19世紀日本の 竹島,松島,島名の混乱1

19世紀日本の 竹島,松島,島名の混乱1 - 朝鮮領土ウール等も,独島に対する日本の無知




953年独島領有権問題を置いて韓日間長文の口述書を通じる論争が展開された以後今まで日本は鬱陵島を竹島(竹島)で 独島をMatsushima(松島)と呼んだ彼らの伝統的な呼称が 19世紀に独島が竹刀で鬱陵島が松都で名称が後先になられた事情を それなりに説明して来た.
日本がこのような説明を試みる理由を考えて見れば第一,この時期に起きた ‘偽名の混乱’が結局 ‘歴史的に韓国に 比べてこの島に対する日本の認識が一貫性がなかった’か,‘非常に低い水準,あるいは浅い水準だった’は類推ができるように 日,‘長年の歳月の間一貫されて実質的な経営を通じて蓄積’になったと主張する彼らの独島に対する歴史的権原が毀損される ことがあるというの,韓国の歴史的権原が相対的に優越だという判断が導出されることができるということを気づかったからだでしょう.そして, このような主張などは信証東国輿地勝覧に描かれている8道総図と江原道別途に傘島と鬱陵島の位置が変わった点等彼らが言う 韓国側資料の曖昧な点を攻撃するための事前地均し作業の效果をもたらすでしょう.

二番目理由だと考えて見られることはかなり多い数残っている竹刀と松都すなわち,鬱陵島と独島を朝鮮の領土で描いて入れた 19世紀の 多くの日本指導たちに対する解明が必要だろうからだ.日本の論理とおりならこの指導たちは過ち製作されたのだ.日本の主張を 移して見れば当時地図の上に描かれた松都は日本が伝統的に指称した独島を表示したのではなく,名称の混乱でよって ‘たとえ 松都と表記したが,事実は現在の鬱陵島を描いて入れたこと’と言う.彼らは伝統的に鬱陵島を 竹島,独島を 松島で 呼んで来たが,18世紀末イギリスとフランスが鬱陵島の位置をそれぞれ他に測量して,一つの島がアルゴーノートとダズルレという 2個の 島で描かれたし,19世紀中盤この島々が鬱陵島と独島を示した日本鯨の名称竹刀(鬱陵島)と松都(独島)に夫夫 繋がれながら加工の島アルゴーノートと繋がれた竹刀は鬱陵島西の方実在島がない海上に描かれて,従来独島を示した 松都がダズルレ島で表記して実在鬱陵島の位置に描かれる ‘偽名の混乱’が起きたというのだ .

彼らの論理とおりなら偽名の混乱が起きた 19世紀に描かれた多い (韓国に有利にも)竹刀と松都が韓国の 領土で描かれた日本指導たちは偽名の混乱によって実在島と名称が過ち繋がれた,すなわち過ち描かれた地図になる. そして,これ ‘誤った’ 地図が言おうとする実在内容は加工の島アルゴーノート/竹刀と,松都で表記した鬱陵島を朝鮮の 領土でグリーンのであって,日本において伝統的に松都と呼ばれたし,西世同点時代にリヤングコで(ヤングゴ)と呼ばれたし,1905年 以後で竹島(竹刀)と呼ばれた今日の独島を指称することではないというのだ.

結局,このような論理は今日韓国と領土紛争が起きている竹刀は伝統的に彼らが呼んで来た竹刀とは違うことで, たとえしばらく偽名の混乱があった時期があったが,1905年以前に出た記録たちの中に竹刀というのは一様に鬱陵島を 示したことであり,19世紀偽名の混乱時期には誤った西洋情報で描かれた加工の島アルゴーノートを示したこと(ではなければ鬱陵島の そばにあるおかゆで(デッソム)を示したこと)という結論につながって,今日の竹島(竹刀)は歴史上一度も韓国の領土で認められたとか, 韓国との領土紛争の対象になった事がない日本によって数百年間一貫されるように平和に支配経営されて来た彼らの固有領土という 日本の主張と自然に繋がれる.

表で見るには領有権と関係がない単純な島の名称に関する事案と判断することができるこのような論理たちは,上で簡単に 言及したように実在では深刻な結果につながる複雑な伏線が敷かれている.1953年 7月 13日日本が初めて送った長文の 口述書 ‘日本政府の見解(1)’には書き起こしに竹刀と松都が後先になるようになった過程を説明する.そして彼に引き続き安竜福事件 など日本と韓国の間に紛争があって来た島は鬱陵島を示したことであり,現在の竹刀は両国政府によって過去には全然問題が なった事がないという主張を広げた.彼らとしては当たり前にも論争の出発点で全体論議が彼らに有利に展開されることができるように 論争の対象を徹底的に限定させておいたのだ.このような主張は以後 1966年がワカミゲンソ(川上健三)の著書 ‘竹島の 歴史地理学的 研究’で詳しく整理されて本の書き起こしを飾るようになる.がワカミは条約理論に明るい専門家で敗亡直後の 1946年日本 外務省條約国に属して,領土問題と賠償問題を日本に有利に妥結しようとする基礎作業として各領土に関する事実を調査して 詳細な報告書を作成した張本人だった.彼は日本政府が立てる独島問題に関する最高権威者で現在まで日本の論理は彼の 理論のフレームを大きく脱しない船上で展開されて来た.
これに反して我が政府は 1953年 9月 9日に上の 7月 13日付けに送った日本の見解を駁する口述書を送りながら,これ 問題に対して ‘独島の領有とは何らの関連がない島の名称に関する内容であるだけ’と簡単に言及して度が外れたし,以後 現在までも我が国ではここに対する具体的,集中的な検討の文は見えないようだ.

今から日本の狡さと緻密性をよく見せてくれる ‘西洋勢力の誤った情報による偽名の混乱’という論理に対して,第一 彼らの混乱がこの海域に対する彼ら自分の無知に根本的原因があったし,それにもかかわらず二番目 19世紀の日本の文献と 指導たちは竹刀と松都すなわち,鬱陵島と独島が朝鮮の領土という認識の上で作成されたことを当時時代的状況と具体的資料を 通じて明らかにして見てこれと同時に私たちの記録の中に現われた独島の名称も一緒に検討して日本と比べて見る.ところが,思っては 地面の限界でまず一番目部分だけ言及して残り二つは次の文でずっと引き継いで行くことにする.

そして日本の論理に対する反駁はがワカミの著書に敍述された内容を中心にする.右に出ても言及したように彼は日本政府の 独島領有権主張の理論的土台を用意した代表的人物であり,また 1966年彼によって独島問題に対する詳細で総合的な 研究が本で整理された後まだまでも日本の論理はここに大きく脱しなかったと考えられるからだ.

もう日本の論理をもうちょっと具体的によく見よう.日本は彼らが名称に対して混乱を起こすようになった原因と過程を ‘西洋勢力の 間違いと西洋文物を加減なしに受け入れた当時の時代的状況’でできたことだから説明しているし,‘新しい調査と情報が 収集された 19世紀後半期には現在の名称で整理’になったと言っている.

すなわち,1787年と 1797年にそれぞれ鬱陵島を見つけたフランスとイギリスが二つの島の位置をつけるわけ測量して経緯図上それぞれ違う 位置に記入することで(イギリスが過ち測量-実在島がない所にアルゴーノートという島を記入),東海に鬱陵島が 2個(ダズルレッと アルゴーノート) 描かれた.以後ヨーロッパの指導には 2個の鬱陵島が表示されたが,1840年長崎オランダ官意思であったジボルトが 誤った西洋の情報と当時日本指導を合成,彼の有名な ‘日本図’で東海上に竹島/アルゴーノート,Matsushima/ダズルレッ で描いて入れることで,混乱はもっと加重されたし,1849年フランス捕鯨船リアングクルが独島を見つけた後では西洋指導には 東海上にダズルレ,アルゴーノート,リアングクル 3個の島が描かれた.当時西洋文物を無批判的に受け入れた日本はこのような誤った 西洋の知識を批判なしに受け入れたしその過程に島名前に対する混乱が起きたというのだ.
以後 1854年ロシア艦隊の実測でアルゴーノート島が実在存在しない島という事実が明かされることで竹島/アルゴーノートが 地図の上で消えて,Matsushima/ダズルレッ,リアングコル?2個の島だけが残るようになった.したがって従来リアングコル(独島)を示した Matsushima(松都)が鬱陵島を示すようになったし,独島はリアングコルという西洋人が付けてくれた名前をそのまま書くようになってヤングゴなどで 殖やすようになる.その後 1880年日本軍艦多分期(天城)が現地調査を通じて経緯図上松都で表記した島がすなわち鬱陵島なのを 確認することで,日本は鬱陵島/松都を確定して,従来松都と呼ばれた独島は西洋名前リアングクル,日本人の発音でヤングゴ などで固まるようになる.これが 1905年独島領土編入とともに西洋名前を捨てて,島根県銀器島などに口伝された ‘元々 朝鮮の東海の上にソング,おかゆの二つの島が存在した’と言うのに根拠して消えた竹刀と言う(のは)名前を復活させて独島に付けた.これが 今日鬱陵島が松都,独島が竹刀になった過程だ.これが日本のシナリオだ. 

上の論理は歴史的事実に近接していると判断される.ところが,それなら一体どうなるか?これは日本の意図とは 他に次のような事実たちを言ってくれる.

あの日本人たちは安竜福事件後 19世紀彼らが帝国主義国家に背伸びする前までは朝鮮の地鬱陵島と独島に易しく奥地 できなかったし,その結果この海域に対する知識と情報が暗くなって行ったのだ.そうだったから西洋からの情報を批判的に 吸収することができなかったし,彼らが数百年間一貫されるように自国の領土で認知,管理してワッダドン島の位置と名前までも混乱を起こすように なったのだ.彼らがどんな論理で偽名の混乱を合理化させようと思うと言っても,名称の入れ替えが政治的物理的に強制された のではない以上結局彼ら自らの地理的認識のオドウムで根本的原因の発生したのであるは否認することができないと考えられる. これから資料を通じて彼らの知識がどんなに曇って行ったのかに対してよく見よう.

1696年日本人の竹刀図解が禁止される前の 1667年 出雲(出雲)の管理 斎藤豊仙が人によってOki島を見回って報告 感じたところを採録したウンズシチォングハブギ(隠州視聴合記)には次のような記録がある.

“隠州在北海中 故隠岐島 ...戌亥間 行二日一夜有松島 又一日程有竹島(俗言磯竹島多竹魚海鹿 按神書所謂五十猛歟) 此二島無人之地 見高麗如自雲州望隠州 然則日本之乾地 以此州為限矣”

“恩主は北海の中ある.だから銀器島だ.... 北西方へ二日昼ハルッ夜を行くと松都があってまた一日をもっと 仮面竹刀(俗諺にギズックドと言うのに竹,魚,おっとせいが多い.思うに新書に出るいわゆるオシブメングではないか)が ある.この二つの島は人が住まない地で,高麗を見ることがまるで雲洲で恩主を見るようだ.だから日本の ソブックタングはこの主に限界をする.”

上資料を見る時,当時Oki島人々は竹刀と松都がそれぞれどんな島を示しているのか,? 詳らかに分かっていたのだ. 続く出漁にこの海域の情報に明るくなったことは当たり前の現象だ.そして,二つの島と高麗(朝鮮)の関係をOki島と日本 本土出雲との関係に比べながら,二つの島が朝鮮の領土なのを認めている.もちろん本土との距離を基準に一判断だった. これが鬱陵島独島を眺めた当時日本の認識だった.以後 1696年江戸幕府でこの海域に対する自国民の図解を禁止した 時も,朝鮮の領土で判断した根拠はやっぱり本土との距離だった.そして,この時期は彼らが壬辰の乱後約 100年間純粋な 日本人の漁業誌になったと主張する時期であり,出漁の主体だった島根県地域の記録だ.

がワカミの主張どおり松都すなわち,独島に対する上のような正確な情報は島根県を中心によほど後代まで伝われたのが事実だ. それは先代の資料たちが口伝あるいは戦死される過程から続いて来たのだ.宝暦年間(1751-63)にギタグだからミチアング(北?通?)が インシュウ(隠州)人某氏が口述するところによって編纂したと言う 竹島図説には “隠岐国 松島の 西島から 海上道程で 40里ほど 北方に一島があるから名前を 竹島と言う.この島は日本に接して朝鮮に接したが地形は三角で周りは凡そ 15里位 ...ホシュ(伯州) ヨナコ(米子)から竹刀まで 海上道程 160里位になる.ヨナコで出雲で出て Okiの福島(福浦)から 松島までは 海上道程 60リゾングも,松都から竹刀までは 40里ほどだと言っている.以上の 諸説は 享保 9年(1724) 官府(江戸幕府)の下問によってヨナコの民 大谷九右衛門 及び 村川市兵衛と言う者の 答書に 基づいたことだ”とされている.

また,1823年 大西教保がウンズシチォングハブギを基礎にして,またOki島漁夫などの実在経験話などによってウンズシチォングハブギを 増補,修正した ‘隠岐古記集’では “島の総まわり 16里(銀器君もトゴ島を示し) ...亥の方向で(ブックソヒャング) 40余里には 松島がある.周りは約 1里位で 果樹がない 巌嶋と言う.また西側 70余里には 竹嶋と伝えて来る竹が盛んな 大きい島がある.ここで朝鮮を眺めれば,恩主で雲洲を見るよりもっと近いと言う.今は朝鮮人が来て暮して あると言って,多くの所の船人に聞いたら方向が実はそうだ.”つらくてある.竹刀と松都の位置とその形象がよほど 具体的に記録されていることを分かる.
しかし,全体的に見る時日本では朝野を問わず徐々にこの海域に対する知識と情報が暗くなって行っていたのは否認する 数ない事実だった.

先に,1785年に日本最高の地理学者であり,地図製作の対価だったしまた代表的警世歌だったHayashi時ヘイ(林子平)が作った サムグックゾブヤングジも(三国接壌地図)に上のウンズシチォングハブギの内容がどんなに変わられたのかよく見よう.サムグックゾブヤングジドには朝鮮して(東海)に 島が 3個も描かれている.中島に確かに 竹嶋と使われているので,これは鬱陵島で見なければならないし,その右側に付いて ある名前いない小さな島は独島だと考えられる.ところが,迎日湾の前に竹刀に似ている大きさのまた一つの島が描かれている. この島は下の朝鮮八道指導で言う事にして明らかなことはもう地理的情報が不正確になったというのだ.これはおかゆも下に 書かれている文でもっと明らかになる.“この島から 隠州(Oki島)を見られるし,また朝鮮を見られるなっている.” これは ‘この島で高麗を見ること’が可能だというウンズシチォングハブギの内容と違う.そして,実在鬱陵島では約 160キロ 落ちたOki島を見られない.

次にやっぱり 1785年にHayashiによって描かれて,彼が編纂した三国通覧図説にサムグックゾブヤングジドとともに積まれている朝鮮八道誌も(朝鮮八道之図)には 迎日湾右側に島が一つ描かれているのに ‘鬱陵島天産国(鬱陵嶋 千山国)’ でありなさい書かれている.ここで天産国と言う(のは)于山国が 過ち伝わったことと考えられる.
もうこの指導をサムグックゾブヤングジドと比べて見よう.朝鮮八道指導には鬱陵島だけ描かれていて,竹刀がない.サムグックゾブヤングジドには迎日湾 すぐ側,すなわち八道指導の鬱陵島にあたる所に似ている模様の名前いない島が描かれていて,東海真ん中竹刀(竹嶋)と 使った島が別にそうするんですある.サムグックゾブヤングジドは色を異にして国境を表示した.迎日湾前名前いない島と東海真ん中竹刀は 皆朝鮮のような黄色で塗られている.またおかゆも左側には ‘朝鮮の物’という文句が書かれているから,この島は確かに鬱陵島だ. この二つの地図を合して見れば鬱陵島一島がそれぞれ他の位置と名称で 2個描かれているということが分かる.

西洋勢力の影響がある前にもうちょっと具体的に言わばアルゴーノート-竹刀,ダズルレ-松都で連結させたジボルトの 日本図(1840年)が 出る前にもう ‘偽名の混乱’が起きていたする.このような地図の上の間違いは続くのに,仕事をしたのもいくつをもっと よく見よう.

1835年描かれた青鳥一統誌も(清朝一統地図).この指導には朝鮮の江原道の隣に鬱陵島と独島を鬱陵と資産(子山),すなわち 傘で描いて入れて二つの島が我が国の地と言うのは確かにしたが,鬱陵と資産(傘-独島)がすなわち竹刀と松都なのか分からなくて 日本近くにまた竹島とMatsushimaに表記した 2個の島を描いておいた.ところで日本に近いこの二つの島も色は 朝鮮の領土になっている.島が 4個になった.

1867年編纂された対日本邦停電も(大日本防正全図)は日本の各地方を色で区分してグリーン日本全国島だ.ここで鬱陵島と 独島は朝鮮の領土で描かれているのに,銀器北に二つの島で描かれている.ところで松都という名称はなくて,二つの島に かけて 竹島と表記している.松都が消えたことで見ることもできて,松都を竹刀の速度で見て二つの島を竹刀と通り名した 首都ある.

明治政府が樹立された後の 1878年描かれた大日本分遣信徒(大日本分見新図).この指導には日本も左側上端に朝鮮島を描いて 入れて,日本と違い単一色(黄色)で彩色したが,鬱陵島を 竹シマ,独島を 松シマ路表記して,朝鮮のように黄色で 描いて朝鮮の領土で表示した.ところが,? 松シマ街下上で 2個が描かれていて,竹刀 1個,松都 2個皆 3個の 島が描かれている.

便,がワカミが言及したように,1876年偽名の混乱が日本 朝野の問題で大きく取り扱いされるようになる事件が起こる.1876年 日本外務省には日本である 武藤平学(武藤一学)の ‘松島開拓之議’という建議書が提出される.この人はムツ(陸奥) 出身で “1873年で 1874年の間仕事上長崎とウラジオストックの間を何回往復したし,その途中松都という島を遠くから眺めたし, 島の中には住民がいなくて,自然産物が豊かだということを聞いてからは,ウラジオストック駐在日本である 瀬脇 貿易士無関を通じてこの島の 開拓院を出願した”つらくてある.この建議書には “松都と竹刀はいっしょに日本と朝鮮との間にあるが竹刀は朝鮮に近くて, 松都は日本に近いです.”,“本島には松が鬱蒼でいつも濃い青さを現わしているし鉱山もあると言います” と言ってからは, 木を伐採して鉱山を開発して燈台を設置しようと言っている.易しく分かるようにここで松都は彼らが伝統的に示した 独島ではなく鬱陵島だった.

鬱陵島東南の方に独島があるから,地図の上に竹刀が左側に松都が右側に現われることは当然だ.それで西洋勢力が入って来た 後アルゴーノートとダズルレ島もそれぞれ竹刀と松都で繋がれた.しかし,竹刀が朝鮮に近く描かれて松都が日本に近く 描かれたとして,言い換えれば独島が鬱陵島と日本間にあるというのが独島が日本の領土になることができる根拠になることはできない. 独島は日本の領土銀器もよりはゾソンタングが明らかな鬱陵島にずっと近くの島だ.

ムドングピョングハックは竹刀と松都がそれぞれどんな島なのか分からなかった.彼は鬱陵島を何回経ちながら遠くから森が生い茂っていることを見たし, ウラジオストックでアメリカであるコペルに会って “日本の速度に松都と言う島のあるのに日本がまだ開発に取り掛からなかった”, “松都に鉱山がある” などの言葉を聞いたのだ.そして,竹刀は朝鮮側に松都は日本側にあるという鯨の知識を持って あったから過ち描かれた地図の上に表記したダズルレ-松都がまさに自分が見た島で (竹刀とは違い)日本人の開拓が可能な 所と判断したのだ.それはアメリカであるコペルも同じだった.

日本の主張どおり当時多い日本指導に現われた松都は座標上鬱陵島だった.ところが,鬱陵島と独島に対する具体的情報がなかった だから,地図の上の松都が実在鬱陵島(竹刀)だったという事実が分からなかったしこのような誤解ができたのだ.この海域に対する無知は 日本政府も同じだった.松都に関する記録を持っていることができなかった日本政府はムドングピョングハックの建議書の受付された後松都が竹刀と 同じ島を言うのかそれとも二つの島なのか多くの説がまちまちな中判断を下げることができなかった.結局 1880年 日本軍艦多分期(天城)呼値現地を測量したし,地図の上松都はすなわち朝鮮の鬱陵到任が分かるようになった.開拓の建議が許諾されるの なかったのは勿論だ.

ムドングピョングハックの建議書が提出された後年の 1877年には島根県 士族 戸田敬義の ‘竹島渡海之願’が東京部知事前に提出された. おかゆもすなわち,鬱陵島を日本の部属島で開発したいから図解兔許を来月というのだ.上のムドングピョングハックとは違い好戦敬意は地域で 伝えて下る過去竹刀図解に対する話を聞くことができたし(請願書には彼が東京に引っ越す前その家には ‘竹島渡海記’という 小冊子も伝わって来たとなっている),そのため日本鯨の知識に基づいて鬱陵島を伝統的な呼称竹刀に呼んだのだ.
とにかくそのやっぱり鬱陵島に対して正確な知識は持っていることができなかった.しかし,この竹刀という呼称は鯨でゾソンタング鬱陵島を 示すことという事実は分かっていたし,その所は図解が厳格に禁止された所だからこの請願は中央政府に問い合わせされるのも ないまだ棄却された.

以上から 19世紀中盤偽名の混乱が起きていた日本ではこの海域に対する正確な情報がなかったということが分かって, そういう認識の混乱はもう 18世紀から始まっていたことをまた分かる.19世紀西世同点時代日本が西洋勢力の 誤った情報によって偽名の混乱を起こしたということは,日本がこの海域に対する知識が暗かったことに根本的な?原因があった のであって,その責任がただ西洋の誤った情報に起因したとできないのだ.それでは,日本がこの海域に対して無知だった 理由はどこにあったのか?上でよく見たようにこの海域が日本人が自由に行くことができなかった所だったからだ.その所は朝鮮の 領土だったからだ.日本が自国の領域に中にあった島の名称に混乱が惹起された理由に対して説明しようとしましたが,それは 結局この地域の仕事をした領域ではなかったことを反証しているのだ.
 
 
 




TITLE:独島博物館
DATE:2009/01/02 14:08

  • 最終更新:2009-03-06 13:18:58

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