など持てない日本の保安庁警備隊(後の海上自衛隊)が保有する艦艇は1,400t級フリゲート艦11隻と250t級上陸支援艇47隻が主力。対する韓国海軍は2,000~3,000t級駆逐艦が20数隻、600t級巡視艇が約40隻と伝えられていた。「日本警察対韓国海軍」の構図でもあった。

 こうした状況の中、連載第1回で触れた1953年2月の「大邦丸事件」は、起こるべくして起きた事件と言える。韓国軍人が乗船した警察哨戒艇により日本人1人が射殺されたこの事件について、韓国政府スポークスマンは「韓国領海3マイル内に侵入した日本漁業者たちの自業自得」であり、「(日本政府による)韓国政府に抗議うんぬんは言語道断」と強硬姿勢をとった。

 しかし、事実関係は異なる。日本の国会で参考人として発言した「大邦丸事件」の当事者らによれば、銃撃があったのは実際には済州島から約20マイル離れた公海上であった。韓国の声明では、日本船舶に対し再三の停船命令を行ったという。しかし、乗組員は「操業中2隻の船が近づいてきて日本語で『魚はとれますか』と聞かれた」だけだったとし、この直後に突然激しい銃撃を浴びたと証言した。

 一連の拿捕事件に日本の世論は激高した。53年2月21日の国会で、甲斐中文治郎衆議院議員(自由党吉田派)は「(日本政府は頼りないから)この上は機関銃を1丁ずつ貸してくれ」という漁業関係者の要望を紹介した。また韓国のやり方に「政府のやることではない、海賊のやることだ」と批判、「(日本に)強力な海軍があったならば、朝鮮はあんなことをやらない。ないからやるのだ」と指摘した。

 当時の新聞には「政府、自衛権発動を決意」「実力行使も辞さず」(毎日新聞)との過激な見出しがみえる。一方で直接交渉による平和的解決を望む声も多数あったが、話し合い解決に成算は立っていなかった。

 54年6月、韓国内務部は警備隊を竹島に派遣したことを発表した。韓国側の手で竹島に灯台が建設されていたことも確認された。8月に日本の巡視船が竹島から銃撃を受ける事件も起きた。このころ、日本の海上保安庁は巡視船20隻を2~3班交替で常時6隻を同海域に派遣していた。

 韓国による竹島の占拠、実効支配がだんだんと確実なものになっていったこの時期、日本政府の態度は反比例するように「極度に柔軟」、かつあいまいなものだった。

 「李ライン」宣言から2年が過ぎた54年4月時点、政府は「まだ国際紛争というところまでは行っていない」(木村篤太郎保安庁長官)という認識を示した。竹内春海・外務省アジア局第2課長は「武力攻撃あるいは武力占領というよりも、不法入国というふうな現状」との「私見」を示し、山田誠・防衛庁防衛局長も「不法侵略と断定することは時機尚早。いわば一種の不法入国」と、ことさらに「軽視」してみせた。

 このような政府の態度を律していたのは「平和憲法」の別名も持つ新憲法の戦争放棄理念(前文、第9条)の影響が大きいとされる。国会では自衛権行使をめぐる憲法論議がさかんに行われた。もちろん、一方では、日本が韓国と戦えるような「戦力」を全く持っていなかった現実問題もある。

 それでも、吉田茂内閣に代わって鳩山一郎が政権の座に就いた1955年ごろから日本政府の見解がようやく「柔軟路線」から変化の兆しを見せ始めた。

 鳩山首相は国会で「率直に言えば、竹島は日本の領土です。日本の領土を占領せられたのでありまするから、これは侵略と見るのが妥当で、自衛権の発動はできるわけであります」と答弁した。重光葵外相も「理論的には今からでも竹島に対しては自衛権の行動を開始し得るというふうに考えてよろしいのですか」との国会質問に、「理論的にはそうだと考えます」と答えた。

 外務省の下田武三条約局長もまた「現在竹島に韓国の警備兵を置いておるのは明白な日本領土の侵犯であります」と述べた。自衛権発動が理論的に可能ということは、日米行政協定(日米地位協定の前身)の規定により、在日米軍の出動が可能であることを意味していた。

 この時点で日本がとれる解決手段は、実力行使(自衛権の発動)のほか、国際司法裁判所への提訴、第3国による調停、日韓両国による交渉、だった。しかし、国際司法裁判所へは両当事国の合意がなければ提訴できず、韓国は日本の提案を拒否した。また、第3国に想定される米国は不介入を表明した。

 といって、武力による竹島奪還は、憲法はもちろん、国際社会が認めないだろう。残る選択肢は、日韓両国による話し合いだけだった。

 実際に、両国は水面下も含め、長期の忍耐強い交渉を重ねる。何度もの決裂の危機を克服して65年6月に締結された日韓基本条約はその成果だ。両国は戦後初めて国交を正常化し、正式な外交関係を結んだ。

 問題の「李承晩ライン」は、同時に結ばれた日韓漁業協定での話し合いによって解消された。その一方、本来なら基本条約にこそ書き込まれるべき竹島の帰属については棚上げされた。最大の懸案だった領土問題を抜きにして、どうして実質的な「平和条約」を結ぶことができたのか。――そこには現在も消えない、時の権力者による「密約」疑惑がささやかれている。 ◇ ◇ ◇




  • 最終更新:2010-06-13 14:48:33

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