18.19C前後の鬱陵島及びLiancourt Rock付近の漁業

18.19C前後の鬱陵島及びLiancourt Rock付近の漁業    竹島・独島 | 伝統 3026|1
1634002| globalexplorer | 2007.10.29 21:45:33  


 
とりあえずメモ程度に投稿しておきます。どこにも于山島や石島と呼んでいる記述はありませんし、韓人が1902年以前に鬱陵島外洋およびLiancourt Rocksで漁をしている記録はありません。(鬱陵島の沿岸部での漁の記録は有る。)
1860    日本人も韓人も渡航している形跡あり。
1879    鬱陵島での日本人海女の記録

1880年代 日本人による違法伐採が深刻
       韓国人は大豆、小麦大麦/採集漁業:若布などだが、漁業は盛んでない。
       日本人は朝鮮半島沿岸部での漁業調査開始


1883    日本人が鮑を取っている形跡が有る。

     
1894    日本人による鬱陵島への探検・調査航海がはじまりつつある。

1890年代。引き続き漁業調査が盛んに行われている。

       半島側、江原道沿岸では潜水機漁や魚類、鯨類の記述あるも、鬱陵島の話はそれほど出てこない。日本側の記録は日本人や韓人がどこでどのように、何をとっているか、島の名前等、詳しく記録を残している。水産試験場等の報告が多い。
       
1895~1900年頃? 
       日本人は1901以前以前から、鱶漁をりゃんこ近くで実施。
1902    日本人の潜水器漁は鬱陵島ですでに始まっている。
1903    『韓海通漁指針』発行
       このころから、"漁産未だに盛んならず”との文章がなくなってくる。
1903    此の頃近海で海驢漁をしている日本人、白人がいる。
1903    日本人による烏賊漁開始

1903    日本人によるやんこでの海驢漁開始
1904    やんこ島での海驢、鮑や海藻などが活性化
       これにより中井が独占権免許の申請を行う
1905    やんこ島編入、竹島と改称
1906    韓人は日本人調査団を歓迎する一方で、議政府へ”報告”

       議政府は調査依頼するも、そのご音沙汰なし。
1908    韓人による烏賊漁開始

1937(-42) 鯖の延縄漁が盛ん、しかし衰退しふたたび烏賊漁に回帰

1957    スケドウタラの延縄漁が盛ん。

1903年頃から鬱陵島の漁業は日本人による漁業技術の伝播によって活発化されます。
それ以前はおもに韓国人は鬱陵島の沿岸部で海藻類を取っていた模様で、外洋で漁業している記述はありません。(あったらご教授願います)
これは当時の朝鮮の造船技術と関係がありまして、朝鮮船というものは、元来釘などを使用せず構造上非常に軟弱であったのですが、日本の隠岐船が普及するに当たって朝鮮<ニダ>人も活動できるようになったことと関係があります。鬱陵島には日本人の船大工が住んでいて造船を行っておりました。この日本の隠岐の船は非常に構造上有利なために、外洋でも活動できたのです。


朝鮮の漁船に関してですが、

漁船の数は大正九年末にて朝鮮方一万四千隻、内地方一万二千隻であったが、之を明治四十四年に比較すれば前者に於いて約一倍半、後者に於て約四倍の増加である。猛烈な勢いで内地型漁船に改良されていく時代の様子が窺はれる。然し昭和十五年には内地型漁船三万五千五百隻となり、漁船総数の六割に当る躍進振りである。かく日本漁船に転向した理由は、従来の朝鮮方漁船にいくつかの欠点があつたからである。彼我漁船の優劣を比較すれば、内地型は堅牢で耐波性に強いが、朝鮮型は用材は厚いが木釘を使つてあるから之が弱い。内地型は船体軽快で運用並みに漁具の操作に便であるが、朝鮮型は船体幅広く重すぎて運用作業に不便である。又内地型は漁艙設備を有し漁獲物の処理に便であるが、朝鮮型には之を欠くから不便である等、日本型漁船の優秀性が数へられる。然し反面内地型建造用材は杉檜であるため朝鮮にては船価が高価になるとか、朝鮮型は難破しても木釘製であるので、その用材を集めて直ちに修理が出来る等の利点をも見出せる。然し旧来型を日本型に改良したため、その漁業能率を向上し日本漁法の応用には日本型漁船が適当しているる等で総督府でも多額の補助金を輿へ、或いは船匠講習等を開催する等鋭意之が改善に努力した結果、年々朝鮮型は日本型に改善され、かく船数増加をなした所以である。動力附漁船は内地より遅れて発達し大正八年ねいは十隻に過ぎなかったが、昭和十五年には二千八百余隻に増加した。
吉田敬市「朝鮮水産の開発変遷]]『大東亜地政学新論』1943


明治、大正、昭和時代の話ですが、
主に鬱陵島民が若布を採取するのに使っていたのが筏船であります。是は非常に対波性が弱く、外洋で漁を行うことは出来ません。喫水はないに等しいです。この筏船では、なんと秋刀魚の手掴み漁を行うときにも使っていたそうです。ちなみにJukdo以内、本島から500-800Mの付近では秋刀魚の手づかみ漁、Jukdoのむこうがわ1Km以内の沿岸部では烏賊を捕るとのことです。

この筏船は、カンコという小型の風帆船に、1920年頃から代わって行ったそうです。




一方日本の隠岐船は、堅牢で対波性がつよく、かつ少人数で運行できるために漁船として鬱陵島から朝鮮のあちこちに伝播しました。

烏賊漁については、佐渡の烏賊漁道具が、隠岐を経由してやはり鬱陵島に伝播、そこから半島に広がりました。このため今でも烏賊漁の道具には佐渡にまつわる名前がついております。
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1787. La Perouseの航海日記

1787.05.25

(日本沿岸と朝鮮南岸の間を済州島から通る)沿岸に沿って、サンパン?板かジャンクが、十二隻航海しているのが数えられた。このジャンクは中国のものと同じで筵の帆をあげていた。


1787.05.27

島は海に傾斜しているが、山頂よりは垂直にちかい剥き出しの岩壁で囲まれている。此の海岸に純中国式の造船場を発見した。

作業員は間近に我々の軍艦を発見し、当然驚いたようで、、作業場より50歩ばかり離れた森の中へ逃げ込んだ。此の付近には小屋が数棟あるのみで、部落も耕作地も無かった。大工等はおそらく60海里離れた朝から、夏季此の島に食料品持参で渡来し、船を建造し、是を大陸で売却するのだろう。

此の我々の考えはほぼ間違いなかった。それは我々が西岬を迂回したとき、岬にへだてられて、我々の接近が見えなかったほかの造船場の作業員が、材木のそばで作業を続けながら我々に驚いていたからである。そして少しも不安を示さなかった例外的な2-3人を除いて、全員森の中に逃げ去った。

・純中国式の造船場が鬱陵島にあった。西側の岬の近くにもある。

・小屋が数棟あるのみで部落も耕作地も無い。(空等政策以前はあったのに)



1836 竹島密貿易事件

・松島(Liancourt Rocks)へ行くと言い、竹島(鬱陵島)へ渡航して罰せられる



1848.04.17

・米国の捕鯨船Cherokeeが1848年に4月17日にLiancourt Rocksを発見、スケッチする

1849

・フランス捕鯨船Lianocurt 号がLiancourt Rocksを発見



1869.02

鬱陵島に、”大日本國松島槻谷 明治二年二月十三日 岩崎忠照建之”と碑文を立てる

(1882の李の復命書に述べられている)

・日本人が鬱陵島に渡航していた



1870.Arthur Adams

"...As we landed in a little bay, we perceived three poor Koreans at work. We observed that they were engaged with adze (an axe-like carpenter's tool) and saw in repairing a dilapidated boat exactly as La Perouse found those he saw eighty years ago. They had dried vast numbers of haliotis or sea ears which they string on rattans for the Chinese market which they sell at a rate of three hundred for a dollar. They likewise collect great heaps of dried seals' flesh...The Korean fishermen dry large quantities of petrels, leaving their skins in mouldering heaps along the shore..."

・鬱陵島で小舟を修理しているのを見ている

・中国に売るための干し鮑を持っている、海驢の干し肉を持っている。



1879. (朝鮮水産産業史1954吉田敬市)

山口県大浦の海女が明治12年頃すでに鬱陵島方面まで出漁していたといわれる。

この記述を吉田敬市先生がおそらくは総督府資料または山口大浦の日商組合で入手したものと思われるがまだ出所がはっきりしない。



1880.Erns Oppert

Korean fishing boats resembles the Japanese more than Chinese, they are of of rude construction. The outer planks are fitted one above the other with wooden nails.and they have mat sails.Although very deep, they have no decks, but a few beams across, and the whole hold is open which the caught fish is thrown.Each of boats appeared to carry a crew of some their forty men, but later on I saw some with the crew more than sixty men on board.The white dresses of the natives, which had looked so bright and pleasing from distance,lost muchi of their apparent freshness and nearnest when closely looked at.

・朝鮮の漁船は中国のよりはむしろ、日本のそれに似ていたが、粗末な構造であった。

この記述は朝鮮の西海岸での記述である。(東海岸ではない)



1882.李圭遠の鬱陵島調査

この時点で農業はまだ盛んでもない

・漁業も特に盛んだという記述は無い。

・船(舟)をつくりに季節的に渡航している韓人(主に湖南)と、薬草を取りに来ている韓人がいる。

・日本人も鬱陵島に来ており、”日本帝国松島”の標識を立てている。また、李が日本人に会い、質問しているが、数十年前から鬱陵島に来ていたと述べている。



1883.00.00 『水路雑誌』
松島   此島は洋中の一孤島にして、我隠岐国隠岐島より北東二分一、東一百三十四里、長門国角島より
北二分一、東一百八十五里、釜山浦より北西四分三、北二百六十五里の処に在り。全島巖石より成るものの如く、而し樹木蔚然、周囲は絶壁多く唯南東面に少しく平坦なる処あり。我輩の此に到るや土人の小舎を構へ漁舟を造るを見たり。他の浜岸は小舟と雖も近つく可らさるか如し。東方に一小嶼あり。且奇石怪巖島を環らして星羅せり。我艦航走中此島頂の高度を測りて二千三百九十一尺を得たり。

・土人(=現地人=韓人)が小屋を構えて漁船を作っているのをみている(どんな種類の船かはこの文章では判断できない。)
・松島=鬱陵島は、小舟といえどもなかなか容易に停泊できる島ではない。(港湾がまだ整備されていない。)


1883.09. 『朝鮮国蔚陵島出張檜垣内務少書記官復命ノ件』
本年陰暦二月、着島するや碇ヶ浦と唱うる地より尠し山辺に拠て仮小屋を営み居住す。此小屋は僅に雨露を凌ぐに足るのみ。」
「朝鮮*人も亦我人民同様、仮小屋を営み住居す。只土牀を設けたる所、僅かに勝るに似たるのみ。」
「全島の周囲に出稼人住居せり。相互に往来するは単に島中を縦横する所の小径に依るを以て最も困難を極め、時としては数日夜を経て漸到達す。」
「山中は喬木蓊鬱たるを以て、其下蔭は堆葉深苔のみ。一の荊棘なし。故に甲地より乙地に往来するもの、日暮れば野宿露臥するを常とす。」
「木材は何所を伐採するとも概して之を言ば、其痕跡を露わさゞるに似り。故に即今迄伐採したること夥多なるにも拘らず、曾て此場所を伐採したりと認べき程のヶ所なし。唯僅かに木材を運搬したるの路あるのみ。以てその蓊鬱たるを知るべし。」
「伐採する所の木材は欅のみにして、他の樹木に着目するものなし。蕃茂する樹木は、欅、桑、桐を第一とす。白檀の如き断崖絶壁の間に生長するが故に容易に採り得べきものにあらず。」
「海産中、重なるものを鮑とす。本年其季は採取に従事するものありたるも、即今は尽く帰国せり。」

・日本人が鬱陵島から撤退。
・全島の周囲には出稼ぎ韓人が仮小屋を建てて居住していた。
・日本人の鬱陵島への主な渡航目的は材木伐採であり、欅、桑、桐、白檀を伐採していた。
・日本人は鮑を取っていた。


1885朝鮮の現況(1885)アムール州総督官房付、公爵ダデシュカリアニ

朝鮮政府が武器を購入するために、豊かな森林資源を蔵する鬱陵島の開発件をミッチェルという英国人に供与している。此の島から上がる収入は速射砲と大砲の購入に注ぎ込まれる。



1889Dydymov(Russia)が日本海で捕鯨を始める。
近代的Norway式捕鯨法を採用
セミクジラ(アメリカ式捕鯨法)はもう枯渇しているために、長須鯨がおもな捕鯨対象。

Cf:1848年から1860年代まではアメリカ式捕鯨法によりアメリカはセミクジラを捕鯨していたが、
資源が枯渇し、また石油の発見によりアメリカの捕鯨は衰退。
このとき、アメリカ人が鬱陵島や半島東部に上陸してパニックになったことが有る。


1893.10『朝鮮通漁事情』M26.10
鬱陵島は一に武陵或は羽陵と云ふ本邦人は松島と称す蔚珍より東に当たり凡三百五十韓里の海上にあり風便なれは2日にして到るへしと云ふ往昔は于山国と称し始んと無人島なりしか中世朝鮮政府は人民ヲ移住せしめ今は若干の戸数あり其の島樹木に富み島の周辺魚介饒と雖も総て岩礁XXとして大船は近く可からず其最小漁船を着くへき処も唯一一箇処あるのみ然るに海路遼遠にして最小漁船の能く抵るへきにあらざるを以って本邦人未だ漁をするもの有らず  


・やはり最小漁船を停泊しておくことの出来る港は一箇所。大船は近づくことが出来ない。(港湾が未整備)
・日本人はまだ漁をしている者はいない。


1894.01.14 『山陰新聞 漁船改良丸の好果』
隠岐国四郡共有漁船改良号は、曽て鱶釣漁業奨励の 為め新造せられたるものにして、之れが調整は山ロ県阿武郡、原田儀三郎氏の手に成れり。元来該船は同県にて鱶漁業に用い、遠く朝鮮近海の出漁に従事せるが、其構造の堅牢にして風浪を凌ぐに便なること他の漁船遠く及ばざる所なるを以て、世に改良漁船 の名誉を博し鱶釣には実に此船を模範とす。本県に 於て夙に鱶漁の必要を感じ奨励怠たらざりしか、未だ充分の発達を見る能はざるの憾あり。客歳隠岐国 知夫郡・宇賀村、真野哲太郎氏は該船を借受け、試みに朝鮮国鬱陵島(又竹島とも云う)に航海せんと水夫 二名外二名の乗組にて出帆せしが、此日や東北風に して海上風波荒らく殊に北国通の大船すら出帆見合せ居る有様なり。夫れより漸次天気模様悪しくな り風波益々猛烈にして怒濤は屡々船中に侵入し、水 夫は多年船乗業に熟練し且つ胆勇の聞えある者なるを以て此処こそ平素の技倆を尽すべき所なれと 必死に力を尽し、海上遠く八十余里の間、風波の難を 凌ぎ五日の日数を経て渡海したり。其間劇浪の侵入せること数十回なるを知らず、然れども船体一ヶの 損処も無く一同忿こなく到着したり。是れぞ改良船の 成績ならめと島民は云い合えりとぞ。

・鱶漁業に従事
・カイリョウ船(改良丸)によって、元来難しかった鬱陵島への渡航が容易になる。


1894.02.18 『山陰新聞 朝鮮竹島探検(松江佐藤狂水生投)』   (竹島=鬱陵島)
客歳水産上に関し隠岐国各漁村遊歴の際、偶々竹島出航の議あり、余兼ねて遠海漁業の必要を感じ常に誘導し居るも、未だ其業を果さざるを憾めり、依って茲に端緒を開かんと欣然其の挙を賛成し奮って準備に着手す、遂に漁夫其他乗組員十一人にて船を艤し六月四日島前解覧、島後福浦港に順風を待つ、同月二十四日を以て出帆したり、元来我一行の乗込める船はは鰤釣に使用するものにて船体差程堅牢ならず、加ふるに糧食器具等充分に積荷せるを以て殆んど船中に満つ、僅かに居処を存するのみ、故に船は吃水線より露出する尺余なり、之を以て一意海上平穏を祈れり

・竹島(=鬱陵島)への遠洋漁業の必要性が議論され始めていたものの、まだ実施されていなかったが、この頃から準備に着手し始める。(カイリョウ船の登場も大いに関係がありそうである。)

竹島は隠岐より西北八十余里の洋中に孤立し、船を 駛する五十余里に至る頃ろ一ケの孤島あり、俗之れ をリランコ島と云う。其周囲凡そ一里許りにして三 ケの島嶼より成れり、此島に海獣海驢棲息し数百頭 を以て数うべく其叫声轟々として喧しく此近海は 鯨族の群遊ありて実に無比の捕鯨場たり、鯨種は充 分の調査を遂けざるも多分長須坐頭ならん、之れを 捕ふるには遠洋漁業の仕組にて汽船或は風帆船の 補助を仰ぐにあらざれぱ能はざるべし、此より三十 余里を隔てゝ竹島あり、海流に就て日はんにリラン コ島は寒暖海流の堺界線として可なるべし、何となれば日本領海より此の島までは暖流即ち黒潮の支 流にして以北は寒流即ち来満派の流域なり、蓋し暖 気は北赤道海流を源とし其一支派台湾の東を流れ冲繩島に沿い分岐して、其本流は太平洋の方に向い、 支流は九州の西部より対馬海峡より日本海に入る、 寒流は阿哥科海の北酉より来り黒龍江の前面を過ぎ日本海の西の半分を流るゝ派なり、鯨族のリラン コ近海に出没するは即はち寒流暖流の相交る処に して海水の温度能く其来遊に適するならん。

島民の家屋は矯少にして雨露を凌ぐに足るべき粗 屋にして、其最も不完全なるは樹枝を堆積し庵の如 くし其内に棲む、故に外見薪を積みし処かと思ひり、 土人は性質温柔質朴にして常に耕作を専業とす、漁 業は絶て従事するものなく全く知らざるものゝ如 し、只だ和布は島地の重要の物産にして盛に之を採 取し之れ多く内地へ輸出して其価貴く、又た税金の 代用をなす

・竹島=鬱陵島 りらんこ島=Liancourt Rocks(現在の竹島 /独島)
・海驢が棲息している
・近海には鯨の捕鯨場が有るが、まだ日本は捕鯨は行っていない模様。長須鯨や座頭鯨が確認。欧米列強國はこの付近で捕鯨を1840年代からすでに実施している。捕鯨に関しては調査が必要と述べている。また、遠洋漁業の仕組みで汽船や風帆船でなければ捕鯨はできない。
・この付近は還流と暖流が耕作する場所なので、魚類が豊富

・鬱陵島民は主に農業で生計を立てている。
・鬱陵島民で、漁業をする人は殆んどいないが、和布を採取している人はいる。(この頃は港湾がろくに整備されていないので、筏舟で和布を取る程度しか出来ない模様)


1899 日本遠洋漁業株式会社設立 
日本最初のNorway式捕鯨方による会社
主に蔚珍沖で操業(竹濱の遠洋)鬱陵島には捕鯨基地はない


1899禹用鼎の鬱陵島調査。
鬱陵島で違法に伐採したり暴れている日本人を調査するために派遣。

吠全島長可為七十里 広可為四十里 周迴亦可為一百四五十里 而自壬癸開拓以後 至今居民為四百余家 男女共為一千七百口 起墾火田為七千七百余斗落 而厥土沃●播穀豊 登所種則大小麦黄豆甘藷 家家足粮水利 則採●

為主至於綿花麻布紙属等物 不待外至而自足 若或値災年 則幸有鶴鳥与茗夷草 可兔飢餓 此是上天好生之徳 若有意 而生此物於此土耶。

鶴鳥則鷹喙 而鳧足毛筥而鳩 大昼則●

翔乎海面 啄食魚種 暮則帰於山間而穴処 人欲捕得用火山中 則向明来集 因以捕獲全不費力 味如鳧肉 而尤佳茗夷 則一茎両葉 茎如蒜穂 而葉如玉簪 其花如●穂之種 而味亦如之 盖以此禽此草 経年喫過 亦無飢荒之色 甚異事也。

山勢則層巒聳翠 奇巌怪石 或如人立或似獣 遵千態万象 雖以描写 而樹木参天 有槻木・紫檀・栢子・甘湯等木 無非堅密 紋緻可供珍皿也 尤有異焉者 峯壑若是深邃 而無虎豺蛇紅之害 樹木若是茂盛 而亦無荊棘剌膚之 若莫非霊気所鍾除●害人之物也。

・開拓以降、人口は増え、400家1700人で、焼畑?が7700斗に間で増えた。

・大麦小麦、黄豆、甘藷などがとれる。

・鶴鳥を捕まえて干し肉にして閉農期はそれでしのぐ。

・日本人滞留者は 57件に男女合わせて 144人であり、留泊とある日本 船舶は 11尺だが、行き来する 商船は一定しなくて 定数を把握することができない。




1903年刊行(1901脱稿?)の韓海通漁指針のなかで、
日本船の韓海における操業許可は、沿岸から3日本里(朝鮮里=10里)以内。


・現在のように12海里領海/200海里EEZという時代ではない。


1901年頃の鬱陵島の産業(1903.01.0『韓海通漁指針』葛生修吉 (1901脱稿?))
全島平地に乏しと雖,其地質は古来XX枯草の堆積腐化したるものより成れる,所謂黒土の一種XXにして,土地XXX事上殆んど肥料を要せず,唯稀れにX灰等を以て耕Xすることあるのみ,農産の主なるものは大豆,大麦,小麦等にして,殊に大豆は粒大に質宜しく,直接に本邦に輸出せられ,産額年々四五百石に及ぶと云ふ,林産には,欅,桐,松,白檀等あり,就中欅は径六尺位に至れる大材を産し,桐は本邦にて松嶋桐と称して唐木細工中の珍とする所,白檀は香料として貴重せらる,往時は此種の樹木全島に繁茂して殆んど無数の観ありしも,近頃に至りて本邦人の盛んに輸出せる為め,濫伐の結果,漸く減少を来したり,此他山葡萄の類亦た少なからず,海産は,魚類および鮑,海鼠の類に乏しからざれども,海藻何れも百X乃至百五十六Xに及ぶが故に,本邦X網船の春季往来するのものあるの外,漁撈未だ盛んならず,唯,沿岸の浅処に於て採取する石花菜は種類良好其産出殊に大なり、又た秋季山鶏の類非常に多く、嶋民は之れを撲殺し、乾燥貯蔵して年中の副食物となし、脂肪は溶解して燈油に供すと云ふ、察するに世人の称して、信天翁の生息多しと為すは此島の訛伝ならん、天産の豊饒なるごと蓋し韓国中外に比類なしと云ふべし

・平地に乏しいが、地質が肥沃な黒土なので肥料を使わなくとも収穫が採れる。
・主な農産物は 大豆、大麦、小麦
・主な林業は、 欅、桐、松、白檀
・主な海産物は 魚類、鮑、海鼠(なまこ)、石花菜(てんぐさ)など、海産物は豊富だが、水深が深いため漁撈は未だに盛んではない。
・山葡萄がとれたりもする。
・山鶏を食べたりもする。
・韓国内でも、なかなか鬱陵島のように天の恵みが豊饒なところはないらしい。


1901年頃には、すでに鱶の漁が鬱陵島近海およびりゃんこ島近海日本人によって開始されていた。(1903.01.0『韓海通漁指針』葛生修吉 (1901脱稿?))
専漁船は之れを年中における主要の漁業とな迎日湾以北より新浦に至る間の沖合、及び鬱陵島近海ヤンコ島近海とす。漁期は5月中旬より七月中旬までと、9月中旬より11月下旬の二季にして、佐賀X漁船の出漁するもの毎年十隻内外に及ぶ、種類はドタ、マフカ等多く、餌料は鰆、?、鮃等を使用す、当方面に出漁するに至るは近年の事にして未だ漁場に精熟せざるを以て収穫意の如く

・5-7月/7-9月の二季節
・佐賀の漁船は毎年10隻程度。
・鱶(ふか・さめ)ドタやマフカ
・餌には鰆(さはら)、?(カマス)鮃(ヒラメ)を使う。
・此の方面への出漁は近年のことなので、いまだ漁場は精通していない。


1901年頃(1901年脱稿)の韓海通漁指針によると、すでに鬱陵島XXで海驢漁に携わっている日本船、外国籍船がいたもよう。
目下は本邦獲船八隻米英X国船角二隻XX,鬱陵島XをXXXして盛んに捕獲に従事中なりと云ふ。///韓海至る所に出没するなれども、江原咸陽道沿海には殊に多く、中鬱陵島の南東遥かの沖合に位する、やんこと通称する孤島には其棲息まことに夥しきものありと云ふ、未だ専ら之が捕獲に従事するものはなしと雖も、其皮は工業上の用途頗る広きものなるが故に、販路を求めて之が捕獲に従事すれば将来有望のXたるべし。
ttp://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40034152&VOL_NUM=00000&KOMA=114&ITYPE=0

・鬱陵島で海驢を捕獲している船舶が有る模様。
・之を書いている時点(1901)ではヤンコ島での海驢漁は始まっていない


1901.0『韓海通漁指針』葛生修吉 (1901脱稿?)
ヤンコ島。鬱陵島より東南の方三十里、我が隠岐国を西北に距ること殆ど同里数の海中に於て、無人の一島あり。晴天の際 鬱陵島山峯の高所より之れを望むを得べし。韓人及び本邦漁人は之れをヤンコと呼び、 長さ殆んど十余町、沿岸の屈曲極めて多く、漁船を泊し風浪を避くるに宜し。然れども薪材及び飲料水を得るは頗る困難にして、地上数尺の間は之を牽けども容 易に水を得ずと云う。  此島には海馬非常に棲息し、近海には鮑・海鼠・石花菜等に富み、数年以前山口県潜水器船の望を属して出漁したるものありしが、潜水の際、無数の海馬群に 妨げると。飲料水欠乏との為に、満足に営業すること能わざるして還りたると。察するに当時の季節は恰も五六月にして、海馬の産卵に当りしが故に、特にその妨害をうけたるものならんか。 また、付近に鱶漁の好網代あり。数年以来五六月の候に至れば大分県鱶縄船の引き続き之に出漁するものあり。昨年春、同処より帰航したる漁夫に就いて之を聞くに、出漁した二三回に過ぎざるが故に、未だ充分の好果を得たりと云うべからざれ共、毎季相応の漁獲あり。従来の経験上、その網代の状態、及び鱶類棲息の規模等より観察するに、将来頗る有望の漁場たるを疑わずと。 同島は、盖し営業者の為には尚充分探検の価値あるべし。


・日本人と韓国人両方ともLiancourt Rocksを”やんこ島”とよんでいる。(于山島や石島と呼んでいる形跡がない。)
・薪材・飲料水はない(水は少しはあるのだが、簡単には調達できない)
・鮑・海鼠・石花菜がとれる。
・海驢が生息しているものの、この時点で海驢を取っているのかは、この記述からはわからない。(別の項でまだ捕獲は始まっていないといっている)
・数年前に山口県潜水器船がためしに漁をしようとしたが、満足な作業ができなかった。
=潜水器は鮑Abaloneを漁るのに使用
・数年以来五月六月の頃には大分県鱶(ふか)縄船が出漁していた形跡がある。
・まだ本格的にはやんこ近海で漁業活動は始まっていない模様。




1901.01『朝鮮開化史』
金崗山の一支東海に入る六十余里峙立しして鬱陵島となる一に蔚陵と書す即ち古于山国なり後新羅に入る別名は武陵、羽陵共に而音相近きに因る大小六島あり其中著名なるを于山島(日本人は松島と名く)竹島といふ全島の面積約七十五方哩島中耕作すべきの地多からず樹木は海浜より山嶺に至るまで欝密す山高さ四千英尺にして海岸X峻三哩内海中の水深六千英尺より九千六百英尺に至る居民は男女三百口数十年以来船匠商買及漁、大農夫合相XでXり住居ス海水甚だ深きを以て魚産未だ盛んならずと雖も海菜の運出毎年二千荷を超え土質X沃にして肥料灌漑を要せず只樹業X灰を以て覆耕す春作は大小麦にして秋作はX及び豆の頻なり林産は老巨の杉松及各種ノ実木にして亦多く塊木、香木、柏子、甘湯木を讃す今王二十三年韓廷金玉均をもって東南諸島開拓史兼捕鯨使に任じ白春培を以て従事官となし該島開拓事務をX理せしめたるが翌年形京城の変ありて果さず其後島民徐敬秀を以て越松萬戸に差定し該当人民を繁殖し外国人の樹木伐採を防禁せしめたり。

・耕作すべき地は多くない
・樹木が鬱然としている
・居民は男女三百口、十年来船匠や商売、漁、大農夫が居住

・未だに漁業は盛んではない。
・海藻類(若布類?)の出荷が盛ん。
・肥料や灌漑設備を必要としないほど土地が肥沃
・春には大麦小麦、秋にはXおよび豆類が採れる
・林業は巨大な杉、松ノ木、塊樹、香木、柏子、甘湯木がとれる
・23年に金玉均が東南諸島開拓史兼捕鯨使ににんじられ開拓を処理しようとしたが失脚。



1901.07 (外務省通商局編纂 通商彙纂 1902より)

日商組合規定を策定-事務所 道洞

・組合入会金、統計調査、掟など。



1902.10.10 『外務省通商局編纂 通商彙纂  付録 韓国鬱陵島事情  第一:鬱陵島の地勢』
本島ノ漁業季節ハ例年三月ヨリ九月迄ニシテ収穫物ハ鮑、鰒(ふぐ)、天草、海苔、若芽ノ数種ニ過ギス、漁業者ハ多ク熊本ノ天草、島根ノ隠岐、三重ノ志摩地方ヨリ渡来ス而シテ韓人漁夫ハ皆無ノ有様ナレトモ毎年全羅道三島地方ヨリ多数ノ漁夫等渡来シテ海岸ニ満生スル若芽ヲ採取セリ本年ハ天草隠岐ノ漁業者都合水潜器船八隻道洞ヲ本拠(?)ト定メ又志摩ノ蜑船(タンセン・あま船)二隻天草ノ海士船一隻ハ苧洞(ちょどう)ニ仮小屋ヲ構ヘ何レモ全島ノ海岸ヲ巡漁セルモ今年ハ昨年ニ比シ餘程不漁ナルニヨリ利潤オオカラサル見込ナリト至ヘリ、  又本島ノ正東約五十海里ニ三小島アリ之ヲリャンコ島ト云ヒ本邦人ハ松島ト稱ス、同所ニ多少ノ鮑ヲ産スルヲ以テ本島ヨリ出漁スルモノアリ然レトモ同島ニ飲料水乏シキニヨリ永ク出漁スルコト能ハサルヲ以テ四五日間ヲ經ハ本島ニ歸港セリ


・水産収穫物は 鮑、河豚、天草、海苔、若布(ずべて近海で取れるもの。外洋で取るものではない。)
・日本人は熊本の天草、島根の隠岐、三重の志摩から渡来している(これらの地域では潜水器船/蜑船を使った漁が特徴=主に鮑が目的と推測される)。海岸(=近海)で漁をしている
・韓人の(鬱陵島在住の)漁夫は殆んどいないが、全羅道から海岸に生えている若布を採取しに遠征に来て・いる。

・日本人はLiancourt Rocksを松島 と呼んでいるが、韓国人がLiancourt Rocksを何と呼んだかが記載がない。于山島とも石島とも呼んでいない。
・りゃんこ島(Liancourt Rocks竹島/独島)へ鮑を取りに出漁している人がいる・(これが日本人か韓人かは文章から特定するのは難しい)
・りやんこ島(Liancourt Rocks=Takeshima/Dokdo)は3島から成り立つ島
・飲料水がないので4/5日後に鬱陵島に帰還する。

・1902年7月に日商商会が設立。統計等をとるようになる。



1902.10.12水産試験場報告[第1冊]第2号(広島県水産試験場) 朝鮮海漁場調査庚子号航海日誌

10月12日(元山 松島)松島は無人島なるも本邦魚師網業者の納屋を構えたるを以て寄航調査し且流網を試みたるも無漁   10月16日(元山長興川)本日松島付近で鯛及延縄を試み漁獲ありたり午后一時出発 午后五時碇泊
・試験漁業を実施している。 この松島がLiancourt Rocksまたは鬱陵島であるかは疑問。



1903.朝鮮海通漁組合聯合会報 第4号


おっとせい ..................此獣の棲息区域は江原道鬱陵島以北威鏡道一体の沖合いとすれども就中最も多きは威X鏡道沖合いにして馬養島を距ること三十浬新昌を距る三十海里城津をはかる七十浬明川.....



1903.

郡庁が台霞洞から道洞に移る



1903年頃から日本人が鬱陵島近海で烏賊を取り始める(韓国人は1907年頃から)
(1911.05.05韓国水産誌 [第3冊]第3輯 隆熙四年五月五日より)
翌三十六年 光武七年近年烏賊の生息饒多なるを発見せらるるあり、是に於て再ひ確実なる発展を遂くるの機運に向かひたり、されは日露戦役了ると同時にXにして在住者を増加し、現今の繁栄を見るに至れり、 前の日商組合を廃して新に日本人会を組織せしは明治四十年即ち隆熙X元年

烏賊は前言せしが如く去光武七年(明治三十六年)日本人漁業を始めし処にして島人これに習ひて捕ふるにいたれりは今より三年前ナリ。然れども其有利の業なるを以て今や本漁に従事するもの甚た多きを到せり、漁期は五月より十一月に到る七箇月に亘ると雖も盛漁期は6月頃より9,10月に到る間とす。

・日本人が鬱陵島の近海で烏賊が豊富であることを発見したのが明治36年1903年
・1911年頃においても、鬱陵島民の主産業はあくまで農業。漁業は採集(海藻や若布類)
・日本人の烏賊漁の開始は明治36年から。
・鬱陵島の韓人は日本人に習って烏賊漁をはじめる。今より三年前=1911-3=1908年か1907年



捕鯨に関しては、1903年ころには韓人は付近で捕鯨を実施していない模様

1903.10最新韓国事情 / 岡庸一著,青木嵩山堂, 明36.10

朝鮮領海に於ける捕鯨業の起源は漠然として其実際を知る能はずと雖韓国人民は未だ嘗て鯨鯱の捕獲をなしたるものなし去る明治十七八年の頃露人某江原道沿海に於いて是に従事し大いに捕獲あり之を長崎に売却して非常の利益を得たるも其捕鯨船天災に遭遇し遂に其業を中止せりと伝ふるものあり然れど 露人の捕鯨は己に業に其の依然に行われ至るものの如し之を沿岸古老の言に微するに当時露船は--------XX薪水に欠乏を告げたる際若しくは風浪を避けがたんが為。----



1903年より海驢漁に着手
(1904.09.24 リャンコ島領土編入並二貸下願より)
隠岐列島ノ西八十五浬、朝鮮鬱陵島ノ東南五十五浬ノ絶海二俗二リャンコ島ト称スル無人島有之候、周囲各約十五町ヲ有スル甲乙二ヶノ岩島中央二対立シテ一ノ海峡ヲナシ大小数十ノ岩礁点々散布シテ之ヲ囲繞セリ 中央ノ二島ハ四面断岩絶壁ニシテ高く屹立セリ 其頂上ニハ僅二土壌ヲ冠リ雑草之二生ズルノミ 全島一ノ樹木ナシ 海辺彎曲ノ処ハ砂礫ヲ以テ往々浜ヲナセドモ屋舎ヲ構エ得ベキ場所ハ甲嶼ノ海峡二面セル局部僅二一ヶ所アルノミ 甲嶼半腹凹所二潴水アリ 茶褐色ヲ帯ブ 乙嶼ニハ微々タル塩分ヲ含ミタル清冽ノ水断岸渭滴仕候 船舶ハ海峡ヲ中心トシテ風位ニヨリ左右二避ケテ碇泊セバ安全ヲ保タレ候 本島ハ本邦ヨリ隠岐列島及ビ鬱陵島ヲ経テ朝鮮江原、咸鏡地方二往復スル船舶ノ航路二当タレリ 若シ本島ヲ経営スルモノアリテ人之二常住スルニ至ラバ夫等船舶ガ寄泊シテ薪水食糧等万一ノ欠乏ヲ補ヒ得ル等、種々ノ便宜ヲ生ズヘケレバ今日暇駸々乎トシテ盛運二向ヒツ々アル処ノ本邦ノ江原、咸鏡地方二対スル漁業貿易ヲ補益スル所少ナカラズシテ本島経営ノ前途最モ必要二被存候 本島ハ如斯絶海二屹立スル最爾タル岩島二過ギザレバ従来人ノ顧ルモナク全ク放委シ有之候 然ル処私儀鬱陵島往復ノ途次会本島二寄泊シ海驢ノ生息スルコト夥シキヲ見テ空シク放委シ置ノ如何ニモ遺憾二堪ヘザルヨリ爾来種々苦慮計画シ兪明治三十六年二至リ断然意ヲ決シテ資本ヲ投ジ漁舎ヲ構へ人夫ヲ移シ漁具ヲ備ヘテ先ヅ海驢猟二着手致候

・明治36年1903に資本を投じて漁舎を構えて海驢漁に着手




1904.

日韓漁業協定条約改定により、通漁区域が全朝鮮海区に拡大



1904.09戦艦新高の日誌
松島(注:Ullungdo)ニ於テリアニコルド岩實?者ヨリ聽取リタル情報。リアンコル岩韓人之ヲ獨島ト書シ本邦漁夫等略シテリヤンコ島ト略稱セリ
(中略)
嵐がきつく船を泊められないような時は、大体松島で風が静まるまで非難しているらしい。松島から毎年猟にやってくる人は六十から七十石積の日本の船を使う らしい。島の上に仮の小屋を建てて十日間ほど滞在するが、稼ぎが相当なものらしい。また漁夫もたまには四十名から五十名を超える時もあるらしいが、真水の 不足をどう補っているかは報告されていない。

・この時点で、松島(鬱陵島)で聞いた話では、日本人はりやんこ島と、韓人は獨島とよんでいる。
・使用する船は60-70石積みの日本の船(日本の水産業者が朝鮮*人をやとってLiancourt Rocksにつれてきて漁業活動を実施していたから)
・島の上に仮小屋をたて10日ほど滞在する。(1902.10.10の記録4-5日から大幅に進歩した?)
・収益はかなりいいらしい。
・時として40-50名の漁師がいることがあるが、真水の不足を補っている方法がわからない。(すでに漁業が活性化?)




1904.『韓国実業指針』
鬱陵島/位地に武陵又は羽陵と云ふ、古の于山国にして本邦人及支那人之を松島と呼ぶ、越松浦の南四十里の海上に在り、島の周辺岩礁XXとして船舶を、碇繋する港湾に乏しく、唯僅かに一箇所の小漁船を泊するのに足るべきものあり、地味Xxniして大豆、大麥、小麥を産出す、就中大豆は外国輸出品の一なり、往時は全島樹木鬱蒼として美観を呈せしも、濫伐の結果頗減少せり、近海魚族繁殖すれとも、海水深くして捕獲するを得ず、韓人の戸数四百余、本邦人の常住40余りありて、純然たる日本村を形成せり、木材及大豆、石花菜の輸出を業とす

・鬱陵島=松島
・岩礁が多くて、船舶を碇泊する港湾に乏しい、僅かに一箇所に小型漁船を止められる漁港が有る。
・大豆、大麦、小麦がとれる。
・大豆は外国輸出品
・此の時点ではかなりの乱獲で木が減少している。
・付近に肴は覆いも、海水が深いので捕獲することが出来ない。
。韓人は四百/日本人は40戸あり、日本人は日本村を形成。
・輸出品 木材、大豆、石花菜(てんぐさ)


ヤンコ島 鬱陵島及我隱岐島の中間三十里の海上あり、全島居民なし、沿岸碇泊に便なれども薪材及飮料水を得難し、近海鮑海鼠石花菜等を産し、又鱶の捷息饒多なれども海馬の群に妨ばられ漁獲好果を得ずと云ふ。

・無人島
・薪材や飲料水確保が困難
・近海では鮑、海鼠(なまこ) 石花菜(てんぐさ)がとれる。
・鱶(ふか)も棲息しているが海驢が邪魔でなかなか取れない。




1905.09『韓国新地理』
ヤンコ島の説明 本島より東南方約30里我が隠岐島との殆ど中央に當り無人の一島有り。俗に之れをヤンコ島と称す。長さ殆んど十町余沿岸の周曲極めて多く漁船を泊するに宜しと雖薪材及び飲料水を得るに困難にして地上を つも数尺の間容易に水を得ず此付近には海馬多く棲息しまた海産に堯なりといふ

・漁船が多い=漁業が活発化
・薪材や飲料水は困難
・海驢が多く棲息
・海産物が豊富




1905.07.31『通商彙算 50号』釜山駐在領事館報告
「トド」と称する海獣は、鬱陵島より東南約二十五里の位置にあるランコ島に棲息し、昨年頃より鬱陵島民之を捕獲し始めたり。捕獲期間は、4月より9月に至る6ヶ月間にして、漁船1組に付き猟手及び水夫等約10人にて、平均1日約5頭を捕獲すと云う。而して、本事業に従事する者30人あり。漁船3組あり。又「トド」1頭に付き、現今市価は平均3円なり

・アシカは昨年頃(1904年)より捕獲開始
・四月から9月の半年間
・漁船一石について猟手と水夫が大体10人、一日平均5頭を捕獲。3組/30名がアシカ事業に従事




1906.『竹島及び鬱陵島』
(鬱陵島)
漁港   本島には、安全なる漁港なし。ただ道洞は●湾形をなし、湾口は東南に面し、広さ湾口百間港億七八十間の間沙濱をなし、両側は、芋洞モンゲ、沙洞アリクサ、通九尾、南陽洞、台霞洞等にも入船するを得べきも、他は懸崖峻険近づく能はず。

漁獲物の種類   近海は魚族海藻類に富み、鮪シビ、柔魚イカ、鰤ブリ、鰮イハシ、鱶フカ、?シヒラ、メヂカ、サワラヅ、鯖、飛魚、、●、メバル、アブラメ、鯛、章魚、鰈カレヒ、ツツリ、サヨリ、河豚フグ等を産し、鯨、マイルカ、カマイルカ、シャチ等の海獣、郡来し稀には海驢も来ることもあり

烏賊漁   烏賊の漁撈法は、隠岐における、釣獲法と等しくその処理法もまた同じく鯣に製造す。漁獲総額は知るに由なきも、輸出額は左の如し     
   三十七(1904)年 壱千七百貫目      価額弐千壱百壱拾九円
   三十八(1905)年 一千四百七十九貫目  価額二千六十九円

鱶漁 あかえい   漁撈法は底延縄を以てす。餌はアブラメ。メバル等の底魚を網切として使用す。処理方法は、生鮮のまま売却す、漁獲高は詳ならず。

鰮 いわし   漁撈法は、漁撈法は、鰮魚の害的に追はれて、海岸に群集する時、●を用いて●ひ捕る、のみ。地曳網はは、海岸に岩石多きと、沿海に岩礁多きため使用する能はず。

鮑漁   潜水器を使用し、また海、女の潜水によりて採捕す。漁期は五月より九月の間にして、潜水器業者は長崎地方及び隠岐より来り、海女は志摩国地方より出漁するものの如し。乾鮑の製造額左の如し
   三十七(1904)年 五十貫目    価額 百八十七円
   三十八(1905)年 九千百貫目   全  八千五拾円

海苔   採取方法は島根県に仝じ。長一尺五寸幅一尺二寸の大型板海苔にXきて、本邦内地に輸送す。Xの製造額左の如し 
   三十七年 百三十八貫目  価額 四百壱拾四円 
   三十八年 百七十四貫目  仝   五百弐拾四円

和布   和布の採収は、韓人の独占なるが如し。処理方法は、長四尺幅六寸厚六分に重ねて乾燥し、韓国内地に輸送す。その製造額左の如し   
   三十七年 十一万五百七十把  価額千参百八拾参円 
   三十八年 五百参拾把      価額 七十四円 

将来の経営   韓人は和布海苔を採取するのみにして、他の漁業に従事するものなし。本邦人中、農業の傍ら、漁業に従事するもの約四十人(三十八年調査)あり。本島には安全

・韓人は和布や海苔を採取するのみで、他の漁業に従事するものはいない模様。




1907年頃から韓人が日本人に習って鬱陵島近海で烏賊を獲りはじめる(前述済)
(1911.05.05韓国水産誌 [第3冊]第3輯 隆熙四年五月五日より)
烏賊は前言せしが如く去光武七年(明治三十六年)日本人漁業を始めし処にして島人これに習ひて捕ふるにいたれりは今より三年前ナリ。然れども其有利の業なるを以て今や本漁に従事するもの甚た多きを到せり、漁期は五月より十一月に到る七箇月に亘ると雖も盛漁期は6月頃より9,10月に到る間とす。




1911.『韓国水産誌[第2冊]韓国沿海水産物分布図

・鬱陵島周辺にはいわし、さはら、ぶりなどの漁獲圖
・鬱陵島と蔚珍の間にクジラの記載




1911.05.05 『韓国水産誌 第3輯 隆熙四年五月五日』
(鬱陵島)住民は農業を主とし、漁は採集のみにとまりしも、近頃は日本居住者に見習ひて中等以下の農民は悉く烏賊漁を営むに至れり

海苔和布は従来島民の採取せし処にして、今は日本人も等しく其採取に従事せり。ただし日本人が和布を採取するに至しは極めて近時の事にして島人と共同する外単獨に従事するものあらず。

天草・鮑は日本人の採捕に委せ島人これに従事するものあらず。日本人は潜水機またはXにて際捕す。潜水機は例年プサンより僭用するところにして従前は毎年二機または三、四機を使用したりも近頃は収穫が減少せしをもって大概一機を使用するにとまれり。

大豆は此の如く島民生活の基本を為すものなり。

漁船は島民所有する普通帆船三十隻、海藻採集に使用する小船二百隻、日本人所有の普通漁船一百二十隻、計三百五十隻あり。

在住島根県人片岡某の調査になれる本島水産物の輸出累年統計表を得たり、左に之を掲げん




・1911年頃においても、鬱陵島民の主産業はあくまで農業(大豆・小麦等)。従来、鬱陵島民の漁業は採集(海藻や若布類)だが、日本人に習って烏賊を取っている農民もいる。
・若布に関しては、韓人と協業で採っており、単独で活動している者はいない。
・天草・鮑は日本人が採集している。(潜水器利用)
・漁業の輸出入統計は日商商会によるもの。(1910年ではすでに朝鮮は併合済み)



・漁事一覧表には、主要水産物としてX?烏賊漁・海苔が記載されている。
・漁船は普通帆船は三十隻/海藻採集用の小舟200隻のみ。日本人の普通漁船は120隻

1937-1942はさばの延縄漁が盛ん。さばも大量に採れ、鬱陵島には三箇所の缶詰工場があった。
しかしそのご不漁により工場は閉鎖。このことがきっかけで今日のような烏賊釣が主流となる。

1957年からはスケトウダラの延縄漁も開始。しかしやはりメインはイカ釣り漁。


X追加情報があり次第随時更新していきます。基本的に文の一部削除はしませんが、追加だけしていきます。(Double Postが嫌いなため)

  • 最終更新:2009-03-04 11:18:04

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